第189章 第9章:生活の痕跡 —— 鉄と靴と
ノティール号は、反転した艦尾セクションからゆっくりと離脱し、周囲に広がる泥の平原へと進路を取った。
深度三四五メートル。
ここまでの数時間、彼らは「戦艦大和」という、国家の威信をかけた鋼鉄の怪物と対峙してきた。四六センチ砲、菊の紋章、巨大なスクリュー。それらは圧倒的な質量と暴力的な破壊の痕跡で、見る者をねじ伏せるような迫力を持っていた。
だが、ここから先は違う。
船体から数百メートル四方にわたって広がる「デブリフィールド(散乱海域)」。
そこは、巨人が撒き散らした瓦礫の荒野であると同時に、かつてそこで呼吸し、食事をし、未来を夢見ていた三三三二名の若者たちの、生活の跡地でもあった。
「ソナー感度を最大に。小さな反応も見逃すな」
パイロットのアンリが、声を一段低くして言った。
HMIライトの光量を絞る。強すぎる光は、泥に埋もれた小さな遺物を白飛びさせてしまうからだ。
柔らかな光が、海底の砂紋を舐めるように照らし出す。
最初に現れたのは、無数の鉄片だった。
爆発の衝撃で微塵に砕かれた隔壁や、甲板の鉄板。それらが枯れ葉のように海底を埋め尽くしている。捻じ曲がった電線束が、海藻のように揺らめいている。
それは無機質な光景だった。戦争という行為が物質を破壊した、冷徹な結果だけがそこにあった。
「……待て。あれはなんだ?」
コパイロットのマルクが、モニターの隅を指差した。
鉄片の山の陰に、有機的な曲線を持つ物体があった。
アンリが機体を寄せ、カメラをズームさせる。
泥の中に半分埋もれていたのは、一本の瓶だった。
独特のくびれを持つ、薄青色のガラス瓶。
「ラムネ瓶だ……」
日本人オブザーバーの賢治は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
それは、当時の日本海軍で広く愛飲されていた清涼飲料水の瓶だ。中にはガラス玉が入っているはずだ。
厚さ六〇センチの鋼鉄の装甲板は引きちぎられ、二七〇〇トンの主砲塔は吹き飛ばされたというのに、この脆弱なガラス瓶は、奇跡的に割れることなく深海の底に横たわっていた。
おそらく、沈没時に内部に海水が浸入し、内圧と外圧が均衡したことで破壊を免れたのだろう。
泥にまみれたそのガラスの表面は、かつて冷たい炭酸水が喉を潤した夏の日の記憶を、永遠に閉じ込めているように見えた。
「あそこにもある。……白い皿だ」
マルクが別の方向を示す。
四角い白磁の皿。その中央には、青い染料で錨のマークと桜の意匠が描かれている。海軍の士官用食器だ。
割れていない。
まるで、食事の途中でふと席を立ったかのように、そこに置かれていた。
賢治は想像する。七〇年前の四月七日、出撃前の最後の食事。彼らは何を語り合い、どんな思いでこの皿を見つめていたのだろうか。故郷の母の顔か、恋人の笑顔か、あるいは迫り来る死の予感か。
「鉄の塊を見ていた時は、ただ『凄い』としか思わなかった」
マルクが独り言のように呟く。「だが、これを見ると……急に『人間』の匂いがしてくる。彼らが確かにここにいたんだという事実が、重くのしかかってくる」
ノティール号は、静寂の中をさらに進む。
計器のファンの音さえも、ここでは不謹慎なノイズに聞こえた。
「賢治、見ろ。……あれを」
アンリの指先が震えていた。
ライトの光の先、泥の小高い丘の上に、それはあった。
一足の、革靴。
足首までを覆う編上靴。
驚くべきことに、その革は腐敗していなかった。深海の低水温と、泥の中の無酸素状態が、動物の皮を鞣して作られたその靴を、タイムカプセルのように保存していたのだ。
靴紐は通されたままだ。
靴底の鋲の跡さえ見て取れる。
色は、長い歳月で黒ずんではいるが、元の琥珀色の面影を残している。
