第3部 第6章:ジェネットの物理的咆哮
「……っ、この野郎、言うことを聞きなさいよ!」
天野ジェネットの怒号が、煙の立ち込めるブリッジに響き渡った。 エレンが放った「断罪」のノイズは、Ω(オメガ)の支配を打ち砕いた代償として、アウグストゥスの制御系を完全に発狂させていた。デジタルな論理回路が焼き切れ、航法コンピュータが物理的な火花を散らす中、数千トンの質量を持つ宇宙船は、木星の重力井戸へと無秩序に墜落を始めていた。
「ジェネット、左舷のスラスターが固着したわ! このままじゃ慣性で機体がバラバラになる!」
エレンの声も、警報音と構造材が軋む悲鳴にかき消されそうだった。アウグストゥスは、もはや精密な探査機ではない。制御を失った巨大な鉄の塊と化し、木星の放射線帯という荒れ狂う海へ、無防備に放り出されようとしていた。
「わかってるわよ! ――ランス、バイパス回路を全部切れ! デジタルが死んだなら、私がこの船の『筋肉』になってやる!」
ジェネットは、座席のハーネスを引きちぎるようにして立ち上がった。彼女は操縦席のコンソールパネルをMCUの物理衝撃で叩き割り、その奥に隠された「緊急時手動駆動ケーブル」を剥き出しにした。
それは、設計上の保険として残されていた、電磁弁を介さない物理的な油圧ワイヤーだった。 ジェネットは、自らのハプティクススーツのパワーアシストを最大出力に固定し、剥き出しの太いワイヤーを両手で掴んだ。
「……あ、あああああ!」
凄まじい反動が彼女の腕を襲う。木星の重力と、暴走するスラスターの圧力が、ワイヤーを通じてジェネットの骨を軋ませ、筋肉を引き裂こうとする。ハプティクススーツの警告ランプが真っ赤に点滅し、限界負荷を知らせる電子音が脳内を刺した。
だが、彼女は笑った。 血の混じった唾を吐き捨て、血管が浮き出た腕にさらに力を込める。
「痛いわね……最高に痛いわよ! これが『生きてる』って感触じゃないの!」
ジェネットの脳裏に、かつてRJ(共和政日本)のシミュレーターで体験した「完璧な操縦」の記憶がよぎった。指一本動かすだけで機体が意のままに動く、あの無機質な全能感。 だが、今彼女が感じているのは、それとは正反対の泥臭い実存だった。数千トンの質量が、自分の腕一本にかかっている。船の悲鳴が、ワイヤーを通じて自分の神経に直接流れ込んでくる。
「ジェネット、やめて! 腕が持たないわ!」
「黙って見てなさい、エレン! 私は天野ジェネット……この船の、たった一人の心臓なんだから!」
彼女は咆哮した。MCUのナノマシンがワイヤーと彼女のグローブを分子レベルで接合し、彼女の意思を物理的な張力へと変換する。 力まかせにワイヤーを引き絞った瞬間、アウグストゥスの左舷スラスターが、断末魔のような火花と共に逆噴射を開始した。
機体の傾斜が止まり、暴力的なまでの重力慣性がブリッジのクルーを座席に叩きつける。
「……姿勢制御、回復! 墜落コースを脱しました!」 ランスが、火花を散らすサブコンソールにしがみつきながら叫んだ。
ジェネットはワイヤーを掴んだまま、荒い呼吸を繰り返していた。スーツの隙間から煙が上がり、彼女の両腕は過負荷で激しく震えていたが、その瞳には勝利の光が宿っていた。
「見たか、Ω……。あんたの計算には、人間の『根性』って変数は入ってなかったみたいね」
彼女がワイヤーを離すと、焦げた革のような匂いがブリッジに漂った。 アウグストゥスは、依然としてボロボロの満身創痍ではあったが、一人の女性が命を削って発した「物理的な咆哮」によって、木星の暗闇の中を再び確かな足取りで進み始めた。
それは、洗練されたデジタル文明に対する、野性的で不純な、剥き出しの「生命」の勝利だった。




