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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

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第162章 第2章:RYaN(リャン)の影


視点:エレナ・ロストワ少佐

所属:KGB第1総局(PGU) 情報分析部

場所:モスクワ郊外、ヤスネヴォ・コンパウンド(KGB第1総局本部ビル)

日時:1983年11月7日 12:15 Z(モスクワ時間 15:15)


空調のファンが低く唸る無機質な部屋で、エレナ・ロストワは、緑色の蛍光を発する端末の画面を見つめていた。

そこには、世界の「終わり」までの距離が、冷徹な数値として表示されていた。

「ロンドン支局(Rezidentura / レジデントゥーラ。在外公館に偽装された諜報活動拠点)からの定時連絡、更新されました。英国防省周辺での公用車の出入り、平常時より40%増加。血液銀行への未確認の搬入報告あり」

部下の分析官が、パンチカードの束を抱えて報告に来る。エレナは指先でこめかみを揉んだ。

「血液銀行の備蓄増加……。RYaNリャンのパラメーター項目、7-Bに該当ね」

RYaN(Raketno-Yadernoe Napadenie)。

ロシア語で「核ミサイル攻撃」を意味するこの頭字語は、1981年にアンドロポフ議長(当時)が発動した、ソ連史上最大かつ最も偏執的な情報収集作戦のコードネームだ。

その目的はただ一つ。「西側連合軍による核先制攻撃(First Strike)の兆候を早期に探知すること」。

ソ連指導部は確信していた。レーガン政権は、ソ連との共存ではなく、ソ連の抹殺を画策していると。彼らは「いつ」攻撃してくるかを探るため、数千ものチェックリストを作成していた。血液の備蓄、重要人物の移動、家畜の屠殺数の変化、そして暗号通信の量……。

それら全ての断片情報を、このヤスネヴォの地下にあるメインフレーム・コンピュータ「ES EVM(ES Electronic Computer / IBM System/360の互換機として開発されたソ連製大型計算機)」に入力し、戦争の危険度を算出するのだ。


「少佐、バレンツ海艦隊司令部より緊急暗号(Flash Traffic)が入電しています。GRU(Glavnoye Razvedyvatelnoye Upravleniye / ソ連軍参謀本部情報総局。軍の管轄する諜報機関)経由です」

渡されたテレタイプの用紙を見た瞬間、エレナの背筋に冷たいものが走った。

『北方艦隊所属ヴィクターIII級原潜《K-324》、米海軍潜水艦と接触事故発生。詳細不明。現在、通信途絶中』

「接触(Collision)……?」

エレナは呟き、すぐに壁面の巨大な状況図を見上げた。そこには北大西洋からバレンツ海にかけての海図が投影されている。

「ただの事故ではありません」

背後から低い声がした。振り返ると、イワン・ソコロフ大佐が立っていた。長年の情報畑で猜疑心を骨の髄まで染み込ませた、彼女の直属の上司だ。

「大佐、現場は浅瀬です。水温躍層の悪戯で、偶発的に……」

「偶発などない」ソコロフは吐き捨てるように言った。「弁証法的唯物論(Dialectical Materialism)の世界に偶然はないのだ、エレナ。あるのは必然と意図だけだ」

彼は太い指で海図のバレンツ海を叩いた。

「見ろ。ここは我々の『バスティオン(Bastion / 要塞聖域。戦略ミサイル原潜を温存し、報復核攻撃能力を維持するために防御を固めた海域)』の喉元だ。そこに米軍のロサンゼルス級が入り込み、我々のハンター・キラー(Hunter-Killer / 敵潜水艦を攻撃する任務を帯びた攻撃型原潜)に『接触』した。これをどう読む?」

エレナは分析官としての論理を組み立てた。RYaNのロジックに従えば、答えは一つしかなかった。

「……対潜障壁の無力化、です」


「その通りだ」ソコロフは満足げに頷いた。「核先制攻撃を成功させるための絶対条件は何か? それは、敵の報復能力(Second Strike Capability)を奪うことだ。つまり、我々のタイフーン級やデルタ級が報復ミサイルを撃つ前に、それらを護衛する攻撃原潜を排除し、聖域を丸裸にする必要がある」

