第146章 第2章:ブラジルと梨花と、派手なカツサンド
私が「水戸」から「田中(梨花の旧姓)」、そして「泉ヶ原」へとバトンが渡された頃の記憶は、常に食べ物の匂いと共にあります。それも、およそ子供の教育には不向きそうな、油っこくて派手な匂いです。
「野本さん、さっきからフォークを止めて何を見つめているの? そのハンバーグ、もう冷え切って石みたいになってるわよ」
アルバイト先のファミレス『ジョナサン(仮)』の休憩室で、先輩ウェイトレスの富山さんが呆れたように言いました。隣では、ベテランの亀山さんがおしぼりを猛烈な勢いで畳んでいます。
「いえ、富山さん。ふと、梨花さんのことを思い出しておりまして」
「梨花さん? 前に言ってた、二人目のお母さん?」
「はい。彼女は、私の人生という静かな図書室に、土足で、しかもチアガールの格好で踊り込んできたような人でした」
私がまだ小学生だった頃、実父の水戸さんは、突然「ブラジルへ行く」と言い出しました。
水戸さんは、なんというか、非常に「水」のような人でした。透明で、器に合わせて形を変え、どこまでも流されていく。ブラジルという言葉の響きさえ、彼にかかれば「ちょっと隣の市まで回覧板を届けに行く」くらいの軽さで語られました。
「ブラジルねぇ……遠いわね。カメ(亀山さん)なら、成田空港に行く途中で迷子になって終わるわよ」
亀山さんが手を休めずに口を挟みました。
「その水戸さんが、どこから連れてきたのか、梨花さんという女性を私の前に置いたのです。彼女は真っ赤な口紅を塗り、私を見るなり『まあ、地味な子ね! あなた、今日から私の娘よ。よろしく!』と言い放ちました。私の眼鏡が、彼女の放つオーラで少し歪んだような気がしたものです」
梨花さんは、教育熱心とは程遠い人でした。
水戸さんがブラジルへ発つ日、梨花さんは見送りにも行かず、私を連れてデパートの屋上へ行きました。そして、当時まだ子供だった私に、特大のカツサンドを買い与えたのです。
「『野本――いえ、当時は水戸でしたが――、いい? 地味な子こそ、派手なものを食べなさい。胃袋が派手になれば、心も勝手に浮き立つのよ』。それが、彼女が私にくれた最初の教育方針でした」
「……豪快ね、その梨花さん」
富山さんが少し引き気味に笑いました。
「父がブラジルへ行ってしまった後、梨花さんと私の二人暮らしが始まりました。でも、梨花さんには計画性という概念が欠落しておりまして。一週間もしないうちに、我が家の家計は、砂漠のオアシスのように干上がりました。冷蔵庫には、彼女がパチンコで取ってきた高級チョコレートの空箱と、なぜか一本だけ残ったキュウリ。私は、自分の眼鏡のレンズ越しに、このまま餓死する自分の姿をシミュレーションしたものです」
しかし、梨花さんは「バトン」を落としませんでした。
彼女は、困窮する生活の中で、ある日突然、私の手を引いて街へ出ました。
「梨花さんは私に言いました。『ねえ、あなた、ピアノが弾きたいんでしょう?』と。私は一度もそんなことは言っていませんでしたが、彼女の瞳には、私の指が鍵盤を叩く幻影が見えていたようです。あるいは、自分の退屈を打破するための、壮大な『暇つぶし』のアイデアが浮かんだのでしょう」
「それで? どうしたのよ、お金ないのに」
亀山さんがようやくおしぼりを置き、身を乗り出しました。
「梨花さんは、その足で高級住宅街にある泉ヶ原さんの屋敷へ乗り込みました。彼女は、自分がどれだけ可憐で、守るべき娘(私)を抱えた、不幸で美しい未亡人であるかという『演出』を、わずか数分の立ち話で完成させたのです。私は横で、彼女の演技の精度を、暇つぶしサークルの部長が見たら絶賛するだろうな、と考えながら見ていました」
結果として、梨花さんは泉ヶ原さんと再婚しました。
私の苗字は「泉ヶ原」になり、世界は突然、大理石の床と、静まり返ったサロン、そして特大のグランドピアノがある風景へと切り替わりました。
「それは……バトンっていうか、もはや詐欺に近いわね」
富山さんの指摘は、ある意味で正解でした。
でも、と私は続けました。
「梨花さんは、私にピアノを与えたかった。ただそれだけのために、自分の人生のカードをすべて使い切ったのです。私は泉ヶ原さんの豪邸で、毎日高価な洋服を着せられ、ピアノを習わせてもらいました。梨花さんは満足そうに、その横で派手な色のカクテルを飲んでいました。彼女にとって、私は『最高の作品』を展示するための、美しい額縁だったのかもしれません」
休憩終了のタイマーが鳴りました。
私は、冷めきったハンバーグを最後の一口まで綺麗に平らげ、立ち上がりました。
「亀山さん、富山さん。梨花さんが教えてくれたことが一つだけあります。『人生が退屈なら、苗字を変えてでも世界を塗り替えなさい』。私は今、野本として生きていますが、あの時の派手なカツサンドの油の匂いは、今でもこの紺色の眼鏡の奥に、確かな色彩として残っているのです」
私はエプロンを整え、ホールの騒がしさの中へと戻っていきました。
次のオーダーを取る時、私の声はいつもより少しだけ、梨花さんのように響いたような気がしました。
(第2章・完)




