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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

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第189章 第9章:生活の痕跡 —— 鉄と靴と


 ノティール号は、反転した艦尾セクションからゆっくりと離脱し、周囲に広がる泥の平原へと進路を取った。

 深度三四五メートル。

 ここまでの数時間、彼らは「戦艦大和」という、国家の威信をかけた鋼鉄の怪物と対峙してきた。四六センチ砲、菊の紋章、巨大なスクリュー。それらは圧倒的な質量と暴力的な破壊の痕跡で、見る者をねじ伏せるような迫力を持っていた。

 だが、ここから先は違う。

 船体から数百メートル四方にわたって広がる「デブリフィールド(散乱海域)」。

 そこは、巨人が撒き散らした瓦礫の荒野であると同時に、かつてそこで呼吸し、食事をし、未来を夢見ていた三三三二名の若者たちの、生活の跡地でもあった。

「ソナー感度を最大に。小さな反応も見逃すな」

 パイロットのアンリが、声を一段低くして言った。

 HMIライトの光量を絞る。強すぎる光は、泥に埋もれた小さな遺物を白飛びさせてしまうからだ。

 柔らかな光が、海底の砂紋を舐めるように照らし出す。

 最初に現れたのは、無数の鉄片だった。

 爆発の衝撃で微塵に砕かれた隔壁や、甲板の鉄板。それらが枯れ葉のように海底を埋め尽くしている。捻じ曲がった電線束ケーブルハーネスが、海藻のように揺らめいている。

 それは無機質な光景だった。戦争という行為が物質を破壊した、冷徹な結果だけがそこにあった。

「……待て。あれはなんだ?」

 コパイロットのマルクが、モニターの隅を指差した。

 鉄片の山の陰に、有機的な曲線を持つ物体があった。

 アンリが機体を寄せ、カメラをズームさせる。

 泥の中に半分埋もれていたのは、一本の瓶だった。

 独特のくびれを持つ、薄青色のガラス瓶。

「ラムネ瓶だ……」


 日本人オブザーバーの賢治は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。

 それは、当時の日本海軍で広く愛飲されていた清涼飲料水の瓶だ。中にはガラス玉が入っているはずだ。

 厚さ六〇センチの鋼鉄の装甲板は引きちぎられ、二七〇〇トンの主砲塔は吹き飛ばされたというのに、この脆弱なガラス瓶は、奇跡的に割れることなく深海の底に横たわっていた。

 おそらく、沈没時に内部に海水が浸入し、内圧と外圧が均衡したことで破壊を免れたのだろう。

 泥にまみれたそのガラスの表面は、かつて冷たい炭酸水が喉を潤した夏の日の記憶を、永遠に閉じ込めているように見えた。

「あそこにもある。……白い皿だ」

 マルクが別の方向を示す。

 四角い白磁の皿。その中央には、青い染料でいかりのマークと桜の意匠が描かれている。海軍の士官用食器だ。

 割れていない。

 まるで、食事の途中でふと席を立ったかのように、そこに置かれていた。

 賢治は想像する。七〇年前の四月七日、出撃前の最後の食事。彼らは何を語り合い、どんな思いでこの皿を見つめていたのだろうか。故郷の母の顔か、恋人の笑顔か、あるいは迫り来る死の予感か。

