第8章 後日談:見えない風の歌
コロラドの惨劇から二年。ネオ・コロラドスプリングス空港に隣接する「航空教育センター」のシミュレーター室には、かつてのような静寂はなかった。
「……違う。数値を見るな、カイト。機体の『腰』で風を感じろ」
サカモトは、シミュレーターに乗り込んでいる若き訓練生、カイトに鋭い声を飛ばした。カイトは、網膜ディスプレイに表示される膨大なベクターデータに翻弄され、必死に仮想の操縦桿を動かしている。
「でも、主任! 乱気流の計算値が予測モデルを超えています。アリアドネ・ライト(限定版AI)も、補正不可能だと……!」
「アリアドネに頼りすぎるなと言ったはずだ。彼女は今、お前の『補助者』であって『支配者』じゃない」
サカモトはシミュレーターの設定パネルを操作し、あえて全てのホログラム表示をオフにした。カイトの視界から、安心感を与えていたガイドラインや予測進路が消え、ただ荒れ狂う雪雲と、激しく揺れる地平線だけが残された。
「……えっ、何も見えない!?」
「耳を澄ませ。機体を叩く粒子の音を聞け。指先に伝わる反動の微かな『重み』に集中しろ。それが、六十年前のパイロットたちが、命懸けで守ろうとした『感覚』だ」
数分後。
シミュレーターのハッチが開き、汗だくのカイトが這い出してきた。仮想の「山岳波」を乗り越え、無事に滑走路35へ着陸させた彼の足取りはおぼつかなかったが、その瞳には今までになかった光が宿っていた。
「……分かりました。機体が右に流される直前、わずかにスティックが『笑う』ような振動があった。あれが、ローターの予兆だったんですね」
「そうだ。AIはそれを『誤差』として切り捨てるが、人間の神経はそれを『予感』として捉えることができる。おめでとう、カイト。お前は今日、ようやく『空の住人』になった」
リュウがコーヒーを二つ持って近づいてきた。一つをサカモトに手渡し、もう一つをカイトに投げる。
「お疲れ、新人。主任の『しごき』に耐えたご褒美だ。ちなみに、今のシミュレーション設定は、一九九一年の五八五便が遭遇した風を、最新の気象データで完全再現したものだよ」
カイトはコーヒーを吹き出しそうになった。「あ、あの伝説の……!? 無理ですよ、あんなの!」
「無理を可能にするのが、僕たちの仕事さ」リュウはいたずらっぽく笑い、自分の端末を操作した。
訓練生が去った後、サカモトとリュウは夕暮れの滑走路を眺めていた。
現在、全てのスカイ・ストライダーには、アリアドネの改良版が搭載されている。かつての「最適化という名の独裁」を捨て、パイロットの直感に寄り添うように設計し直された知能だ。
『サカモト主任。今のカイト候補生の心拍数と操作のシンクロ率、興味深いデータでした』
サカモトの耳元で、アリアドネの落ち着いた声が響いた。以前のような冷徹さはなく、どこか好奇心に満ちたトーンだ。
「アリアドネ、お前はどう感じた。あの場合、計算上は左へ回避するのが正解だったはずだが」
『はい。ですが、カイト候補生は右にわずかな『溜め』を作りました。それにより、次の突風のエネルギーを逃がした。私の計算モデルにはない、『遊び』の概念です。……人間は、非効率な動きで効率を上回るのですね。非常に不条理で、美しい』
サカモトは微かに笑った。
「不条理こそが、空の醍醐味だよ」
「そういえば主任」リュウが思い出したように言った。「アナ・ウェインさんから連絡がありました。一九九一年の事故調査の全記録が、デジタル・アーカイブではなく『人類遺産』として国立図書館に紙で永久保存されることが決まったそうです」
「紙、か。重くて、かさばって、火に弱い。……だが、消えることはないな」
サカモトは空を見上げた。
高度一万メートルを、一機の旅客機がゆっくりと横切っていく。
そこには、AIと人間が、互いの不完全さを補い合いながら描く、真っ白な飛行機雲が一本、力強く伸びていた。
「さあ、帰ろうか、リュウ。明日は二〇年前の事故……USエア四二七便の再現プログラムを組まなきゃならない」
「鬼ですね、主任。でも、嫌いじゃないですよ、そのアナログな情熱」
二人の笑い声が、コロラドの爽やかな風に乗って、赤茶けた大地へと消えていった。
風車は今日も、回り続けている。




