第161章 第1章:バレンツ海の接触
視点:ジェームズ・"マック"・マカリスター中佐
所属:アメリカ海軍 ロサンゼルス級原子力潜水艦 SSN-698《ブレマートン》
場所:バレンツ海、北緯72度・東経35度、深度180メートル
日時:1983年11月7日 08:42 Z(ズールー時間/グリニッジ標準時)
海水は、摂氏0.5度という極低温の鉛のように重く、そして黒かった。
「コナー、ソナー。シエラ2の音紋(Signature / 艦艇が発する固有の音響特性)、依然として鮮明。方位0-1-5。第1コンバージェンス・ゾーン(CZ: Convergence Zone / 深海の圧力と温度勾配により音波が屈折し、海底や海面で反射することなく数十キロ遠方へ集束して届く領域)に捕捉されています」
ソナー室(Sonar Shack / 潜水艦の聴音室。音響情報の収集・分析を行う中枢)からの報告が、艦内通話回路(1MC)ではなく、ヘッドセットの回線を通じてマカリスターの耳に届く。彼は発令所(Conn / 潜水艦の指揮所)の中央にある潜望鏡スタンドに片手を置き、赤い照明に照らされた計器類を睨みつけていた。
「距離は?」マカリスターは低い声で尋ねた。
「推定32海里。D/E角(Depression/Elevation Angle / 仰俯角。音波の到来する垂直方向の角度。これと深度データから距離を算出する)の解析と一致。間違いない、デカブツです」
マカリスターは頷いた。《ブレマートン》が追っているのは、ソビエト連邦海軍が誇る最新鋭の怪物、プロジェクト941《アクーラ》級(NATOコードネーム:タイフーン級)戦略ミサイル原子力潜水艦だ。水中排水量48,000トン。第二次大戦時の空母に匹敵する巨体に、20基のRSM-52弾道ミサイルを抱え込んだ、人類史上最大の潜水艦である。
「機関長(Eng / Engineer Officer)、速力5ノットを維持。タスカー(Towed Array / 曳航式ソナーアレイ。自艦の騒音から離すために艦尾から数キロメートル後方に曳航する、ホース状の聴音センサー列)を安定させろ。我々は奴のバッフル(Baffles / 推進器の騒音により、艦尾方向のソナーが効かなくなる死角領域)に滑り込む」
「アイ・サー。5ノット維持」
《ブレマートン》は、あたかも真空中を漂う宇宙船のように、音もなく北極海を進んでいた。搭載されたAN/BQQ-5ソナーシステム(Spherical Array / 球形アレイを中心とした統合ソナーシステム。全方位の聴音が可能)は、海中の無数のノイズの中から、タイフーン級特有の減速機(Reduction Gear / タービンの高速回転をプロペラに適した回転数に落とす歯車装置)が発する微細な唸り声を拾い上げていた。
「艦長、水温躍層(Thermocline / 水温が急激に変化する層。音波を屈折・反射させる性質があり、ソナー探知における『音の壁』となる)の深度が変動しています」当直士官(OOD / Officer of the Deck)が囁くように報告した。「レイヤー・デプス(Layer Depth / 混合層の深さ。これより下では音速の変化率が変わり、音波の伝わり方が変化する)が浅くなっています。120メートル付近です」
「厄介だな」マカリスターは眉をひそめた。
冷たい海水と温かい海水の境界が生み出すこの層は、潜水艦にとって諸刃の剣だ。この層の下に隠れれば、海面からのアクティブ・ソナー(Active Sonar / 自ら音波を発し、その反響音で目標を探知する方式。探知能力は高いが、自位置を露呈する危険がある)を弾き返すことができる。だが同時に、こちらの聴音能力も歪められる。
「ソナーよりコナー。新たなトランジェント(Transient / 一時的な突発音。ハッチの開閉音や魚雷発射音など、持続的な機械音とは異なる音)。方位変位急速。頭上です!」
その瞬間、ヘッドセット越しではなく、船殻(Hull / 船体の外郭)を直接叩くような鈍い音が響いた。
ザブン……
マカリスターの背筋が粟立った。
「スプラッシュ(着水音)!」ソナー員が叫ぶ。「航空機からの投下です! ソノブイ(Sonobuoy / 航空機から投下される使い捨ての超小型ソナー。無線で情報を母機に送信する)と思われます!」
「全艦、超静粛航行(Rig for Ultra Quiet / 艦内の不要な機器を停止し、乗員の会話や移動も極限まで制限する騒音管制態勢)!」
マカリスターは即座に命じた。ソ連の対潜哨戒機Tu-142《ベアF》か、あるいはIl-38《メイ》か。いずれにせよ、彼らはこの海域に何かがいると嗅ぎつけたのだ。
「アクティブ・ピン(Ping / アクティブ・ソナーの発信音)来ます!」
キィィィィン!
