第193章 第1章 設計番号 A-140F6
1. 終わりの始まり
1935年(昭和10年)10月、東京・霞が関。海軍艦政本部。
窓の外を叩く冷たい秋雨が、重苦しい空気をさらに湿らせていた。
第四部・基本計画主任、**福田啓二**造船大佐のデスクには、一枚の極秘通達書が置かれていた。
『主力艦代艦ノ件』
簡潔すぎる表題の下には、狂気とも取れる要求スペックが羅列されている。
――主砲、46センチ砲8門以上。
――速力、30ノット以上。
――航続距離、18ノットにて8000海里。
福田は万年筆を弄びながら、眉間に深い皺を刻んだ。
「条約明け、か」
ワシントン、ロンドンと続いた海軍軍縮条約。日本海軍の手足を縛り続けたその枷が、まもなく外れようとしている。無条約時代の到来。それは、質・量ともに圧倒的な国力を持つアメリカとの、底なしの建艦競争の始まりを意味していた。
「参りますか、福田大佐」
声をかけたのは、部下の**牧野茂**造船中佐だった。若き俊才の目は、不安よりも未知の領域への挑戦心で輝いている。
「ああ。だが牧野、これはパズルだ。それも、ピースの形が最初から歪んでいる」
2. パナマの呪縛
会議室には、青焼きの図面と計算尺の音が支配する独特の静寂があった。
壁に掲げられた世界地図。その中心には、北米大陸を分断する細い水路――パナマ運河が赤くマーキングされている。
「敵を知るには、まずその足枷を知るべし、ですね」
牧野がチョークで黒板に数字を書き殴った。
『Panama Canal Limits: Width 33.5m』
「アメリカの戦艦は、大西洋と太平洋を行き来するために必ずパナマを通らねばならん。つまり、彼らの戦艦の全幅は、どうあがいても33メートルが限界だ」
福田は低い声で講義を始めた。まるで大学のゼミのようだ。
「幅が33メートルに制限されれば、搭載できる主砲にも物理的な限界が生じる。40センチ砲(16インチ)が限度だ。無理にそれ以上の巨砲を積めば、トップヘビーになり復原性を失うか、船体を長くしすぎて防御効率が極端に落ちる」
福田は黒板の数字の横に、力強く別の数字を書き加えた。
『46cm(18inch)』
「我々にはパナマの制約はない。ならば、彼らが絶対に建造不可能な『46センチ砲搭載艦』を作ればどうなるか」
「個艦優越……ですね」
牧野が頷く。
「そうだ。敵が40センチ砲しか持てないなら、こちらはアウトレンジから一方的に叩ける。装甲も、敵の40センチ砲弾を弾き返せる厚さを確保する。これが『不沈艦』の論理的帰結だ」
論理は完璧だった。しかし、それを鋼鉄で実現するのは別次元の話だ。
46センチ砲の反動は約3000トンに達する。それを支える船体は巨大な幅を必要とする。だが、幅を広げれば水の抵抗が増し、速力が出ない。速力を出すためにエンジン(機関)を増やせば、船体が大きくなり、装甲重量が増えて沈む。
「排水量6万トン……いや、7万トンに達するかもしれん」
福田の呟きに、会議室の空気が凍りついた。当時の常識を逸脱した数値だった。
3. 動力の迷走
設計案は二転三転した。コードネーム「A-140」。
Aから始まり、B、C……とアルファベットが増えるたび、捨てられた図面の山が築かれていく。
最大の懸案は「心臓」、すなわち機関の選定だった。
軍令部からの要求は過酷だ。「航続距離を稼げ。燃料を節約しろ」。
その回答として浮上したのが、ディーゼル機関の採用である。
「ディーゼルならば、熱効率は蒸気タービンの倍近い。航続距離の問題は一挙に解決します」
牧野は熱心にディーゼル案(A-140A類)を推した。
だが、福田は慎重だった。
「潜水母艦『大鯨』を見ろ。ディーゼルの故障続きで、まともに動けていない。国家の命運を握る決戦兵器に、未成熟な技術は採用できん」
信頼性のタービンか、性能のディーゼルか。
あるいは、巡航時はディーゼル、戦闘時はタービンという「併用案」か。
議論は深夜に及び、煙草の煙が部屋に充満した。
そんな折、電話が鳴った。受話器を取った福田の背筋が伸びる。
「……はい。平賀閣下。……はい、承知しております」
電話の主は、平賀譲。かつての造船中将であり、今は退官し東大総長となっていたが、その影響力は絶対的だった。
『実験的なことなどするな。タービン一本でいけ。その代わり、防御を徹底せよ』
神の声が下った。
ディーゼル案は消滅した。これにより、船体の容積を機関部ではなく、防御区画に集中させることが決定づけられた。
4. 決断のF6
1936年(昭和11年)7月。
20を超える試行錯誤の末、一つの案がテーブルに残った。
【A-140-F6】
* 全長: 263.0メートル
* 最大幅: 38.9メートル
* 基準排水量: 64,000トン
* 主砲: 46センチ砲 3連装3基 9門
* 速力: 27ノット
* 機関: 蒸気タービン 4基4軸 15万馬力
当初の要求であった「30ノット」は27ノットに妥協した。しかし、その代償として得たものは、世界海軍史上、類を見ない「集中防御」構造だった。
船体の中央部に弾薬庫や機関室を凝縮し、そこを分厚い装甲(最大410mm)の箱で覆う。無駄を極限まで削ぎ落とし、水に浮く要塞を作り上げる設計だ。
福田は最終図面を見つめた。
幅広で、ずんぐりとした船体。美しくはないかもしれない。だが、恐ろしく合理的だ。
「L/B比(長さと幅の比率)は6.7か……。まるでタライだな」
自嘲気味に笑う福田に対し、牧野は真剣な眼差しで言った。
「ですが、この幅があれば46センチ砲の衝撃も吸収できます。そして、喫水を浅くできるため、日本の主要軍港に入港可能です」
福田は朱筆を取り、図面の右下に署名をした。
この瞬間、紙の上の空論は、国家プロジェクトへと変貌した。
「牧野、これを呉へ送れ。ただし、細心の注意を払えよ。この図面一枚で、世界がひっくり返る」
「はい。……あの、主砲の名称はどうしますか? 書類上、46センチとは書けませんが」
福田は一瞬考え、静かに言った。
「**『九四式四十糎(40センチ)砲』**としておけ。嘘ではない。40センチよりは大きいのだからな」
窓の外の雨は上がっていた。
雲の切れ間から差す光が、巨大な戦艦の青写真を照らし出す。
それは、これから始まる技術者たちの、長く苦しい戦いの狼煙だった。
(第1章 完)