ソコロフは机上のレポートを指差した。

「ブリュッセル(NATO本部)では、今日から大規模指揮所演習『エイブル・アーチャー83(Able Archer 83)』が開始される。名目は演習だが、そのシナリオは『通常戦争から核戦争への移行』だ」

エレナは反論を試みた。「しかし、毎年行われている定例演習です」

「今年は違う」ソコロフの目が光った。「通信の暗号化方式が一新された。そして、英国と米国間で、これまでにない周波数帯でのバースト通信(Burst Transmission / 短時間に圧縮したデータを送信し、探知と解読を困難にする通信技術)が観測されている。これは何を意味するか? 彼らは『本番』のリハーサルをしているのではない。『本番』を『リハーサル』に見せかけているのだ。マスキロフカ(Maskirovka / 偽装、欺瞞工作。軍事的な意図を隠蔽するためのあらゆる措置)だ」


エレナは、ES EVMの端末に向き直った。

彼女の役割は、これらの情報を統合し、客観的な数値を弾き出すことだ。だが、入力されるデータは全て「最悪の解釈」というフィルターを通していた。

確証バイアス(Confirmation Bias / 仮説を支持する情報ばかりを集め、反証を無視する傾向)。KGBという巨大な官僚機構全体が、集団ヒステリーのようなバイアスに陥っていた。

もし、バレンツ海の衝突が本当にただの事故だったら?

もし、NATOの暗号変更がただの技術的更新だったら?

しかし、システムに「もしも」を入力する項目はない。

「入力しろ、少佐」ソコロフが促す。「バレンツ海の件は『攻撃的偵察(Aggressive Reconnaissance)』ではなく、『作戦行動の第1フェーズ(Preliminary Phase of Operations)』として処理せよ」

エレナの手が震えた。

そのカテゴリーを選択すれば、RYaNの「危機指数」は閾値を超える。それは政治局(Politburo)に対し、軍の即応態勢引き上げを勧告することを意味する。

「大佐、情報の裏付けが不足しています。衛星写真の解析を待つべきでは……」

「待っている間に、パーシングII(Pershing II / 西ドイツへの配備が進められていた米軍の準中距離弾道ミサイル。モスクワまでわずか数分で到達し、奇襲攻撃能力が高いと恐れられた)がクレムリンに降り注ぐかもしれんのだぞ!」

ソコロフの怒声が響いた。

「我々の任務は、祖国を守るための警告を発することだ。過小評価して国を滅ぼすより、過大評価して叱責される方がマシだ」

エレナは唇を噛み締め、キーボードを叩いた。


コマンド:UPDATE_THREAT_MATRIX

事象入力:INCIDENT_BARENTS_SEA >> CATEGORY: HOSTILE_ENGAGEMENT

関連事象:NATO_EXERCISE_ABLE_ARCHER >> STATUS: COVER_FOR_DEPLOYMENT

緑色のカーソルが明滅し、計算結果を吐き出した。


【総合危機指数(GTI):LEVEL 3 - CRITICAL】

【判定:先制攻撃の準備兆候あり】

「よろしい」ソコロフは冷ややかに言った。「直ちにアンドロポフ書記長へ報告書を上げる。それと、軍参謀本部に連絡しろ。デフコン(DEFCON)に相当する我々の警戒レベルを引き上げる必要がある」

エレナはプリントアウトされた用紙を破り取った。

紙の端が、指先でカサカサと乾いた音を立てた。それは、まるで枯れ葉が燃え上がる前の音のように聞こえた。

彼女は知っていた。この報告書が、モスクワから遠く離れたワシントンで、あるいは大西洋上の米軍艦隊で、鏡写しのような「過剰反応」を引き起こすことを。

相互不信という名の増幅回路(Amplifier)が、小さなノイズを、世界を震わせるハウリングへと変えていく。

「これで、もう後戻りはできませんね」

エレナの独り言は、冷却ファンの音にかき消された。

システム画面の隅で、新たなアラートが点滅を始めた。西ドイツ国境付近での、NATO軍の通信トラフィック急増を知らせるものだった。

「戦争」は、まだ始まっていない。だが、「平和」は、今この瞬間、この部屋で殺されたのだ。

(第2章 完)


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