第十一章:電話を切る日
空は、暴力的なまでの蒼さに塗りつぶされていた。
ナジブの街「静寂の街」を包囲した評議会のヘリ部隊が巻き上げる砂塵が、太陽の光を乱反射させ、地上の惨状をぼやけさせている。広場には鎮圧用ガスが立ち込め、かつて知識を唱和していた子供たちの声は、今は絶え間ない咳き込みと、名もなき悲鳴へと変わっていた。
リアム・ケインは、崩落した時計塔の頂上付近、焼け焦げた梁に背を預けていた。彼の手には、一度は踏み砕いたはずのレシーバーの「予備」があった。脱出の際、バラドが護身用にと渡してくれた、かつての工作員たちの遺物だ。
彼は震える指で、ダイヤルを回した。
数秒のノイズの後、あの男の声が、あまりに場違いな静謐さを伴って鼓膜に滑り込んできた。
『……戻ってきたか、リアム。ようやく頭が冷えたようだな』
アーサー・グレイの声だ。背景には、バッハのチェロ組曲が微かに流れている。彼は今、地下のアーカイブで、上質な赤ワインでも傾けながら、この「処理」の推移を眺めているのだろう。
「アーサー……。あんたの部下たちが、今ここで何をしているか知っているのか。彼らは、逃げ惑う人々の背中を撃ち、数世紀分の写本を暖炉の薪のように燃やしている。これがあんたの言う『秩序の再建』か?」
『情報の統合には、摩擦がつきものだ』アーサーは溜息混じりに、諭すような口調で言った。『ナジブが守っていたのは、腐敗した過去の残滓だ。彼が情報を独占し、神格化することで、地域の発展は数十年遅れた。我々がそれを解体し、標準化された教育と管理を導入する。数年後には、ここも電気が通り、人々は空腹を忘れる。……そのための、必要なコストだ』
「コストだと? ここで流れているのは、あんたの画面に映る赤いドットじゃない。本物の、熱い血だ」
『感情的になるな、リアム。お前が見ているのは局所的な事象に過ぎない。私は衛星を通して、数十年後のこの土地の繁栄を見据えている。……ああ、レオが呼んでいる。また騎士さんの話をしてくれとね。お前が英雄として帰還するのを、彼は心待ちにしているよ』
レオ。その名前を聞いた瞬間、リアムの心の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
「アーサー。あんたはレオに、どう説明するつもりだ? パパが救った街では、子供たちが火炎放射器で焼かれ、本を読んでいた先生たちは反逆者として処刑された……そう語るのか?」
『彼はそれを知る必要はない。彼が生きる未来は、私が浄化した後の世界だからだ』
「浄化だと……!」
リアムは立ち上がった。爆風が彼の顔を打ち、砂が目に入るが、彼は瞬き一つしなかった。
彼は視線を上げ、頭上の蒼穹の彼方、見えない「神の目」が存在する一点を凝視した。
「アーサー、あんたの負けだ。あんたは衛星写真で、ナジブが処刑される瞬間を撮りたいんだろう? だが、あんたのレンズは、俺たちの心までは解像できない」
『何の話だ? ナジブはすでに確保された。情報の断絶は完了したんだ』
「いや、終わっていない。ナジブが死んでも、バラドと子供たちが、あの農耕ノートの内容を覚えている。俺が自分の血で書き換えた『最後の一行』を、彼らは今、地下の暗闇で復唱している。それはあんたのアーカイブには存在しない、生きた言葉だ」
『……リアム。最後通告だ。今すぐ投降し、ナジブの残党が隠れている場所を教えろ。さもなければ、衛星からの熱線照射を許可する。お前も、その子供たちも、まとめて蒸発することになる』
「やってみろよ」
リアムは、レシーバーを口元に近づけた。その声には、もはや怒りも、躊躇いもなかった。
「アーサー。あんたはいつも『情報こそが武器だ』と言っていたな。……なら、俺からあんたに、最後の情報をやる。……俺は今、あんたを、俺の人生から完全に削除する(デリート)。」
『何だと? 待て、リアム――』
「さよならだ、アーサー。……現実の世界で、会いに行くよ。あんたが一番恐れている、土の匂いと、血の熱さを持ってな」
リアムは、レシーバーを握りしめると、それを高く掲げた。
そして、力一杯、それを時計塔の石の床へと叩きつけた。
パキリ、という硬質な音が響き、真空管とアナログ基板が粉々に砕け散った。
耳元を支配していたアーサーの冷徹な声も、レオの無垢な笑い声も、一瞬にして消え去った。
訪れたのは、本物の、圧倒的な「静寂」だった。
いや、それは静寂ではなかった。
風の唸り、火の爆ぜる音、そして遠くでバラドたちが唱和する、命の重みを宿した言葉のリズム。
リアムは、腰のホルスターから、重厚な物理的証拠としての銃を抜いた。
彼はもう、誰の駒でもない。
「神の視点」から切り離され、一人の人間として、この泥濘の地に足をつけた。
「……電話は、切ったぞ」
リアムは独り言を漏らし、焼け焦げた塔を駆け降りた。
空では、アーサーの衛星がまだ無機質な光を放ち続けていたが、リアムは二度とそれを見上げることはなかった。
彼は、煙に包まれた広場へと飛び出した。
そこには、評議会の兵士たちが、突然の通信断絶に困惑し、キョロキョロと周囲を見渡していた。
リアムは迷わず、一歩を踏み出した。
情報の断絶ではない。
これは、信頼という名のアナログな絆を、自らの肉体で繋ぎ直すための、反撃の始まりだった。




