第157章 第10章:発射シーケンス(クライマックス)
1986年11月28日 12:30(ズールー時間)
北極海 ガッケル海嶺付近
深度150フィート(約45メートル)
「ホバリング(懸架)システム、作動中。……敵艦、完全に停止しています」
ソナーのコワルスキー先任兵曹の声は、恐怖で乾いていた。
《ヴァンガード》は、音響の影を抜け、再び《TK-208》を捉えていた。距離は4000ヤード。
タイフーン級は、海面直下の浅深度で、微動だにせずに静止していた。
これは、ただの待機ではない。
全長175メートルの巨体を、潮流の中でセンチ単位で制御する自動トリム・システム。それは、ミサイル発射のための安定したプラットフォーム(土台)を作るための機能だ。
「トランジェント(過渡音)。……ハッチ開放音。……1番、2番、3番……続けて開きます! 現在、4つのミサイルハッチが開放されました!」
「発射深度を確認」
マカリスター艦長の声が、凍りついた空気を切る。
「これは演習か? それとも……」
ソビエト連邦海軍 TK-208 発令所
「発射前準備、完了。ミサイル管制盤、全システム『グリーン』」
ボロディン艦長の横で、ミサイル担当士官が震える手で報告した。
発令所には、異様な熱気が充満していた。
「政治将校同志、本当にやるのか? この状況で?」
ボロディンは、赤い鍵(発射キー)を握りしめたまま、隣の男を睨みつけた。
イワノフ政治将校は、狂信的な光を目に宿して頷いた。
「モスクワからの指令は絶対です、艦長。『条件下での即応発射能力の実証』。アメリカの潜水艦が近くにいようがいまいが、我々は撃たねばならない。それが抑止力だ」
「奴らは我々を狙っている。ハッチを開けた瞬間、我々は無防備な標的だ」
「ならば、奴らが引き金を引く前に撃ち尽くせばいい」
イワノフは、自分の首にかかったもう一つの鍵を差し込んだ。
「発射シーケンス開始。……R-39ミサイル、ジャイロ・スピンアップ開始」
USS ヴァンガード 発令所
「敵艦より、高周波の回転音! ジャイロです! ミサイルの慣性誘導装置(INS)が起動しました!」
コワルスキーの叫びが決定打となった。
ハッチを開け、ミサイルに電源を入れ、ジャイロを回している。
もはや「疑い」の段階ではない。
「総員、配置につけ(マン・バトル・ステーション)! 武器発射許可!」
マカリスターは首から下げたチェーンを引き抜き、艦長用コンソールに鍵を差し込んだ。
「マスター・アーム(主火器管制スイッチ)、オン!」
赤いランプが点灯する。これで、Mk48魚雷の安全装置は全て解除された。
「Weps(火器管制官)、ターゲットはタイフーンのミサイルデッキだ。発射管1番、2番。……ファイアリング・ポイント・プロシージャ(発射点手順)、最終確認!」
「射撃解、確定! 命中率99%! いつでもいけます!」
Wepsの指が、ピストルグリップ型のトリガーにかかる。
だが、マカリスターは「撃て」と言わなかった。
「艦長! 奴らは撃ちますよ! ニューヨークが燃える前に沈めなければ!」
副長(XO)が詰め寄る。
「待て」
マカリスターは、ソナーの滝を見つめた。
「……EAM(緊急動作指令:核攻撃命令)はどうだ? 我々は受信していない。世界情勢は緊迫しているが、核戦争が始まったという確証はない」
「ですが、奴らはハッチを開けています!」
「もしこれが、極限状態での『テスト』だとしたら? 我々が先に撃てば、我々が戦争を始めたことになる」
マカリスターにとって、それは永遠に続く数秒間だった。
彼の判断ミス一つで、数百万人が死ぬ。あるいは、彼の躊躇によって、祖国が焦土と化す。
「コワルスキー、注水音は? ミサイル発射管への注水音を聞き分けろ!」