「鉄の塊を見ていた時は、ただ『凄い』としか思わなかった」

 マルクが独り言のように呟く。「だが、これを見ると……急に『人間』の匂いがしてくる。彼らが確かにここにいたんだという事実が、重くのしかかってくる」

 ノティール号は、静寂の中をさらに進む。

 計器のファンの音さえも、ここでは不謹慎なノイズに聞こえた。

「賢治、見ろ。……あれを」

 アンリの指先が震えていた。

 ライトの光の先、泥の小高い丘の上に、それはあった。

 一足の、革靴。

 足首までを覆う編上靴あみあげぐつ

 驚くべきことに、その革は腐敗していなかった。深海の低水温と、泥の中の無酸素状態が、動物の皮をなめして作られたその靴を、タイムカプセルのように保存していたのだ。


 靴紐は通されたままだ。

 靴底のびょうの跡さえ見て取れる。

 色は、長い歳月で黒ずんではいるが、元の琥珀色あめいろの面影を残している。

 だが、その中に足はなかった。

 肉体はとうの昔に海へ還り、分解され、消滅している。

 残されたのは、主人を失った靴だけ。

 二つの靴は、少し離れて転がっていた。まるで、誰かがそこで脱ぎ捨てて、眠りについたかのように。

「……サイズは二四センチくらいか」

 賢治の声が湿り帯びる。「まだ若い、少年の足だ」

 大和には多くの少年兵が乗り込んでいた。一〇代後半の、まだあどけなさの残る若者たち。彼らはこの靴を履き、甲板を走り回り、そしてこの海に散った。

 三人の男たちは、言葉を失った。

 直径二・一メートルのチタン球殻の中、空調の乾いた空気とは裏腹に、重く湿った沈黙が支配した。

 ここにあるのは、データではない。数値でもない。

 「生」の証拠と、「死」の現実だ。

 四六センチ砲の威力や、バイタルパートの装甲厚について議論していた時は、彼らは技術者であり研究者だった。しかし今、この小さな靴の前で、彼らはただの人間へと引き戻されていた。

 国籍も、時代も関係ない。

 海に生きる者として、あるいは死すべき運命を持つ者としての、根源的な悲しみがそこにあった。

「……サンプルを採取する(プレルヴェマン)」

 アンリが、義務感を含んだ硬い声で言った。「任務だ。海底の土壌と、小さな鉄片を持ち帰らなければならない」


 アンリは右手のコントローラーを握った。

 船体前部のマニピュレーター(ロボットアーム)が、油圧の微かな音と共に展開する。

 金属の爪が、泥の海底へと伸びていく。

「靴には触れるな」賢治が鋭く言った。「あれは遺品だ。そのままにしておいてくれ」

「わかっている」アンリが頷く。「敬意は払う。彼らの眠りを妨げるつもりはない」

 マニピュレーターは、外科手術のような慎重さで動いた。

 編上靴から数メートル離れた場所。

 何も無い泥の上で、爪が静かに閉じ、一掴みの土砂を採取する。

 そして、傍らに落ちていた小さな錆びたボルトを一つ、拾い上げた。

 それだけの動作に、永遠のような時間がかかった気がした。

 バスケットにサンプルを収納し、アームを格納すると、アンリは深く息を吐いた。額には大粒の汗が浮かんでいた。


「これで、全てのミッションは完了コンプレだ」

 マルクがチェックリストに印をつける。「予定された調査項目は全て消化した」

「……ありがとう」

 賢治は、モニターの中の靴に向かって、心の中で掌を合わせた。

 連れて帰ることはできない。

 彼らの魂は、この鉄の墓標と共にあり続けることを選んだのだから。

 せめて、その存在を記憶に留めること。それだけが、生き残った者、そして後世に生きる者の責務なのだと、賢治は思った。

上昇準備プレパレ・ラ・モンテ

 アンリが告げる。「バラスト投下用意」

 賢治は最後にもう一度、外部カメラの映像を目に焼き付けた。

 暗黒の海底。

 HMIライトの光が遠ざかっていく。

 泥の上にポツンと残された編上靴が、小さくなっていく。

 その隣には、ラムネ瓶が、白磁の皿が、そして無数の鉄屑が、永遠の静寂の中に沈んでいる。

 三三三二名。


 それは単なる数字ではない。

 その一人一人に、名前があり、人生があり、愛する人がいて、そして最期の瞬間があった。

 この深海三四五メートルは、単なる沈没船の現場ではない。

 日本で最も静かで、最も重い、巨大な霊廟なのだ。

「バラスト投下ラルゲ・レ・バラスト

 ガコン、ガコン。

 重い鉄の塊が切り離される音が響き、ノティール号はふわりと浮力を得た。

 泥の景色が下へと流れていく。

 闇が深まり、やがて完全な黒へと戻る。

 上昇速度、毎分四〇メートル。

 彼らは「死」の世界から、再び「生」の世界――太陽と空気のある場所へと帰還する。

 だが、その心には、深海で拾った目に見えない重石が、しっかりと刻み込まれていた。

 鉄と、靴と、彼らの生きた証。

 それを伝えるために、彼らは海面を目指した。


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