第167章 第7章:境界線の崩壊
視点:ボリス・グロモフ大佐
所属:ソビエト連邦陸軍 第8親衛戦車軍 第79親衛戦車師団 師団長
場所:東ドイツ(DDR)/西ドイツ国境付近、フルダ・ギャップ(Fulda Gap)北端
日時:1983年11月7日 16:15 Z(現地時間 17:15)
T-80B主力戦車(MBT: Main Battle Tank)の砲塔内は、ガスタービンエンジン(GTD-1000TF)の高周波音と、オイル、そして男たちの汗の臭いで満たされていた。
「『ザリャー(Zarya / 方面軍司令部)』からの応答、依然としてありません」
通信士の悲痛な声が、インカムのノイズ混じりに響く。
グロモフ大佐は、ペリスコープ(潜望鏡)に額を押し付けたまま、歯ぎしりをした。
HF(短波)もVHF(超短波)も死んでいる。部隊間無線(R-123M)ですら、強烈な電磁干渉で数百メートル先までしか届かない。
「太陽フレア」だという情報が最後に届いた断片だった。だが、グロモフのような現場の軍人にとって、それは欺瞞(Maskirovka)にしか聞こえなかった。
彼の目の前、わずか2キロメートル先の稜線(Ridge Line)には、NATO軍のレオパルト2(Leopard 2 / 西ドイツ軍の主力戦車)と、米軍のM1エイブラムス(M1 Abrams)が展開している。
彼らは演習『エイブル・アーチャー』の名目で、完全に実戦配備(Combat Ready)の態勢をとっていた。砲塔はこちらを向き、エンジンはアイドリングし、赤外線暗視装置(IR Sight)の不気味な瞳がこちらを凝視している。
「大佐、第1大隊長が手旗信号(Semaphore)を送ってきました」装填手が叫ぶ。「『敵、前進の気配あり』と!」
グロモフは目を凝らした。
夕闇が迫る雨の中、確かにNATOの戦車群が動いた。防御陣地を出て、攻撃隊形(Assault Formation)に移行しつつあるように見える。
もし、この「通信途絶」が敵の仕業だとしたら?
もし、モスクワがすでに核攻撃を受け、司令部が蒸発していたら?
ソ連軍のドクトリン(教義)は明確だ。
「指揮系統が寸断された場合、指揮官は独断でイニシアチブ(主導権)を取り、敵の攻撃を粉砕せよ」
待てば、殺される。
敵は通信を遮断し、こちらの目が潰れている隙に、フルダ・ギャップを一気に突破して東ドイツへ雪崩れ込むつもりだ。
「我々は座して死を待つわけにはいかん」
グロモフは決断した。それは論理ではなく、生存本能だった。
「全車、通達(All Stations)! ……くそ、無線は通じん! 信号弾だ! 赤2発! 『攻撃前進(Attack Advance)』!」
「本気ですか、大佐! 司令部の許可が……」
「司令部はもうないかもしれんのだ!」グロモフは怒鳴った。「祖国を守るために、我々が敵の出鼻をくじく! 前進せよ(Vpered)!」
シュッ、シュッ。
赤い照明弾が重たい雲の下で炸裂し、戦場を血の色に染めた。
それを合図に、数百両のT-80とBMP-2(歩兵戦闘車)が、一斉にエンジンを咆哮させた。履帯(Caterpillar)が泥を跳ね上げ、鉄条網を、そして国境の検問所を物理的に踏み潰していく。
境界線(Border)は、物理的な柵ではなく、心理的な壁だった。
今、その壁が崩壊した。
ドォォォォン!!
