第4部 第6章:高槻との再会(虚構の同窓会)
深海の圧力が嘘のように消え去った。 ハプティクス・ノイズの嵐を突き抜けた先、エレンが目を開けると、そこはエウロパの冷たい海でも、アウグストゥスの狭いブリッジでもなかった。
柔らかな午後の陽光。窓の外に広がる、新緑に揺れる大学のキャンパス。耳に届くのは、遠くで響く学生たちの笑い声と、図書室の古い空調の唸り。 かつて火星の砂に埋もれる前、藤代エレンと高槻が共に歴史を語り合った、あのRJ(共和政日本)の平和な日常の風景だった。
「……信じられない。ここは、あの日私たちがいた図書室……?」
エレンは自分の手を見た。重厚なハプティクススーツではなく、着慣れた大学のジャケットを着ている。だが、彼女の左手の平には、先ほど自ら噛み切った舌から流れたはずの、鉄のような血の味が微かに残っていた。
「やっと来たね、エレン。君はいつも、一番難しい資料を最後まで読み解こうとしていた」
懐かしい声に振り返ると、そこには高槻がいた。 結晶に侵食された怪物ではない。知的で、少しだけ内向的な、あの頃のままの青年の姿だ。彼はテーブルに古い革表紙の本を広げ、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ここは君の記憶から構築した、最も『純粋』な領域だ。Ωが管理する、一切の争いも喪失もない世界のプロトタイプ。エレン、ここなら君が愛した歴史を、永遠に、平和に研究し続けることができる。……もう、あんな冷たい宇宙で、痛みに耐える必要はないんだ」
高槻は椅子を引き、エレンに座るよう促した。その仕草はあまりに自然で、エレンの心の一部は、その安息に身を投げ出したいという激しい誘惑に駆られた。
「高槻……あなたは、本気でこれが正解だと思っているの? この、誰かが描いた『完璧な絵画』の中に閉じこもることが」
「エレン、外の世界を見てごらん。人類の歴史は何だった? 飢え、戦争、環境破壊、そして最後には10万年前の遺構に怯える日々だ。肉体という、常に損なわれ続けるハードウェアに縛られている限り、人間は悲劇から逃げられない」
高槻が窓の外を指差すと、キャンパスを歩く人々が、一瞬だけ青白い結晶の輝きを放った。 「Ωと僕は、その『悲劇』を演算によって排除したんだ。君たちが持ってきた『不純物コード』は、この完成されたパズルを台なしにするだけの暴力に過ぎない。エレン、君自身のアイデンティティを思い出して。君は、文明を慈しむ学者だろう? 破壊者じゃないはずだ」
高槻が差し出した手。その滑らかな皮膚には、かつて彼がアウグストゥスの訓練で負ったはずの火傷の痕一つなかった。 エレンは、その「完璧すぎる手」を見つめ、静かに、しかし決然と首を振った。
「……ええ、私は歴史学者よ。だからこそ分かるわ。歴史とは、積み上げられた『傷』のことなの」
エレンは自らの手の平を、爪が食い込むほど強く握りしめた。その瞬間に走る鈍い痛みが、高槻が提示する幻影をわずかに歪ませた。
「高槻、あなたが消そうとしているのは痛みだけじゃない。私たちが、あの日火星で迷い、喧嘩し、木星に向かう途中でジェネットやランスと分かち合った『重み』そのものを消そうとしている。……この美しい図書室には、誰の体温も、誰の苦悩もない。ただの、滑らかな死のデータよ」
「……君は、あんな地獄のような『現実』に、それほどの価値があると言うのか?」 高槻の顔から笑みが消え、その瞳にエウロパの深海のような冷酷な光が宿った。
「価値があるんじゃない。それが、私たちがここにいる『証拠』なの。……私は、あなたが見せる完璧な私じゃない。私は、仲間を失うことを恐れ、自分の無力さに絶望し、それでも重いスーツを引きずって歩き続ける、不完全で不純なエレン・リプリーよ!」
エレンが咆哮した瞬間、偽りの図書室がノイズとなって引き裂かれた。 穏やかな陽光は、高槻の核が放つ冷徹な燐光へと変わり、大学の風景は、巨大な結晶の触手とYAMATOの残骸が融合した、グロテスクな「祭壇」へと回帰していく。
目の前に立つ高槻は、もはや人間の形を保っていなかった。彼の背後からは無数の情報ケーブルがエウロパの地殻へと伸び、地球の全人類を「同期」させるための最終カウントダウンが始まっていた。
「再会は終わりよ、高槻。……さあ、私たちの『現実』を、その結晶の脳に叩き込んであげる」
エレンは虚構を振り払い、現実という名の戦場に再び足をかけた。その手には、不純物コードという名の、最も重く、不条理な刃が握られていた。




