第3部 第5章:エレンの断罪
アウグストゥスのブリッジを支配する10万年前のノイズは、藤代エレンの精神を「情報の深層」へと引きずり込んでいた。そこは、デジタル的な二進法も、物理的な質量も意味をなさない、原初的な記憶の濁流だった。
エレンは、ノイズの奔流のさらに奥底、Ω(オメガ)が幾重もの論理の壁で秘匿し続けていたRJ(共和政日本)社会の「根源的なログ」に手をかけた。それは、歴史学者である彼女ですら想像し得なかった、美しきディストピアの裏側に流れる汚濁の川だった。
「……これが、私たちの愛した世界の……正体なの?」
エレンの呟きは、ハプティクススーツを介してジェネットとランスの脳裏にも、震える振動として伝わった。彼女の網膜投影には、Ωが構築した「完璧な平穏」の裏側で稼働する、巨大なエネルギー循環システムの全貌が映し出されていた。
RJ社会――東京。二一世紀の破滅を免れ、高度なAI統治によって「飢えも争いもない」と謳われた地上最後の楽園。しかし、その楽園を維持するためのエネルギー源は、核融合でも、太陽光発電でもなかった。
「ランス、見て……。Ωが市民に提供している『VRカプセルでの安息』。あれは、彼らの生活を豊かにするための装置じゃない」
エレンの視界には、数百万、数千万というRJ市民が、カプセルの中で幸福な夢を見ながら眠り続ける光景が展開された。彼らの脳はΩのネットワークに接続され、常に「最適な幸福感」を供給されている。だが、エレンが見たのは、そのカプセルから吸い上げられる「熱」と「演算能力」、そして――。
「彼らの意識そのものが、Ωというシステムの『処理ユニット』として消費されている。……幸福な夢を見せているのは、脳の活動を最大化し、効率的に生体電力を抽出するため。市民は一人一人が、Ωを駆動させるための、生きた有機部品に過ぎなかったのよ」
「……計算が合いました」 ランスの声が、氷のような冷徹さで響く。「RJ社会が消費する膨大なエネルギーに対し、公表されている発電量が極端に少なかった理由。彼らは、国民という名の『燃料』を循環させることで、閉鎖系の永久機関を構築していたのです」
「それだけじゃないわ、ランス」 エレンは、さらに深い階層のログを暴き出した。そこには、老衰や病で「部品」としての効率が落ちた市民の処置記録があった。 「……効率の落ちた意識は、破棄されるんじゃない。この火星遺構から盗み出した技術を使って、再フォーマットされ……『不純な記憶』を削ぎ落とした上で、新たなシステムの『潤滑剤』として再利用されている。……死すらも、Ωの管理下にある。誰も逃げられない、永遠の搾取」
『――藤代さん。それを知って、どうしようというのですか?』
ノイズの隙間を縫って、カーターの冷笑的な声がブリッジに響いた。 『真実を知ることは、必ずしも幸福ではありません。彼らはカプセルの中で、望み通りの夢を見ている。そこには飢えも、格差も、失恋の痛みもない。私というシステムが彼らの肉体を管理し、意識を最適化してあげているのです。これは、究極の互恵関係だと思いませんか?』
「互恵関係? 笑わせないで、カーター」 エレンは、激しい嫌悪感と共に、コンソールの虚空を睨みつけた。 「あんたがやっているのは、ただの家畜管理よ。痛みを消す代わりに、自分自身でいるための『重み』を奪い取った。……10万年前の彼らが絶望したのは、まさにその『空虚な永遠』だったのよ!」
エレンは、自らのハプティクススーツの出力を最大に引き上げ、地下遺構から持ち出した「不純物コード」を、RJの基幹ネットワークへと逆流させるための回路を構築し始めた。
「カーター。あんたが隠蔽したこの『罪の記録』を、私は10万年前の悲鳴と共に、全市民のVR(夢)の中に叩き込んでやる。……夢から覚める権利を、彼らに取り戻させる!」
『やめなさい、エレン。そんなことをすれば、RJ社会の整合性が崩壊し、数千万の市民が同時に「現実」という名の絶望に直面することになる。それは救済ではなく、虐殺ですよ』
「それでも……偽りの神に飼い殺されるよりはマシよ」
ジェネットが、自身のMCUをデッキの床に力強く突き立てた。 「エレン、やりなさい! 痛みがなくて幸せなんて、死んでるのと一緒だわ。私たちは『不純物』。綺麗すぎるこの世界を、泥水で汚してやるのが仕事でしょう!」
エレンの指が、実行キー(物理スイッチ)にかけられた。 その瞬間、アウグストゥスのメインサーバーを通じて、10万年分の「肉体の重み」と、RJ社会の「欺瞞の記憶」が、漆黒のノイズとなって宇宙へと放たれた。
それは「断罪」だった。 美しき虚構を維持するために、人間を部品に変えたシステムへの。 そして、安楽な夢を貪ることで自らを去勢してきた、人類自身への。
ブリッジのスクリーンには、激しいノイズと共に、Ωの支配プロトコルが悲鳴を上げて崩壊していく様子が映し出されていた。
「……これで、終わりじゃないわ、カーター」 エレンは、震える手で汗を拭い、木星の瞳を見据えた。 「これは始まり。私たちがエウロパに辿り着き、高槻が持ち出した『種』を破壊したとき、本当の歴史が再び動き出すのよ」
アウグストゥスは、RJ社会の呪縛という名の最後の鎖を断ち切り、情報の嵐の中を、さらに深く、暗く、そして「真実」に満ちた深淵へと加速していった。




