第185章 第7章:反転する巨像 —— 艦尾セクション
ノティール号は、カオスの海と呼ばれた船体中央部の断裂帯を抜け、さらに南側へと進路を取っていた。
深度三四〇メートル。
海底の泥は、先ほどの調査で巻き上げられたためか、まだ薄く濁っている。視界は悪い。だが、ソナーの反応は明確だった。
瓦礫の帯を越えた先に、もう一つの巨大な山塊が待ち構えていた。
「距離五〇。……大きいぞ」
パイロットのアンリが、コンソールの輝度を上げながら言った。「艦首部分に匹敵するサイズだ」
日本人オブザーバーの賢治は、手元の地図データを確認した。
「艦尾セクションだ。大和は爆発の衝撃で船体が二つに分かれ、それぞれ別の軌道を描いて沈下した。艦首と艦尾の距離は、約一七〇メートル離れている」
「一七〇メートル……。ひとつの街区ほども離れてしまったわけか」
コパイロットのマルクが、外部カメラのズームを調整する。
HMIライトの光束が、闇の中に浮かぶ巨大な壁を捉えた。
だが、それは彼らが先ほどまで見ていた艦首の風景とは、決定的に異なっていた。
「……逆さまだ」
マルクが呟いた。
そこに現れたのは、甲板ではなかった。
巨大な曲面を描く、船底だった。
艦首部分は右舷を下にして「横倒し」になっていたが、この艦尾部分は完全に「裏返し(キャップサイズ)」になっていた。
キール(竜骨)が真上を向き、本来なら海中に没しているはずの船底が、今は深海という空に向かって背中を晒している。
「重力と浮力のいたずらだな」
賢治が冷静に解説を加える。「艦後部には重量のある主砲塔が残っていなかった(第三主砲塔も脱落している)。さらに、航空甲板の下には格納庫や居住区といった空洞が多い。内部に残った空気が浮力となり、沈下中にバランスを崩して、完全に反転した状態で着底したんだ」
ノティール号は、その巨大な鉄の鯨の背中――いや、腹の上を滑るように進んでいく。
船底塗料の赤色はとうに色褪せ、厚い灰色の堆積物に覆われているが、ビルジキール(横揺れ防止ひれ)の長く鋭いラインだけが、かつての船体の形状を主張していた。
視界が上下逆転した世界。
脳が平衡感覚を失いそうになるのを堪えながら、アンリは機体を艦尾の末端へと誘導する。
「スクリューシャフトを確認」
アンリの声が響く。
船体から突き出した四本の支柱。
直径五メートルを誇った巨大なプロペラ(スクリュー)は、着底の衝撃で脱落したのか、あるいは泥の中に深く埋没しているのか、見当たらない。
だが、太さ一メートル近い鋼鉄の推進軸が、無残にねじ切られ、あるいは曲がって露出していた。一五万馬力を海に伝え、七万トンの巨体を二七ノットで走らせた剛腕も、今となっては折れた骨のように痛々しい。
「深度三四五。最深部へ回り込む」
アンリが操縦桿を倒し、ノティール号をさらに沈降させる。
船体の最後尾。
そこに、賢治が最も確認したかった「答え」があるはずだった。
「ターゲット確認。主舵だ」
賢治の声に熱が帯びる。
ライトの中に、巨大な板状の構造物が浮かび上がった。
高さ約五メートル、面積一八平方メートル。
戦艦大和の運動性能を司っていた、半平衡吊り舵である。
船体が裏返しになっているため、舵もまた、天井からぶら下がるような格好で泥の上に浮いていた。
「角度を測定してくれ。これが重要なんだ」
賢治はノートPCの画面を睨みながら指示を出した。
一九四五年四月七日、一四時一七分。
最後の大空襲の中、艦長席から下された最後の操艦命令。
『取舵、一杯』。
迫り来る魚雷を回避するため、あるいは傾斜した船体のバランスを立て直すため、大和は左へ急旋回を試みたと言われている。
その証言が真実か否か。七〇年の沈黙を経て、物理的証拠が今、目の前にある。
「レーザースケーラー照射。……基準線を確認」
マルクが慎重に操作する。
緑色のレーザーが、船体の中心線と、舵の角度のズレを可視化する。
舵は、真っ直ぐではなかった。
大きく切られていた。
「……左だ」
アンリが計器の数値を読み上げる。「船体が逆さまだから見え方が逆になるが、これは間違いなく『左』に切られている」
「角度は?」
「三五度。……一杯だ」
三五度。
それは、舵が物理的に動ける限界の角度だった。
機械的な故障で偶然この位置で止まったのではない。油圧ラムが限界まで押し出され、その位置でロックされた状態だ。
「……証言通りだ」
賢治は深く息を吐き出した。「最期の瞬間、操舵員はステアリングを左に回し切り、その状態で固定された。大和は左旋回を続けながら、横転し、爆発したんだ」
賢治の脳裏に、当時の光景がフラッシュバックする。
傾く艦橋。鳴り響く警報音。
『取舵一杯! 急げ!』
叫ぶ航海長。必死の形相で舵輪にしがみつく操舵員。
二七ノットの全速力で走る七万トンの巨体が、急激な左旋回によって遠心力を生み出し、さらに右舷への傾斜を加速させる。それは回避行動であると同時に、転覆への引き金を引く行為でもあったかもしれない。
だが、彼らは最後まで諦めていなかった。
この三五度の角度は、生き残ろうとした意思の角度だ。
「さらに下を見てくれ。副舵はどうだ?」
主舵の前方にあるはずの小型の舵を探す。
だが、そこには何もなかった。
「副舵、欠損。……いや、待て」
マルクがモニターを指差す。「基部が破損している。おそらく、戦闘中あるいは着底時に脱落したようだ」
ノティール号は、主舵の周囲をゆっくりと旋回する。
泥に半分埋まったその巨大な鉄板には、無数の傷と、フジツボが張り付いていた。
ライトの光が、舵の表面の凹凸を際立たせる。
至近距離で見ると、その表面には、魚雷の衝撃波や機銃掃射の跡と思われる細かい窪みが無数に刻まれているのが分かった。
「……静かだな」
アンリがぽつりと漏らした。「艦首の菊の紋章を見た時もそうだったが、ここには特別な静寂がある」
「ああ。ここは墓標の裏側だからな」
裏返しの世界。
それは、栄光の象徴である艦首が天を向いていたのに対し、この艦尾が無様な姿を晒しているという対比だけではない。
すべてが終わった後の、冷たい現実がここにある。
艦首と艦尾、一七〇メートルの断絶。
それは、三〇〇〇名の乗員たちの命が、物理的にも分断され、引き裂かれたことを意味していた。
「……アンリ、移動しよう。これ以上、長居は無用だ」
賢治はPCを閉じた。「事実は確認できた。左舵一杯。これが大和の最期の姿勢だ」
「了解。上昇する」
ノティール号のスラスターが泥を巻き上げる。
巨大な主舵が、茶色い煙幕の中へと消えていく。
左に切られたままのその舵は、永遠に曲がりきれない旋回を、深海の底で続けているようだった。
「次は?」マルクが尋ねる。
「浮上しながら、周囲のデブリフィールド(散乱海域)を確認する。……スクリューの羽根や、乗員の遺留品が見つかるかもしれない」
ノティール号はゆっくりと高度を上げ始めた。
反転した巨像は、再び闇の中へと沈黙する。
深度三〇〇メートル。
彼らは、逆さまの世界から、再び「上」のある世界へと戻っていく。だが、賢治の心には、あの「左一杯」の舵の映像が、焼き付いて離れなかった。




