第163章 第3章:デフコン・スリー
視点:ロバート・ケイン(国家安全保障会議 欧州・ソ連担当軍事顧問)
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス 地下危機管理室(Situation Room)
日時:1983年11月7日 09:30 EST(東部標準時)/14:30 Z
マホガニー製の会議テーブルを囲む空気は、タバコの煙と焦燥感で白く濁っていた。
「ソ連軍の動きが、通常の演習パターン(Exercise Profile)を逸脱しています」
NSA(国家安全保障局)長官が、機密区分「TOP SECRET / UMBRA(最高機密・通信諜報)」の赤いスタンプが押されたファイルをテーブルに滑らせた。
ロバート・ケインは、眉間のしわを揉みほぐしながらその資料を手に取った。彼はベトナムで泥水をすすり、ランド研究所(RAND Corporation / 米国の軍事・外交政策シンクタンク)で核戦略の数理モデルを構築してきた男だ。だが、目の前のデータは、どんなゲーム理論の教科書にも載っていない異常値を示していた。
「詳しく頼む」大統領補佐官(国家安全保障担当)が短く促す。
「まず、バルト海沿岸の航空基地です」NSA長官が衛星写真の拡大図を指し示す。「Tu-22M(ソ連の超音速爆撃機。核ミサイル搭載可能)の飛行隊が、即時発進待機(Alert Status)に入りました。さらに、ベラルーシの森林地帯で、RSD-10《パイオニア》(NATO名:SS-20 Saber / 移動式中距離弾道ミサイル。欧州全域を射程に収める)の連隊が、通常の駐屯地を出て分散展開しています」
「演習の一環ではないのか? 現在、彼らも革命記念日の祝典期間だろう」
「否定的な材料があります」CIAの分析官が口を挟んだ。「HUMINT(Human Intelligence / スパイや協力者を用いた人的諜報)からの情報です。東ドイツ駐留ソ連軍(GSFG)において、将校の休暇が全キャンセルされ、家族を本国へ送還する動きが見られます。さらに、野戦病院への輸血用血液の搬入が急増しています。これは……侵攻準備の典型的な兆候(Indications and Warning / I&W)です」
ケインは冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
ソ連が怖がっている? それとも、本当にやる気なのか?
「バレンツ海での潜水艦衝突事故が、彼らのスイッチを入れた可能性があります」ケインは慎重に言葉を選んだ。「彼らは我々の演習『エイブル・アーチャー』を、実際の攻撃のためのカモフラージュだと疑っているのかもしれません。ソ連の指導部は、常にパラノイア(偏執病)的なまでに『1941年の再来(バルバロッサ作戦によるナチスドイツの奇襲)』を恐れていますから」
「だとしてもだ」補佐官が声を荒らげる。「欧州に向けられた数百発の核ミサイルを野に放ったまま、黙って見ているわけにはいかん。弱腰を見せれば、彼らは西ベルリンを獲りに来るぞ」
テーブルの空気が張り詰める。抑止(Deterrence)のジレンマだ。
何もしなければ、相手は「攻撃のチャンス」と捉えるかもしれない。
強く反応しすぎれば、相手はそれを「攻撃の予兆」と捉え、先制攻撃(Preemptive Strike)の口実を与えることになる。
「大統領の意向は明確だ」補佐官が言った。「『我々は彼らの動きを全て把握している。そして、いかなる挑発にも応じる用意がある』という、明確なシグナルを送る必要がある」
ケインは、喉の奥が乾くのを感じた。「つまり、デフコン(DEFCON / Defense Readiness Condition:防衛準備態勢)の引き上げですか?」
「DEFCON 3だ」
室内の誰かが息を呑んだ。
DEFCON 5が平時。現在は4。それを3に引き上げるということは、米軍全体が「戦時即応体制」の一歩手前までギアを上げることを意味する。
「空軍は15分以内で全爆撃機を発進可能な状態にし、ICBMの要員交代を凍結。潜水艦隊は出港準備。そして、無線封止(Radio Silence)の解除による通信量の増大……」ケインは頭の中でチェックリストを反芻した。「これは非常に強いメッセージになります。モスクワはこれを、単なる『警戒』ではなく、『攻撃隊形の確立』と受け取る危険性があります」
「ロバート、君の懸念はわかる」補佐官はケインを直視した。「だが、SS-20が森の中に隠れ、照準をロンドンやパリに合わせている今、我々が動かなければ、NATO同盟国はパニックを起こす。同盟の結束(Coupling)を維持するためにも、強い姿勢が必要なんだ」
政治的な論理。同盟のメンツ。そして、「相手が引くはずだ」という楽観的な期待。
ケインは、それが第一次世界大戦の開戦前夜と同じ論理構造であることを知っていたが、対案を持っていなかった。ソ連の動員が事実である以上、対抗措置は避けられない。
「……承知しました。統合参謀本部(JCS)へ伝達します」
ケインは受話器を取り上げた。その回線は、ペンタゴンの国家軍事指揮センター(NMCC)に直結している。
「こちらホワイトハウス。NCA(National Command Authority / 国家指揮権限。大統領および国防長官)の指示により、全軍の警戒態勢をDEFCON 3へ移行せよ。繰り返す、DEFCON 3。演習コード『コックド・ピストル(Cocked Pistol / 拳銃の撃鉄を起こす)』ではない。実任務(Real World)だ」
指令は、光の速さで世界中を駆け巡る。
WWMCCS(World Wide Military Command and Control System / ウィメックス:全世界軍事指揮統制システム)を通じて、ネブラスカ州の戦略航空軍団(SAC)地下司令部へ、ノーフォークの大西洋艦隊司令部へ、そして西ドイツのラムシュタイン空軍基地へ。
ノースダコタの寒風吹きすさぶ滑走路では、B-52H戦略爆撃機のエンジンが一斉に始動し、黒煙を上げるだろう。
太平洋の深海では、オハイオ級原潜がアンテナを伸ばし、発射深度へと浮上するだろう。
そして、メリーランド州のアンドリュース空軍基地からは、E-4B(国家空中作戦センター / NAOC:核戦争時に大統領が搭乗して指揮を執る『空飛ぶホワイトハウス』)が緊急発進する。
それらすべての動きは、ソ連の偵察衛星や傍受基地によって、数分以内に探知される。
ケインは受話器を置き、壁のデジタル時計を見上げた。
秒針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえた。
「我々は今、銃を抜いてテーブルの上に置いた」ケインは独りごちた。「相手がそれを『自衛』と見るか、『決闘の合図』と見るか……それはもはや、我々のコントロールできる範疇を超えている」
通信コンソールのアラートランプが、不吉な赤色に点滅し始めた。
それは、バレンツ海での「小さな事故」と、この「政治的シグナル」が化学反応を起こし、制御不能な連鎖反応(Chain Reaction)を開始したことを告げる最初の警報だった。
(第3章 完)