金属を爪で引っ掻いたような高周波音が、分厚い高張力鋼(HY-80 Steel / 米海軍潜水艦に使用される、降伏耐力80,000psiの特殊鋼)の船体を貫通して響き渡った。
「DICASS(Directional Command Activated Sonobuoy System / 指向性指令探知ソノブイ。航空機からの指令でアクティブ音波を発し、距離と方位を特定する)だ」マカリスターは唇を噛んだ。「奴ら、我々の位置を三角測量(Triangulation / 複数の地点からの方位線や距離の交点で位置を特定する手法)する気だ」
「ソナー、探知されたか?」
「判定不能。しかし、ピンの間隔が短くなっています」
見つかったかもしれない。だが、ここで急加速すれば、キャビテーション(Cavitation / スクリューが高速回転する際に生じる気泡。弾ける際に大きな騒音を発生させ、位置露呈の原因となる)が発生し、確実に位置を特定される。
「おとり(Decoy / 敵のソナーを欺瞞するための音響発生装置)用意。3インチ・ランチャー、装填よし」
マカリスターは判断を迫られた。じっとしているか、それとも躍層の下へ急潜航するか。
「ソナー、シエラ2(タイフーン級)の反応は?」
「……ロスト(Lost / 目標を見失うこと)。いえ、待ってください。シエラ2の音紋の背後に、別の音が分離しました。近距離です! 方位0-9-0!」
「なんだと?」
「高周波のスクリュー音! 回転数高い! これは……ヴィクターIII(Project 671RTM / ソ連の攻撃型原子力潜水艦。静粛性が高く、強力な対潜能力を持つ)です! タイフーンの音響の陰(Acoustic Shadow / 大きな音源の背後や、地形・水温構造によって音波が届きにくい領域)に隠れて随伴していました!」
罠だ。巨大なタイフーン級を囮にして、護衛の攻撃原潜(SSN)が待ち伏せていたのだ。これを「デルタ戦術(Strategic Bastion Defense / 自国の近海要塞にSSBNを囲い込み、攻撃原潜や水上艦で重層的に防衛するソ連のドクトリン)」の実戦応用というのか。
「距離、極めて近い! 2,000ヤード以下! 魚雷発射管注水音(Tube Flooding / 魚雷を発射するために発射管内に海水を満たす際の音。攻撃の最終段階を示す兆候)を確認!」
「取舵一杯(Hard Left Rudder)! 最大戦速(All Ahead Flank)! キャビテーション構うな!」
マカリスターが叫ぶと同時に、操舵手がヨークを引き絞る。《ブレマートン》の原子炉(S6G Reactor / ゼネラル・エレクトリック製加圧水型原子炉。ロサンゼルス級の心臓部)が唸りを上げ、巨大なスクリューが海水を掻きむしる。船体が急激に傾き、配管がきしむ悲鳴を上げた。
だが、遅かった。
物理的な衝撃が、音よりも先に襲ってきた。
ガガガガガァァァァァァン!!
凄まじい轟音とともに、世界が横転した。発令所の海図台に置かれた鉛筆や定規が、弾丸のように空間を飛んだ。マカリスターは潜望鏡スタンドにしがみついたが、強烈なGに耐えきれず床に叩きつけられた。
「衝突(Collision)! 衝突警報!」
「被害報告(Damage Report)!」
非常灯の不気味なオレンジ色の光の中で、マカリスターは立ち上がろうともがいた。
《ブレマートン》のセイル(Sail / 船体上部の塔状構造物。潜望鏡やアンテナ、司令塔機能を持つ)が、急旋回してきたソ連のヴィクターIII級の船腹、あるいは潜舵(Hydroplanes / 潜航・浮上を制御する水中翼)に接触したのだ。
「第1区画より浸水警報! ソナー・ドーム(Sonar Dome / 艦首にあるソナーアレイを保護する強化プラスチック製のカバー)破損の恐れ!」
「機関室、出力低下! 蒸気発生器(Steam Generator)の水位変動!」
マカリスターは血の味を感じた。唇を切ったらしい。だが、彼の脳裏を占めていたのは自身の怪我ではなく、より恐ろしい事実だった。
米ソの最新鋭原潜が、最も緊張の高まる海域で衝突した。
しかも、相手は「先制攻撃」を警戒して神経を尖らせているソ連軍だ。この衝撃を、彼らは何と解釈する?
「魚雷着弾」か? 「衝角攻撃(Ramming)」か?
ヘッドセットから、ソナー員の絶望的な声が響いた。
「艦長、ヴィクターIIIよりアクティブ・ソナー連打! 奴ら、魚雷発射管の扉を開きました!」
マカリスターはマイクを握りしめた。
「スナップショット(Snapshot / 緊急時の即時魚雷発射。精密な射撃解を得る前に、およその方位へ向けて発射すること)用意! 1番、2番発射管!」
これは演習ではない。
冷たいバレンツ海の暗闇の中で、世界を終わらせる最初のドミノが、今まさに倒れようとしていた。
(第1章 完)




