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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン27

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第十二章:最初の一行


 砂塵が、すべてを覆い隠そうとしていた。

 評議会のヘリが去った後の「静寂の街」には、以前のそれとは異なる、ひどく重苦しく、それでいてどこか清々しい静寂が横たわっていた。空にはまだ、アーサー・グレイが操る監視衛星の死角をつくように、薄い月が浮かんでいる。だが、その光はもはや、地上の人間を縛り付ける「神の目」としての威厳を失っていた。


 リアム・ケインは、崩れ落ちた写字室の入り口に座り込み、自らの掌を見つめた。爪の間には黒いインクと、乾いた泥、そして拭いきれない血がこびりついている。かつて「真贋官」として、画面上の情報の真偽をコンマ数秒で判定していた頃の指先とは、似ても似つかない、泥臭く、不器用な、一人の男の手だった。


「終わったんだな、リアム」


 背後から、バラドが声をかけた。彼の肩には即席の包帯が巻かれ、その足取りは重かったが、その瞳には確かな力が戻っていた。彼の腕には、あの血に染まった農耕ノートが、まるで聖遺物のように大切に抱えられている。


「ああ、少なくとも『彼ら』の支配は、ここまでは届かない」


 リアムは立ち上がり、街の広場へと視線を向けた。

 そこでは、生き残った住民たちが、瓦礫の中から焼け残った紙片を拾い集めていた。ある者は涙を流し、ある者は無言で、文字通り「文明の破片」を繋ぎ合わせようとしている。アーサーの部隊は、物理的な破壊によって情報を抹殺しようとした。だが、彼らが計算に入れていなかったのは、一度その身に「言葉」を宿した人間の強靭さだった。


「ナジブ総督は?」


 リアムの問いに、バラドは静かに宮殿の奥を指差した。

 そこには、かつて「審問」が行われたあの石の執務室があった。天井は崩落し、月明かりがスポットライトのように室内を照らしている。ナジブは、その光の中に、毅然と座っていた。彼の愛用していた黒檀の机は真っ二つに割れていたが、彼はその残骸の上に、一冊の真新しい、何も書かれていない白紙の本を広げていた。


 リアムが近づくと、ナジブはゆっくりと顔を上げた。その顔には、深い疲労と、それ以上の、何かを成し遂げた男の平穏があった。


「リアム・ケイン。……いや、今はただの『リアム』と呼ぼうか。君は、自分の指で電話を切った。それは、この数十年で人類が行った、最も勇敢で、最もアナログな決断だったよ」


 ナジブは、傍らに置かれた銀のインク壺に、鳥の羽ペンを浸した。


「アーサー・グレイは、今頃地下のアーカイブで、自分のスクリーンが砂嵐に変わったのを見て、発狂しているだろう。彼は情報を『管理』できると信じていた。だが、管理されるのは死んだデータだけだ。生きている言葉は、管理を拒み、時にこのように……火を吹いて世界を焼き直す」


「総督、あのノートの技術は……」


「バラドたちがすでに、広場で『唱和』を始めている。もう、紙が燃えることを恐れる必要はない。一人が忘れれば、隣の者が補う。千人が覚えれば、それは不滅のインクとなって大地に染み込む。……アーサーの言う『効率』とは無縁の、あまりに不器用で、美しいバックアップだ」


 ナジブはペンをリアムに差し出した。


「書きなさい、リアム。君が、この荒野を越えて運んできたのは、単なる農耕の処方箋ではない。君自身の意志という名の、最初の一行だ。アーサーのシナリオを書き換えるのは、君でなければならない」


 リアムは躊躇いながらも、その羽ペンを受け取った。

 それは驚くほど軽かった。だが、その先端に宿ったインクの重みは、かつて彼が扱ってきたどんなデジタルデータよりも切実に、彼の魂を揺さぶった。


 彼は白紙のページの先頭に、ペンを置いた。

 その時、彼の脳裏に、アーサーの声が掠めた。レオの笑い声が、遠い幻聴のように響いた。

 アーサー。あんたは今、その清潔な部屋で、何を食べている?

