第13章:ニコの聖域
志藤のモンテカルロが、瓦礫の山を縫うように走る。かつての港区から品川方面へと向かうにつれ、風景は一変していった。道路の両脇に等間隔で設置されていた、放射線を遮蔽する未来技術の街灯は姿を消し、空中を忙しなく行き交っていたドローンの羽音も止む。代わりに支配するのは、重く、沈黙した闇だ。
「ここから先は、『治安維持ライン』の外だ」
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志藤がハンドルの上で煙草を揉み消した。
前方には、自衛隊が策定した、復興の優先度によって区分けされた境界線――チェックポイントが見える 。志藤は、三賢者から与えられた「捜査令状」という名の免罪符を無造作に提示し、バリケードを突破した。
+1
境界を越えた瞬間、凱の脳内のナノマシン「ブルー・ゴースト」が、不快なノイズと共に激しい警告を発した。
「……除染ナノマシンが、機能していません。放射線量が異常です」
凱がタブレットの数値を指すと、志藤は冷笑した。
「当たり前だ。ここは『捨てられた街』だからな。除染ドームも、半透明の保護テント(ClamShell Tent)もここには届かない」
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そこは、2025年の東京再建計画から完全に零れ落ちた「サバイバル・セクター」だった 。
ビルは崩れたまま放置され、アスファルトの隙間からは放射能汚染に耐性を持つ不気味なバイオ植物が触手のように伸びている 。建物の影には、大和放送が流す「希望の歌」を聴く権利さえ奪われた人々が、野生動物のような鋭い眼光でこちらを睨んでいた。
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車は、かつての大規模団地跡を改造した武装集団の拠点に停車した。
周囲には、タトゥーを全身に纏い、ストリート・ファッションに身を包んだ屈強な男たちが、カスタマイズされた銃器を手に周囲を警戒している 。彼らは、システムの「外側」で独自の秩序を構築した、チカーノ・スタイルの武装集団だった 。
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「降りろ、日向。ここのリーダー、ニコを紹介してやる。……お前のバッジが通用しない、本当の狼だ」
志藤に促され、凱は震える足で地上に降りた。
拠点の中心にある、かつての集会所らしき建物に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。死の気配が漂うこの街で、一人の男が平然とキッチンに立ち、肉を焼いていたのである。
ニコ。 スキンヘッドに全身を覆うタトゥー、白いランニングシャツ。彼は、目の前の死の淵でさえ、日常のルーチンを崩さない不気味な落ち着きを纏っていた 。
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「遅かったな、執行官。ロシアの連中が、湾岸の『安全航路』で不穏な動きを見せているぞ」
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ニコは調理の手を止めず、鋭い視線を凱に向けた 。
「それが例の新人か? 羊の匂いがプンプンするな」
「教育中だ。ニコ、こいつをしばらく預かってくれ。俺は、三賢者との『最終調整』がある」
凱の背筋に冷たいものが走った。志藤は、自分をこの無法地帯に置き去りにしようとしている。
源三を射殺し、その報告書を捏造させた後で、自分という「証拠」を処分するつもりではないのか 。
「志藤さん、待ってください! なぜ私をここに?」
「言ったはずだ。恩義と裏切りの本当の意味を学べとな」
志藤は、凱の胸ぐらを掴み、その耳元で地獄の底から響くような声で囁いた。
「いいか、日向。この街で生き残るには、誰に『借り』を作り、誰を『切る』か、その嗅覚が必要なんだ。ニコは、それを誰よりも知っている」
志藤は、ニコに一枚の物理的なメモを渡し、そのまま足早にモンテカルロへと戻っていった 。
エンジンが咆哮を上げ、志藤の影が闇の向こうへと消えていく。
残された凱は、武装した男たちに囲まれたまま、ニコの前に立ち尽くした。
ニコは、焼き上がった人工肉のステーキを凱の前に差し出した 。
「食え。多摩のキャンプで食っている合成粉末よりはマシだ」
凱は、差し出された皿を拒否することもできず、震える手でフォークを握った。
周囲の男たちが、獲物を品定めするような無機質な視線で凱を見つめている。
彼らはシステムのバグではない。この壊滅した都市を食らい、自らの力で生存を証明し続ける、ストリートの暴力装置だった 。
「お前の財布、見せてもらおうか」
ニコの右腕、モレノが静かに銃口を凱に向けた 。
凱は、絶望的な孤独感の中で、自分がすでに「システムの庇護」を完全に失ったことを悟った。
戦艦大和のサーチライトも、空中回廊の監視カメラも、ここには届かない。
+1
あるのは、ニコという名の王が支配する、むき出しの弱肉強食の聖域だけだった。
「日向……お前は、自分が何のためにここへ来たと思っている?」
ニコが、キッチンナイフを凱の喉元に突きつけた。そのナイフの冷たさが、凱の正義という名の幻想を無慈悲に切り裂いていった。




