第三章:踏み切り線(リーンの“きっかけ”と、ためらいの死)
物流区画を抜けると、都市の骨格が露出してきた。
高架の下から、旧市街へ降りるスロープ。そこだけは照明が生きている――生きているというより、“監視が濃い”。壁面の広告ディスプレイが死んだまま点滅し、代わりに路肩のセンサー杭が、赤外で車体の姿勢角を測っていた。
追跡者は一台。
まだいる。音がする。姿は見えない。見えないのに、いると分かる。
距離の詰め方が、いちばん厄介なやつのそれだった。直線で焦ってこない。コーナーの出口で呼吸のように寄せてくる。あれは、私が“ためらう瞬間”だけを狙っている。
前方、連続する右左。
路面は乾いた部分と湿った部分がまだらで、継ぎ目が斜めに走っている。
こういう場所では、技術の差が露骨に出る。上手い奴は、危ない場所を避けるんじゃない。危ない場所の上で、入力を増やさない。危ない場所の上で“迷わない”。
私は、次の右コーナーで一度、速度を落とした。
落としたのは恐怖ではない。
この区画に入ると、風向きが変わる。高層の隙間から吹き下ろす風が、車体を横へ押す。押されたときに、バイクがどの程度“戻ろうとするか”。その戻りの癖を、いま確認しておきたかった。
右コーナーの入口。
私は進入でブレーキを短く当て、フロントへ荷重を乗せる。
そのまま、ブレーキを抜きながら倒し込みに入る――はずだった。
だが、視界の端に“白い線”が見えた。
路面に引かれた補修のペイント。濡れている。滑る。
滑るのが分かった瞬間、人間は本能的に入力を止める。止めると、バイクは直進を選ぶ。直進を選べば、コーナーは曲がれない。
ためらいは死だ。
私は一瞬だけ、胸の奥が冷えるのを感じた。
「このまま倒していいのか」
脳がそう問いかけてくる。
問いかけた瞬間、追跡者の銃声が重なった。
音が近い。弾はまだ当たっていないが、“当たる距離”に入ったという宣言だった。
私は決める。
決めるために、腕ではなく、体幹で息を締める。
そして、リーンのきっかけを作る。
ハンドルを大きく切らない。
切って曲がろうとすると、バイクは不安定になる。
私は、ほんの一瞬だけ逆方向へ押す。右に曲がりたいなら、右のグリップを“押す”。
短く、確実に。
その入力で車体が傾きはじめる。傾きはじめたら、もう迷わない。迷わないというのは、勢いで突っ込むことじゃない。入力を“増やし続けない”ことだ。最初の一撃で倒し込みを始め、あとはタイヤと荷重の仕事に任せる。
タイヤが濡れたペイントに触れる。
滑る感触が、来る――来ない。
滑らない。
滑らなかったのは運じゃない。車体が傾く前に余計な入力を入れなかったからだ。濡れた場所の上で、操作を増やすほど滑る。操作を増やさなければ、タイヤは案外、持ちこたえる。
コーナーの中盤で、私は“曲げ足す”誘惑を捨てた。
ラインがわずかに外へ膨らみそうになる。そこで人は、さらに寝かせるか、さらにハンドルに力を入れる。
どちらも、今の路面では危ない。
私は代わりに、視線を出口へ固定して、スロットルをほんの少し戻した。戻すと荷重が前へ寄り、曲がりが少し強くなる。
戻しすぎない。戻しすぎればリアが軽くなり、旋回の途中で不安定になる。
出口が近づく。
私は車体を起こしながら、スロットルを開ける。起こしながら開ける。
そのタイミングで、背後の追跡者が並びかけた気配がした。
狙いは体当たり。直線の入り口、私が加速に移る瞬間に横へ来て、押し出して終わらせる。
私は直線に入る寸前、わざと加速を遅らせた。
一拍だけ、遅らせる。
遅らせると、相手は“加速で並ぶ計算”を外す。
追跡者の車体が半車線ぶん前へ出た。出た瞬間――私は開ける。
遅らせた分だけ、いま開けてもトラクションに余力がある。余力があるから、車体はまっすぐ前へ出る。
追跡者が振り返るようにラインを修正する。
修正が大きい。大きい修正は、次のコーナーで破綻する。
次は左。低速寄り。
ここでバイクは、急に曲がりにくくなる。速度が落ちるほど、車体は倒れたがらない。倒れたがらないから、人はハンドルをこじる。こじると、フロントが逃げる。逃げると転ぶ。
私は低速の入口で、リーン“だけ”を頼りにしない。
車体を倒すきっかけを、もう一度作る。
短い逆入力。
そして、倒れたら、倒れた角度を維持する。
維持するために、外足に荷重をかける。腕で支えない。腕で支えると、入力がブレる。
追跡者の銃声。
今度は近い。弾が路面を削り、左足のつま先の数十センチ前で火花が跳ねた。
私は瞬間的に体を固くしそうになる。固くなれば、バイクが暴れる。
暴れる前に、私は息を吐く。吐いて、体の余計な力を捨てる。
コーナー出口。
狭い路地へ入る。
そこはさらに低速。しかも路面が荒れている。
低速は、戦闘の最悪の舞台だ。速度がないほど、相手の銃が正確になる。相手の体当たりが効く。こちらは加速で逃げられない。
だが、低速には低速の武器がある。
「曲げる意思」だ。
私は路地の入口で、強く曲げる。
強く曲げるといっても、乱暴に切るのではない。
きっかけを明確にする。
ためらわず、最初の入力を決めて、車体を“こちらの都合で”倒す。
その一瞬が決まれば、低速でもバイクは曲がる。
決まらなければ、バイクは直進し、壁に刺さる。
背後で追跡者が同じ路地へ入ろうとした。
だが彼は一拍遅れた。
遅れたのは、路地が狭すぎたからだ。
狭い場所では、上手い奴ほど慎重になる。慎重になるほど、ためらいが生まれる。
私はそのためらいを、技術で殺している。
路地の中ほど、私は左へ折れる直角コーナーに入った。
ここで車体を寝かせたままブレーキを握れば、転ぶ。
私は直前で速度を“必要な分だけ”落とし、車体を立て、曲がる瞬間にだけ倒す。
立てて止める。倒して曲がる。
その切り替えを、滑らかにやる。
角を抜けた瞬間、都市の空気が変わった。
湿気が減り、冷たい金属臭が増える。
ここは旧地下鉄の換気坑の近くだ。地下街区へ降りる入り口がある。
背中のケースがまた鳴った。紙が揺れた音。
――あと少しで届けられる。
だが、その瞬間に、上空のドローンが低く唸った。
赤外線のラインが、私の前方の地面に細く引かれる。
狙撃の予告線。
出口を塞ぐための、合図。
私は決める。
決めるしかない。
この章で学んだことは単純だ。
曲がるために必要なのは、知識でも、勇気でもない。
「ためらいを操作に変換しない」こと。
その一点だけが、生き残りの条件になる。
私はアクセルを少しだけ開け、次のコーナーへ視線を投げた。
踏み切り線は、もう目の前にある。
(第三章・了)