 あんたが守ろうとした『秩序』の果てに、この泥の匂いはあるか?

 あんたの息子が描いた『騎士』は、今、本物の剣を捨てて、一本のペンを握っている。


 リアムは、力を込めて書き始めた。

 

『我々は大沈黙の中にいたのではない。あまりに多くの雑音に、自らの声を奪われていただけだ』


 一文字、一文字。

 ペンが紙を引っ掻く音だけが、広間に響く。それは、衛星通信のビット音でも、ヘリの爆音でもない、人間が世界と対話するための、最も原始的で、最も高潔な音だった。


『知識は、独占されるための金塊ではない。それは、誰かの喉を潤すための水であり、分かち合うことで初めて意味を成す。……我々は今、情報の所有者であることを辞め、真実の語り部となる』


 リアムが書き終えた時、ナジブは満足そうに深く頷いた。


「……良い一行だ。歴史は、こうして再び、人の手によって紡がれ始める」


 夜明けが近づいていた。

 砂漠の地平線が、紫から黄金色へと溶け出していく。

 リアムはナジブとバラドを伴って、瓦礫の山となった宮殿の外へと出た。


 そこには、昨夜の惨劇が嘘のような、静謐な朝の空気が満ちていた。

 リアムはふと、足元に視線を落とした。

 黒く焦げた地面、評議会の掃射によって穴だらけになった土壌の端に、一輪の小さな、名前も知らない白い花が咲いていた。


 それは、ナジブの街の給水管が破壊され、漏れ出したわずかな水が、偶然にも砂の下に眠っていた古の種を目覚めさせたものだった。

 アーサーの計算には入っていない、不確定で、非効率な、奇跡の産物。


「……見てください。咲いていますよ」


 リアムが呟くと、バラドがその傍らに跪き、汚れた指先で優しく花弁に触れた。


「ああ。来年の春には、これが一面に広がるだろう。ノートの教え通りに、私たちがこの土を守ればな」


 上空では、アーサー・グレイの衛星が、最後の一周を終えようとしていた。

 バッテリーの限界か、あるいは地上からの通信を完全に拒絶されたことによる自律的な機能停止か。その光は、朝日の中に吸い込まれるようにして、次第に淡く、頼りなくなっていく。


 リアムはもう、空を見上げなかった。

 彼の前には、広大な、しかし確かな広がりを持った現実の世界が広がっている。

 馬のいななき、パンを焼く煙の匂い、そして子供たちが新しい文字を覚えようと唱える、たどたどしい声。


 ジャスト・イン・タイムの魔法は消え、世界は再び「待つこと」と「信じること」を学ばなければならない時代に戻った。

 情報は、瞬時に届くことはない。

 だが、一人の人間が歩いて運び、別の人間がそれを真摯に受け取る。その間に生まれる「信頼」という名の時間こそが、崩壊した文明を再生させる唯一の栄養剤なのだ。


 リアムは、腰に下げていた空の水筒を外し、地面に置いた。

 そして、バラドから受け取った農耕ノートを、広場で待つ若者たちへと手渡した。


「行こう。……次は、何を書き留めるべきか、みんなで相談しなきゃならない」


 リアムは歩き出した。

 砂を噛み、風に吹かれ、一歩一歩の重みを感じながら。

 背後には、彼が記した「最初の一行」が刻まれた本が、ナジブの手によって大切に閉じられ、新しい時代の書庫へと運ばれていった。


 通信は、もう必要ない。

 心臓の鼓動が、そして隣を歩く者の温もりが、今、世界で最も正確な「真実」を告げていた。


 「最後のアナログ」と呼ばれた彼らは、今や「最初の人間」として、

 太陽の光が降り注ぐ、沈黙の向こう側へと、確かな足跡を刻み始めた。


 砂漠の風が、彼らの背中を優しく押し、

 新しく紡がれる歴史の、清々しいインクの匂いを、遠い地平線へと運んでいった

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