タイフーンのR-39ミサイルは「ドライ・ランチ(乾式発射)」方式ではない。発射管内に海水を満たさなくても発射できるが、発射時のガス圧制御のために、微細な圧力調整音がするはずだ。
「……聞こえます。ガス発生器の予備駆動音。……圧力が上がっています!」
TK-208 ミサイル区画
巨大なサイロの中で、全長16メートル、重量90トンのR-39ミサイルが目覚めようとしていた。
固体燃料ロケットの周りにあるガス・ジェネレーターが、ミサイルを海面へ押し出すための高圧ガスを生成する準備に入っている。
「発射まで、あと10秒。……9……8……」
ボロディン艦長は、コンソールの「発射阻止」ボタンに指をかけていた。
これは演習だ。弾頭はダミー(テレメトリー・ユニット)だ。
だが、アメリカ人にはそれが分からない。
「彼らが撃ってきたら、どうする?」ボロディンは心の中で問いかけた。
「その時は、心中だ」
「……5……4……」
「発射管均圧、完了。インターロック(安全装置)解除」
「……3……2……1……」
USS ヴァンガード
「発射トランジェント(衝撃音)! 来ます!」
コワルスキーがヘッドセットを押さえた。
「撃てッ!!!」
副長の叫び声が発令所に響く。
Wepsがマカリスターを見る。
マカリスターは目を見開いたまま、動かなかった。
彼の「黄金の耳」を持つソナー員が、何かを呟いたからだ。
「……待ってください。……音が……軽い?」
ズドォォォォォン!!
強烈な破裂音が海中を伝わり、ヴァンガードの船体を揺さぶった。
しかし、それは金属が引き裂かれる音でも、ロケットモーターが点火する轟音でもなかった。
「……気泡音です! 巨大な気泡の放出音!」
コワルスキーが画面を指差す。
「ミサイルの推進音がありません! ……何も上がっていません!」
マカリスターはWepsの手を掴み、トリガーから引き剥がした。
「撃つな! ホールド・ファイア!」
TK-208
「発射シミュレーション、完了。ガス・ジェネレーター、正常作動。……ミサイル射出せず」
ボロディンは深く安堵の息を吐き、額の汗を拭った。
「コールド・ランチ(ガスによる押し出し)の圧力テストは成功だ。……実弾はそのまま。ハッチ閉鎖」
彼は政治将校を振り返った。
「満足か、イワノフ同志。我々はアメリカの鼻先で、いつでも撃てることを証明した。だが、実際に撃てば、彼らの魚雷がコンマ数秒でここに届いていただろう」
イワノフもまた、青ざめた顔で頷いた。
「……任務完了だ、艦長。帰投しよう」
USS ヴァンガード
「……ミサイル発射音、確認できず。……ハッチ閉鎖音を確認」
発令所に、重苦しい沈黙が落ちた。
全員が、自分が生きていることを確認するように、ゆっくりと呼吸をした。
「スラグ(水塊)ショットだ」
マカリスターが静かに言った。
「奴らは、ミサイルの代わりに高圧ガスと海水の塊を撃ち出したんだ。……発射システムのテストだ」
彼は震える手で、マスター・アームのキーを「オフ」に回し、引き抜いた。
「状況終了。……我々は今、世界を救ったぞ」
Wepsが崩れ落ちるように座り込む。
「危なかった……あと1ミリで、トリガーを絞るところでした」
「ああ。……だが、これが冷戦だ」
マカリスターは、ソナー画面上の、遠ざかっていく巨大な緑色の光点を見つめた。
タイフーンは、その恐るべき牙を見せつけた上で、ゆっくりと鞘に収めたのだ。
「奴らも分かっていたはずだ。我々が後ろにいることを。……これはメッセージだ。『我々はいつでもやれる』という」
「どうしますか、艦長? 追いますか?」
「いや。……メッセージは受け取った。返事は不要だ。護衛のアクーラも戻ってくるだろう。長居は無用だ」
マカリスターは、疲れ切った声で命じた。
「面舵一杯。コース・サウス。……家に帰ろう」
(第10章 完)




