第194章 第2章 見えざる要塞
1. 呉の変貌
1937年(昭和12年)、春。軍港都市・呉。
瀬戸内の穏やかな海に面したこの街は、奇妙な熱気と、それ以上に重苦しい緊張感に包まれ始めていた。
呉海軍工廠長、**西尾範治**中将は、工廠を見下ろす丘の上に立っていた。彼の視線の先にあるのは、第4船渠。かつて戦艦「長門」などが整備された巨大な穴だ。しかし、今回の客を迎えるには、これでもまだ「小さすぎる」のだ。
「掘り下げるしかないな。あと1メートル、いや、盤石を期すならもっとだ」
西尾の隣で、工務部の土木技師が唸るように言った。
「長官、たかが1メートルとおっしゃいますが、ドックの底盤を削るということは、地下水圧との戦いになります。それに、あの巨体の重量を受け止めるためのコンクリートの打ち直しも必要です。工期が足りません」
「やるんだ」西尾は短く切り捨てた。「東京の福田君が描いた絵は、並大抵の器には収まらん。あれは船というより、動く鉄の山だ」
A-140-F6案。基準排水量6万4000トン。
その全重量は、わずかな竜骨と盤木の上に集中する。基礎が弱ければ、建造中にドックの床が抜け、船体が歪む。それは造船屋にとって死を意味する。
2. 棕櫚のカーテン
土木工事と並行して、さらに異様な工事が進められていた。
「目隠し」である。
ドックの周囲を見渡せる山道、民家の窓、そして工廠の横を走る国鉄呉線の車窓。そのすべてから、ドックの中を物理的に遮断しなければならない。
「全高6万トンの機密か……。隠す方も骨が折れる」
工廠の資材課には、奇妙な発注書が山積みになっていた。
『棕櫚縄、数万把』
『トタン板、数千枚』
ドックの海側と陸側には巨大な屋根がかけられ、周囲には棕櫚の葉を編んだ巨大な「簾」が張り巡らされた。
地元の漁師たちが「網に使うシュロがない」と悲鳴を上げるほど、西日本中のシュロが呉にかき集められたという噂が飛び交った。
「見てみろ、あれを」
現場の工員たちが休憩時間に囁き合う。
「まるで巨大な鳥かごだ。中に何が入るんだ?」
「おい、滅多なことを言うな。憲兵が飛んでくるぞ」
街には憲兵隊が溢れ、望遠レンズを持った外国人観光客はもちろん、スケッチブックを持った画学生までもが尋問の対象となった。呉の街全体が、巨大な金庫の中に入ったかのような閉塞感が漂っていた。
3. 重力の基礎工事
ドックの底では、壮絶な土木工事が続いていた。
単に深くするだけではない。幅広の船体に合わせて、ドックの壁面(階段状の祭壇のような部分)も削り取られた。
工学的な最大の課題は**「地耐力」**だった。
従来の戦艦のキールブロック(盤木)にかかる荷重は、せいぜい1平方メートルあたり数十トン。しかし、大和の場合はその倍近い荷重がかかる箇所がある。特に、分厚い装甲板が集中する中央部と、巨大な主砲塔の直下だ。
「コンクリートの配合を変えろ。砂利のサイズもだ。普通のビルを建てるのとはわけが違う」
現場監督の怒号が響く。
古いコンクリートをはつり(破砕し)、鉄筋を組み直し、高強度のコンクリートを流し込む。
地下水が滲み出し、泥にまみれながらの突貫工事。
それは華やかな「軍艦建造」というより、泥臭い「ダム建設」の現場に近かった。
4. 静寂の起工式
1937年(昭和12年)11月4日。
空は高く晴れ渡っていたが、ドックの底はシュロの屋根に遮られ、薄暗がりの中にあった。
第4船渠。その中央に、最初の部材が据えられる。
「起工式」。
通常であれば、軍楽隊が『軍艦マーチ』を奏で、多くの来賓が紅白の幕の下で万歳を叫ぶ晴れ舞台だ。
しかし、この日は違った。
参列者は、西尾工廠長、福田技術大佐、そしてごく少数の現場幹部のみ。
軍楽隊もいなければ、万歳三唱もない。
ただ、神主による祝詞の声だけが、コンクリートの壁に反響していた。
福田啓二は、薄暗いドックの底に置かれた、最初の「竜骨」を見つめていた。
それはまだ、ただの細長い鉄の板に過ぎない。だが、ここからすべてが始まる。
「福田さん」
牧野茂が背後から声をかけた。彼もまた、東京から極秘に駆けつけていた。
「本当に、始まってしまうんですね」
「ああ。もう後戻りはできん。図面上の線が、質量を持った鉄になる。計算間違いは許されんぞ、牧野」
「肝に銘じます」
二人の技術者は、竜骨のリベットの列を見つめた。
その一本一本が、やがて来るべきアメリカとの決戦の時間を刻む秒針のように見えた。
5. バイナリ・ワールド
起工を境に、呉海軍工廠の空気は一変した。
作業員たちには厳格な身分証明書(鑑札)が発行され、自分の担当区画以外への立ち入りは厳禁とされた。
設計技師たちは、出退勤時にカバンの中身を全て検閲された。メモ一枚、書き損じの図面一枚たりとも、持ち出すことは許されない。
ドックの入り口には、憲兵が常駐した。
その内側は、日本国内であって日本ではない。
**「第一号艦」**と呼ばれるその存在のためだけに機能する、論理と物理法則だけが支配する別世界。
シュロの簾の隙間から、時折、溶接のアーク光(青白い光)が漏れる。
夜になると、その光は不気味な明滅を繰り返し、呉の市民たちに無言の威圧感を与えていた。
中で何が作られているのか、誰も知らない。
知ろうとすれば、社会的に抹殺される。
「お化け煙突」
いつしか市民たちは、簾の上に突き出た排気ダクトやクレーンを見て、そう呼ぶようになった。
見えざる要塞の中で、鋼鉄の巨獣が、静かにその骨格を形成し始めていた。