最初の125mm滑腔砲(2A46 Smoothbore Gun)が火を噴いた。APFSDS(Armor-Piercing Fin-Stabilized Discarding Sabot / 装弾筒付翼安定徹甲弾。タングステンや劣化ウランの侵徹体が超高速で飛び、敵の装甲を貫く)が、西側の林を切り裂く。
第三次世界大戦は、宣戦布告の演説もなく、泥と油にまみれた現場指揮官の恐怖心から始まった。
視点:マイケル・"デューク"・エリソン大尉
所属:アメリカ陸軍 第11装甲騎兵連隊(11th ACR "Blackhorse")
場所:西ドイツ、ヘッセン州 観測所アルファ(OP Alpha)後方
日時:1983年11月7日 16:30 Z
「あいつら、狂ったか!?」
エリソン大尉は、双眼鏡を下ろし、ブラッドレー歩兵戦闘車(M2 Bradley)のハッチに身を隠した。
国境の向こう側から、赤い大河のようにソ連軍機甲師団が押し寄せてくる。演習ではない。実弾が飛び交い、前方のM60A3戦車が爆発炎上している。
「CP(Command Post / 指揮所)! こちらイーグル・ワン! 敵が越境した! 繰り返す、敵が越境! 全面侵攻だ!」
無線機からの応答は、砂嵐のようなノイズだけだ。
「ジャミングが強すぎます! 通じません!」通信兵が叫ぶ。
「クソッ! 砲兵支援(Artillery Support)なしで、T-80の波を止められるか!」
第11装甲騎兵連隊の任務は「遅滞戦闘(Delaying Action)」だ。本隊が到着するまでの時間を稼ぐための捨て石。だが、敵の数は想定を遥かに超えている。
目の前で、部下の小隊が蹂躙されていく。圧倒的な質量(Mass)の暴力。
その時、連隊の作戦網(Tactical Net)に、奇跡的にノイズ混じりの音声が割り込んだ。
『……全ユニット……こちら……サンダーボルト……』
旅団司令部からの割り込みだ。
『……状況は……極めて……クリティカル……。承認コード……ブラボー・シエラ・エックスレイ……。パッケージ……使用を……許可する……』
エリソンは耳を疑った。
パッケージ(The Package)。
それは、特定の弾薬を指す隠語だ。
「大尉! 本気ですか!? ここはドイツの国土ですよ!」
副官が青ざめた顔で詰め寄る。
「奴らをここで止めなければ、フランクフルトまでノンストップだ!」エリソンは自分に言い聞かせるように叫んだ。「それに、もう許可が出た。我々が撃たなくても、後方の砲兵が撃つ!」
エリソンはブラッドレーのハッチを閉め、NBC防護システム(Nuclear, Biological, Chemical Protection / 核・生物・化学兵器防護装置。車内を加圧し、フィルターで汚染物質を除去する)を起動した。
「全車、衝撃に備えろ(Brace for Shock)! 防護姿勢!」
視点:砲兵中隊長
場所:後方支援陣地
M109A2 155mm自走榴弾砲(Self-Propelled Howitzer)の閉鎖機が、重々しい音を立てて閉じられた。
装填されたのは、通常のHE(榴弾)ではない。
M454 AFAP(Artillery Fired Atomic Projectile / 核砲弾)。
W48核弾頭を内蔵した、直径155mmの「小さな太陽」だ。出力は0.072キロトン(72トン相当のTNT)。広島型に比べれば豆鉄砲だが、密集した戦車部隊を蒸発させるには十分すぎる威力を持つ。
「射撃諸元(Firing Data)、入力完了! 信管、時限(Time Fuze)! 目標、フルダ街道上の敵先鋒!」
中隊長の手には、二人の将校が同時に回すための鍵(PAL: Permissive Action Link / 核使用許可装置の簡易版)が握られていた。
通信途絶という極限状況下における「事前の権限委譲(Pre-delegation)」規定が、最悪の形で適用されたのだ。
「発射(Fire)!」
砲身が後座し、大地が揺れた。
通常の砲撃音とは異なる、乾いた、そして不吉な音が響いた。
視点:ボリス・グロモフ大佐(ソ連軍)
T-80戦車が前線を突破し、勝利を確信した瞬間だった。
視界(Vision Block)が、純白に染まった。
「!?」
音はない。光だけが全てを支配した。
数百メートル前方、味方の先頭中隊の上空150メートルで、新たな太陽が生まれた。
核爆発(Nuclear Detonation)。
戦術級とはいえ、そのエネルギーは物理法則を暴力的に書き換えた。
熱線(Thermal Radiation)が、先行していたT-80の反応装甲(Reactive Armor)を一瞬で溶解させ、外部燃料タンクを引火させる間もなく気化させた。
続いて、衝撃波(Blast Wave)が襲う。
数トンの鉄の塊である戦車が、まるで子供の投げたおもちゃのように横転し、宙を舞った。
「核だ……!」
グロモフは叫ぼうとしたが、声にならなかった。
T-80の車内にも衝撃が走り、計器類が火花を散らす。中性子線(Neutron Radiation)が分厚い装甲を透過し、乗員の細胞を、DNAを、静かに、しかし確実に破壊していく。
グロモフの視界の端で、西ドイツの美しい森が、一瞬にして炭化したマッチ棒の原野へと変わっていくのが見えた。
「奴ら……やりやがった……」
彼は血の泡を吹きながら、朦朧とする意識の中で理解した。
これは「戦闘」ではない。
これは「絶滅」の始まりだ。
ソ連軍のドクトリンにおいて、敵が核を使用した場合の対応手順は一つしかない。
「即時、かつ大規模な核報復」。
戦術核の使用は、パンドラの箱の最後の蓋(Lid)だった。
今、それが吹き飛んだ。
電磁パルス(EMP)が再び周囲の電子機器を焼き切る中、生き残ったソ連軍のスカッドミサイル(Scud Missile)発射部隊が、汚染された戦場で、報復のために弾頭を「通常」から「核」へと交換し始めていた。
境界線は崩壊した。
人類は今、後戻りできない一線(Point of No Return)を越えたのだ。
(第7章 完)