だが、その中に足はなかった。
肉体はとうの昔に海へ還り、分解され、消滅している。
残されたのは、主人を失った靴だけ。
二つの靴は、少し離れて転がっていた。まるで、誰かがそこで脱ぎ捨てて、眠りについたかのように。
「……サイズは二四センチくらいか」
賢治の声が湿り帯びる。「まだ若い、少年の足だ」
大和には多くの少年兵が乗り込んでいた。一〇代後半の、まだあどけなさの残る若者たち。彼らはこの靴を履き、甲板を走り回り、そしてこの海に散った。
三人の男たちは、言葉を失った。
直径二・一メートルのチタン球殻の中、空調の乾いた空気とは裏腹に、重く湿った沈黙が支配した。
ここにあるのは、データではない。数値でもない。
「生」の証拠と、「死」の現実だ。
四六センチ砲の威力や、バイタルパートの装甲厚について議論していた時は、彼らは技術者であり研究者だった。しかし今、この小さな靴の前で、彼らはただの人間へと引き戻されていた。
国籍も、時代も関係ない。
海に生きる者として、あるいは死すべき運命を持つ者としての、根源的な悲しみがそこにあった。
「……サンプルを採取する(プレルヴェマン)」
アンリが、義務感を含んだ硬い声で言った。「任務だ。海底の土壌と、小さな鉄片を持ち帰らなければならない」
アンリは右手のコントローラーを握った。
船体前部のマニピュレーター(ロボットアーム)が、油圧の微かな音と共に展開する。
金属の爪が、泥の海底へと伸びていく。
「靴には触れるな」賢治が鋭く言った。「あれは遺品だ。そのままにしておいてくれ」
「わかっている」アンリが頷く。「敬意は払う。彼らの眠りを妨げるつもりはない」
マニピュレーターは、外科手術のような慎重さで動いた。
編上靴から数メートル離れた場所。
何も無い泥の上で、爪が静かに閉じ、一掴みの土砂を採取する。
そして、傍らに落ちていた小さな錆びたボルトを一つ、拾い上げた。
それだけの動作に、永遠のような時間がかかった気がした。
バスケットにサンプルを収納し、アームを格納すると、アンリは深く息を吐いた。額には大粒の汗が浮かんでいた。
「これで、全てのミッションは完了だ」
マルクがチェックリストに印をつける。「予定された調査項目は全て消化した」
「……ありがとう」
賢治は、モニターの中の靴に向かって、心の中で掌を合わせた。
連れて帰ることはできない。
彼らの魂は、この鉄の墓標と共にあり続けることを選んだのだから。
せめて、その存在を記憶に留めること。それだけが、生き残った者、そして後世に生きる者の責務なのだと、賢治は思った。
「上昇準備」
アンリが告げる。「バラスト投下用意」
賢治は最後にもう一度、外部カメラの映像を目に焼き付けた。
暗黒の海底。
HMIライトの光が遠ざかっていく。
泥の上にポツンと残された編上靴が、小さくなっていく。
その隣には、ラムネ瓶が、白磁の皿が、そして無数の鉄屑が、永遠の静寂の中に沈んでいる。
三三三二名。
それは単なる数字ではない。
その一人一人に、名前があり、人生があり、愛する人がいて、そして最期の瞬間があった。
この深海三四五メートルは、単なる沈没船の現場ではない。
日本で最も静かで、最も重い、巨大な霊廟なのだ。
「バラスト投下」
ガコン、ガコン。
重い鉄の塊が切り離される音が響き、ノティール号はふわりと浮力を得た。
泥の景色が下へと流れていく。
闇が深まり、やがて完全な黒へと戻る。
上昇速度、毎分四〇メートル。
彼らは「死」の世界から、再び「生」の世界――太陽と空気のある場所へと帰還する。
だが、その心には、深海で拾った目に見えない重石が、しっかりと刻み込まれていた。
鉄と、靴と、彼らの生きた証。
それを伝えるために、彼らは海面を目指した。




