第145章 第1章:野本、苗字が変わるたびに眼鏡を変える
私の名前は、現在「野本」といいます。
こうして自己紹介をすると、多くの方は「ふうん、そうなの」という顔をされますが、私の心の中では、それはちょっとした「更新作業」に近い感覚なのです。スマートフォンのOSをアップデートしたり、あるいは、度数の合わなくなった眼鏡を新調したりするような、そんな事務的で、けれど避けては通れない、人生の微調整。
窓の外では、東京のどんよりとした空が、私の今の苗字と同じくらい中途半端な色をしています。
私は、大学の講義室の隅で、おもむろに眼鏡ケースから新しい眼鏡を取り出しました。これは「野本」になってから三本目の眼鏡です。フレームは深い紺色。森宮さんの選んだ、少し理屈っぽそうなデザインです。
「……野本さん、また眼鏡変えた?」
隣の席で、同級生の重子が、驚いたというよりは「また始まったか」という呆れを含んだ声で話しかけてきました。彼女の隣には、いつもセットで動いている山田もいます。
「ええ、重子さん。苗字が変わると、世界のピントが微妙にズレるような気がしまして」
「いや、ピントって。苗字と視力に相関関係はないでしょ」
山田が食い気味に突っ込みますが、私は動じません。
「それは山田さんの主観ですよね。私にとっては、水戸だった頃の景色と、泉ヶ原だった頃の景色、そして今の野本の景色は、光の屈折率が明らかに違うのです」
重子と山田は顔を見合わせました。
「ねえ、野本さん。そもそもさ、なんでそんなに苗字が変わるわけ? 私、前会った時は『泉ヶ原さん』って呼んでた気がするんだけど」
「それは、バトンが渡されたからです」
「バトン?」
「はい。私は、リレーの走者のようなものです。走るコースは決まっていますが、後ろから走ってきた親という名のランナーが、私というバトンを次の親へと手渡していく。私はただ、落とされないようにしっかり握られていればいいのです」
二人は完全に沈黙しました。野本の言っていることは、常に論理的であるようでいて、決定的に何かがおかしい。それがこの二人の共通認識です。
「……まあ、いいわ。それより、今日の放課後、暇つぶしサークル行くんでしょ? 部長が手ぐすね引いて待ってたわよ。なんか『野本さんの家族構成は、もはや現代アートの域に達している』とか言ってたし」
私は紺色のフレームを指で押し上げました。
「小宮部長らしい表現ですね。では、講義が終わったら部室へ向かいます。森宮さんが夕飯に『完璧な栄養バランスのポトフ』を作るから早く帰れとうるさいので、長居はできませんが」
講義を終え、私は大学の端にある、陽当たりだけはやたらと良い「暇つぶしサークル」の部室の扉を開けました。
中では、小宮部長がキャンバスに向かって謎の幾何学模様を描いており、その横で橋本副部長がノートパソコンを叩いています。
「あ、来たわね。野本・ザ・バトン・パス」
小宮部長が筆を置かずに言いました。彼女はかつて美大を目指していたという過去があり、何でも「構図」や「色彩」で語りたがる癖があります。
「お疲れ様です、小宮部長。今日はまだ『野本』で間違いありません」
「橋本、聞いた? 彼女、まだ野本なんですって」
橋本副部長が眼鏡(これは私よりずっと実用的な、安価なチェーン店のものでした)を光らせました。
「野本さん。君の家庭環境を論理的に分析すると、非常に効率的な『リスク分散型養育』と言える。一人の親に依存せず、複数のリソースから愛情と経済力を享受する。実に合理的だ」
「橋本さん、それは情緒がなさすぎよ」
小宮部長が私の前に立ち、じっと私の眼鏡を見つめました。
「いい、野本さん。あなたの人生は、一人一人の親が、自分という色をあなたというキャンバスに塗り重ねていく作業なの。水戸さんはベースコート、梨花さんは鮮やかな原色、泉ヶ原さんは重厚なマチエール。そして今の森宮さんは……そうね、全体を引き締めるためのフィキサチーフ(定着液)といったところかしら」
「定着液ですか。森宮さんは、自分が定着液だと言われたら、おそらく成分表を調べ始めるでしょうね」
私は椅子に座り、おもむろに鞄からお弁当箱を取り出しました。中には、森宮さんが朝から計算して詰め込んだ、彩りのない、しかし滋養に満ちた茶色いおかずが並んでいます。
「部長。世間では、私のような子供を『複雑な境遇で可哀想』と分類するようです。でも、私は一度も不幸だと思ったことはありません。むしろ、苗字が変わるたびに新しい眼鏡を選べる特権を楽しんでいるくらいです」
橋本副部長が手を止め、こちらを見ました。
「野本さん。その『不幸だと思わない』という感覚こそが、君というバトンが正しく渡されてきた証拠だよ。愛情の質量保存の法則だ。親が入れ替わっても、注がれるエネルギーの総量は変わっていない、あるいは増幅されている」
部室に、夕暮れのオレンジ色の光が差し込んできました。
私は、森宮さんの作った、少し固めのきんぴらごぼうを口に運びました。よく噛まないと飲み込めません。でも、その咀嚼の時間こそが、私が今ここで「野本」として生きているという実感を与えてくれます。
「あ、そうだ。野本さん」
小宮部長が不敵に笑いました。
「今度、その歴代の親たちを招いて、部室で『野本・ファミリー・エキシビション』を開催しない? 入場料は暇つぶし一時間分で」
「部長、それは私の父たちが混乱しますので、お控えください。特に泉ヶ原さんは、盆栽以外に興味がありませんから」
私は静かに弁当箱を閉じ、立ち上がりました。
「失礼します。森宮さんが、ポトフの灰汁取りを手伝えとメールしてきました。灰汁取りは、家庭の平和を維持するための最も重要な儀式だそうです」
部室を出て、私は紺色の眼鏡を一度外し、袖で拭きました。
次はどんな色の眼鏡をかけることになるのか。それとも、もう眼鏡を変えなくていい日が来るのか。
それはまだ分かりませんが、少なくとも今の私は、森宮さんの作る、灰汁のまったくない透き通ったスープのような安心感の中にいます。
私は一歩、また一歩と、野本としての地面を踏みしめて、家路を急ぎました。
(第1章・完)




