第187章 第8章:ミステリー —— 消えた第四スクリュー
ノティール号は、反転した巨獣の腹の上を、慎重に移動していた。
深度三四五メートル。
眼下に広がるのは、灰色の泥に覆われた戦艦大和の船底だ。
艦尾セクションの最後部。そこには、この七万トンの鋼鉄の城を二七ノット(時速五〇キロメートル)で推進させた、心臓部の残骸が露出している。
「スクリューシャフトの調査に入る」
パイロットのアンリが、コンソールのスイッチを切り替える。
四灯のHMIライトが、闇の中に突き出す異様な構造物を照らし出した。
大和は四軸推進艦だ。
直径五メートルの巨大なプロペラ(スクリュー)を回すため、四本の太い推進軸が船体から突き出している。
船体が裏返しになっているため、それらはまるで枯れ木の枝のように、あるいは死んだ昆虫の足のように、上方の闇に向かって伸びていた。
「左舷外軸(第二軸)、確認」
コパイロットのマルクが、カメラ映像をチェックしながら読み上げる。
左舷の外側にある推進軸。直径六〇センチの特殊鋼の棒は、根元から大きく曲がっていたが、そこにあった。先端のプロペラ本体は泥の中に埋没しているようだが、シャフトブラケット(軸支柱)は健在だ。
「左舷内軸(第三軸)、確認」
続いて内側の軸。こちらも同様だ。着底時の衝撃で、鋼鉄のシャフトが飴細工のように捻じ曲げられている。その凄まじいエネルギーに、賢治は改めて息を呑む。
一五万馬力のトルクを受け止めてきた強靭な軸が、物理的な打撃の前では無力な針金に過ぎない。
「右舷へ回る。右舷内軸(第四軸)……確認」
ノティール号が右へスライドする。
右舷の内側。そこにも確かにシャフトは存在した。
「よし、最後だ。右舷外軸(第一軸)へ」
アンリが機体をさらに右側、船体の外縁部へと寄せる。
設計図通りなら、そこに四本目のシャフトがあるはずだった。
「…………ない」
マルクの声が、船内の空気を凍らせた。
そこには、何もなかった。
あるはずのシャフトがない。
それを支えるV字型のブラケットも、根こそぎ消え失せていた。
残されているのは、船底の鋼板に残る、無残な引きちぎられ痕だけ。
「どういうことだ?」アンリが機体を静止させる。「着底の衝撃で折れて、泥に埋まったのか?」
「いや、待ってくれ」
賢治はモニターに顔を近づけた。「折れ方がおかしい」
賢治の指摘に、マルクがズームレンズを操作する。
船底に残されたシャフトの切断面。
それは、他の三本のように「曲がって折れた」ものではなかった。
根元から鋭利に、そして乱暴に「爆発的に」切断されたような痕跡を留めていた。
「接近してくれ。断面を詳細に見たい」
賢治の要求に応じ、アンリは危険を承知でノティール号を船体に寄せた。
ライトの光が、錆びついた金属の傷口を鮮明に映し出す。
「見てくれ、この周囲の外板を」賢治が指差す。「内側に凹んでいる(コンケーブ)。そして、破断面の金属組織がねじ切れている(シェア・ストレス)。これは、着底時の衝撃じゃない」
船内に、技術者たちの熱気が充満し始めた。
これは単なる観察ではない。七〇年前の殺人現場の検証だ。
「アンリ、君の意見を聞きたい」賢治が問う。「もし着底の衝撃で折れたのなら、シャフトはどの方向に曲がる?」
「船体は裏返しで落ちた。当然、シャフトは海底にぶつかり、船体側(上方向)へ押し付けられて折れるはずだ。左舷の二本がそうであるようにな」
「そうだ。だが、この右舷外軸の痕跡は違う。ブラケットごと『毟り取られて』いる」
マルクがタブレットで過去のデータを検索する。
「米軍の戦闘記録によれば、大和への魚雷命中は左舷に集中していたはずだ。右舷への命中は確認されていないか、あっても軽微だと」
「ああ、それが通説だ」賢治が頷く。「だからこそ、大和は左舷に傾斜して転覆した。右舷にも同じくらい魚雷を受けていれば、船体は水平沈下したはずだからな」
だが、目の前の現実は、歴史書の記述を否定していた。
