第12章:正義の窒息
源三の隠れ家を出た瞬間に肺を突いたのは、冷たく乾いた瓦礫の粉塵だった。地下シェルターの琥珀色の贅沢は、厚い鉛の扉の向こう側で、まるで初めから存在しなかった幻影のように断絶された。
志藤のモンテカルロは、深夜の「ヒリヤード・セクター」を猛然と駆け抜ける。助手席に座る日向凱の指先は、まだ膝の上のタブレットに触れていた。そこには、先ほど自らの手で承認した「虚偽の報告書」が、消去不能なログとして『記憶の川』へ流し込まれた証拠が残っている。
「……私は、殺したんだ」
凱の呟きは、エンジンの咆哮にかき消されそうだった。
源三を撃ったのは志藤だ。だが、その死を「正当な執行」という名の真実へ書き換えたのは、他ならぬ自分だ。法を守るためにこの街に来た男が、法そのものを殺害する片棒を担いだ。
「気にするな、日向。お前が殺したのは老人じゃない。お前の中にこびりついていた、無能で邪魔な『良心』という名の重りだ」
志藤はハンドルを片手で操りながら、ダッシュボードから高級な葉巻を取り出した。車内を流れる「大和放送」のクラシック音楽が、窓外に広がる地獄絵図と残酷なまでに不協和音を奏でている。
「志藤さん、あなたは……最初からこれを狙っていたんですね。私を逃げ場のない場所に追い込んで、共犯者に仕立て上げる。それが今日の『トレーニング』の目的だったんだ」
「教育には痛みが伴う。だが、おかげでお前はもう、大和の甲板で甘っ気たっぷりの夢を見ている『羊』じゃない」
志藤は窓を開け、夜の東京に向かって煙を吐き出した。
脳内のナノマシン「ブルー・ゴースト」が凱の視神経を刺激し、志藤の横顔を異様な解像度で捉える。志藤の表情には、恩師を殺害したことへの後悔も、裏切りへの恐れも微塵もなかった。あるのは、すべてが自分の思い通りに動いているという、肥大化した全能感だけだ。
「見ろよ、この街を。三賢者の爺どもはドームの中で震え、ロシアの連中は俺の金を待っている。だが、今の俺は誰にも縛られない。源三の隠していた『YAMATO』、そしてお前の『署名』。これさえあれば、俺はこの街のルールそのものだ」
志藤は急にアクセルを踏み込んだ。加速Gが凱をシートに押し付ける。
「俺はキングコングをも凌駕する存在なんだよ!(I’m King Kong!)」
志藤が吠えた。その叫びは、壊滅したビル群に反響し、瓦礫の隙間で眠る避難民たちの耳を不快に叩いた。かつてはカリスマ執行官として慕われた男の顔は、いまや権力と欲望に飲み込まれ、怪物へと変貌していた。
凱は、窒息しそうな感覚に陥っていた。
正義を執行するために手にしたバッジは、いまや自分の首を絞める鎖に変わっている。志藤の車に乗っている限り、自分は安全だ。家族にランクSの配給を約束し、多摩のキャンプから救い出すこともできるだろう。だが、その代償に支払ったのは、自分自身の「魂」だった。
「志藤さん……どこへ行くんですか。ロシアの連中のところへ?」
「いや。その前に、お前を一人前の『狼』にするための、最後の仕上げが必要だ」
志藤の目が、バックミラー越しに凱を射抜いた。その瞳には、親しみやすさなど一片もなく、ただ利用価値がある駒を吟味するような、冷徹な計算だけが宿っていた。
「サバイバル・セクターに入る。そこは、大和のサーチライトも届かない、この世で最も暗い場所だ。そこでお前には、『恩義』と『裏切り』の本当の意味を学んでもらう」
モンテカルロは、再建の光が届かない闇の境界線を越えた。
凱は窓の外に目をやった。遠く東京湾の中央、戦艦大和の巨大なシルエットが、霧の中で微かに発光している。
かつては希望の灯火に見えたその姿が、今は自分たちのような捕食者を黙認し、死臭の漂う街をただ見下ろしているだけの、冷たい鉄の神殿に見えた。
日向凱は、自らの正義が死んだことを確信した。
そして、その死骸の上に、志藤蓮という名の絶対的な怪物が君臨していることを。
車は、ニコという名のギャングが支配する、狂った聖域へと向かって闇を切り裂いていった。