右舷の推進軸が、何らかの強大な外力によって根こそぎ破壊されている。
「仮説だ」
賢治は、一九九九年の調査以前から一部の研究者の間で囁かれていた、ある可能性を口にした。
「もし、ここに『幻の一本』が命中していたとしたら?」
「魚雷か?」
「そうだ。艦尾右舷、スクリュー付近への魚雷命中。……これが決定打になった可能性がある」
賢治はノートPC上で流体力学のシミュレーションモデルを展開した。
高速回転するスクリュー。そこへ爆発物が接触した場合の破壊力学。
「想像してくれ。全速力で回転しているシャフトに、数百キロの爆薬が直撃する。あるいは至近距離で炸裂する。……回転のエネルギー(トルク)と爆発の衝撃波が干渉し合い、シャフトは回転軸から外れ、暴れ回る」
「金属疲労どころの話じゃないな」マルクが呻く。「瞬間的な剪断破壊だ」
「そうだ。暴れたシャフトはブラケットを破壊し、船体外板を叩き割りながら脱落する。……その際、艦尾付近に大量の浸水を引き起こす」
アンリが口を挟む。
「だが、もし右舷に浸水したなら、左舷への傾斜は回復するはずじゃないか?」
「場所が問題なんだ」賢治は答えた。「ここは艦尾の最後端だ。ここに浸水すれば、船はお尻から沈もうとする。……そして何より、推進力を失う」
大和は最後の瞬間まで、二七ノット近い高速で回避運動を行っていたとされる。
だが、もしこの右舷外軸が破壊されていたとしたら?
四本のうち一本を失い、さらに破壊された開口部から浸水し、バランスを崩す。
それは、回避運動の限界点を超えさせる「最後の一押し」になり得たのではないか。
「見てくれ、あそこだ」
マルクがモニターの一点を拡大した。
シャフトが抜け落ちた穴の周辺。鋼板がめくれ上がり、焼け焦げたような変色が見られる。
「高熱の痕跡……。やはり爆発か」
三人は沈黙した。
深海の冷たい水の中、その焼け跡だけが、かつての炎の記憶を留めていた。
一九四五年四月七日。
雲霞のごとき米軍機の中で、ある一機の雷撃機が投下した魚雷。
それが、誰にも気づかれることなく、この右舷スクリューに吸い込まれた。
報告書にも載らず、生存者の記憶にも残らなかった「幻の一撃」。
それが、不沈戦艦の足を止め、その命運を決定づけたのかもしれない。
「……ミステリーだな」
アンリが静かに言った。「七〇年経って、ようやく被害届が出されたわけだ」
「第四スクリューの欠損。……これは今回の調査における最大の発見の一つになる」
賢治はキーボードを叩き、観測ログに記録した。
『右舷外軸、脱落確認。破断面および周辺外板の形状より、外部からの爆発衝撃による破壊と推定される』
それは、単なる部品の欠損ではない。
「大和はなぜ沈んだのか」という問いに対する、新たな、そして決定的なピースだった。
左舷への集中攻撃による転覆という定説に、右舷後部からの致命的な一撃という新たな事実が加わる。
スクリューを毟り取られた巨体は、推力のバランスを失い、悲鳴を上げながら旋回し、そして横転していったのだ。
「まだ何かあるか?」マルクが尋ねる。
「いや、シャフトに関しては十分だ」
賢治は顔を上げた。
「だが、この艦尾セクションには、まだ我々が見るべきものがあるはずだ。……例えば、海底に散らばる『生活の痕跡』だ」
「デブリフィールドか」
「ああ。機械の体は見た。次は、そこに生きていた人間たちの証を探したい」
アンリがバラストを調整し、ノティール号をわずかに浮上させる。
右舷外軸の空虚な穴が、ライトの光から外れ、再び闇の中へと消えていく。
消えた第四スクリュー。
その不在こそが、最も雄弁な歴史の証人だった。
ノティール号は艦尾を離れ、周辺の泥の平原へと移動を開始する。
そこには、船体からこぼれ落ちた無数の遺物が、星屑のように散らばっているはずだ。
技術的な検証から、鎮魂の旅へ。
潜水艇内の空気も、少しずつ変わり始めていた。




