精霊
山の中の集落。生活を感じられるのは僅かな一角だけ。そこの畑だけが実りある姿を見せていた。
土壌は良い土地だが、水害にここ数年襲われ、雨不足、長雨による冷害等があり、多くの者はこの土地から離れた。
だが離れない者達もいる。年老いた独り身の者や、身体が弱く、他の土地に移住できない者達だ。彼らはこの土地に残り、自然と抗い、寄り添う事しかできなかった。
しかし今年は大きな自然災害は無く、育てていた野菜、果物も実を結んでいた。
「今年はよう成ってくれたな」
少し腰が曲がった老婆が自分の畑を見ながら呟いた。その中に大きな林檎の木があった。老婆は木に近付き優しくを撫でる。林檎の実を見つめて話しかける。
「ほんによう成ってくれた。ありがとう」
老婆は何度も何度も木をなで、小さくつぶやいた後、家へと入っていった。
その夜、ポトリと枝から何かが落ちた。
早熟の実だろうか、いや未だ落ちるほど熟すには早すぎる。
落ちた何かは地面の上で動ていた。赤子が手足を動かすように動いている。そう手や足があるのだ。
動きながら徐々に大きくなっていき、三才位の童に大きさなった。
童はまだ立ち上がれないのだろう、這いながら移動していく。そして力尽きたのか、老婆の家の前で動かなくなった。
童の身体からは黒い靄が上がり、まだ暗い空へと吸い込まれていった。
高野衆の一人、澐鄭は修行のため山に籠っていた。今は慈按と組むような大きな仕事はない。それに何か大きな事案があれば陰陽網、もしくは御山から知らせが来る。澐鄭は時があれば一人修行に励む。出世の為ではない。周りに置いて行かれないようするためだ。妖との戦で周りに遅れをとるという事は死を意味する。周りの者も巻き込んでしまう事もあるかもしれない。だから澐鄭は自分を高める努力を惜しまない。いや澐鄭だけではないだろう、高野衆の一人一人の意識が高いから、御三家の水戸家と肩を並べる組織になっているのだ。
「ここか」
澐鄭は錆びれた集落の中に足を踏み入れた。三日前に遠くから空へと昇る瘴気を見えたからだ。
見るというのは正確な比喩ではない。感じるのだ。修行中で研ぎ澄まされた感性だったから、遠く距離があっても感じられたのだろう。
寂しい集落だ。恐らく世帯数は五軒くらいだろう。生活感を感じられる家がそれくらいしか見当たらないからだ。陽は沈みかけ朱い日差しが彼をてらしている。
「誰かおられるか?」
澐鄭は大きな林檎の木が近くにある家に声を掛けた。
「どなたかな?」
暫くして中から返事があり、建付けの悪い戸が開いた。
老婆が出てきた。その脇に小さな子供が、老婆の着物にしがみつきながら澐鄭を見上げている。
見上げているというのは正しくない、子供は目を病んでいるのか、目の周りに布が巻かれ、澐鄭の姿は確認できていないだろう。
澐鄭は子供に目をやった後、老婆に向き直った。
「突然すみません。旅の僧です」
「それはご苦労様です」
「申し訳ないのですが、一晩泊めていただけないでしょうか?」
「・・・ ええ、それはかまいませんが、何も持て成すものはありませんが」
「いえいえ、泊めてもらうだけでかまいません」
「それで良ければ、汚い所ですがどうぞ」
老婆は少し言いよどんだ後、澐鄭を家へと招いた。
「ありがとうございます」
澐鄭は土間を抜け、囲炉裏がある場所で腰を下ろした。
「何もございませんが、よかったらお召し上がりください」
老婆が囲炉裏に掛けられている鍋から、野菜の煮物を椀に入れて差し出した。
その間も子供は老婆から離れようとせず、着物にしがみついている。
「ありがたく頂戴いたします」
部屋の隅に仏壇とは呼べないが、位牌をおいてある棚があった。
「あちらは?」
「ええ、爺様の位牌です」
「そうですか、後で経をあげさせてもらってもかまいませんかな」
「それは是非お願いしたいです」
人里離れた集落だ、当然寺からも遠い。それに僧侶を招く事ができてもお布施等が払えないだろう。
「爺様が亡くなった時は、まだここも人が沢山いて、皆が協力してお坊様を招いてくれました」
老婆は寂しげに話す。
「ばぁばぁ」
老婆の悲しみが伝わったのか、慰めるように子供が初めて口を開いた。
「ありがとね、今はお前がいるから寂しくないよ」
老婆は子供を抱き寄せ、頭を撫でた。
「孫なんです。目が不自由でね」
「それはお気の毒に」
「いえいえ、明るい子ですから。それに村の皆も可愛がってくれております」
突然老婆の家に現れた子供を、老婆を中心に村全体で面倒をみているようだ。
食事を頂いた後、澐鄭は位牌に手を合わせ経を読んだ。後ろで老婆が手を合わせている。子供はその横で老婆にもたれて、うつらうつらしている。
経が終わると老婆は、孫を寝かしつけますと言って、奥の部屋へと入っていった。
どうやら老婆もそのまま寝入ってしまったようだ。
パチリ!
どれ位時がすぎただろうか、囲炉裏にくべられた炭が弾けた。
澐鄭は壁に背を預け、目を閉じている。仕切られていた障子戸が静かに開いた。
小さな影が澐鄭へと近づいていく。殺気等はない。ただ澐鄭へと近づく。
囲炉裏の炎に小さな影がほのかに照らされていた。
当然澐鄭は眠ってはいない。ゆっくりと目を開けると子供が目の前に立っていた。
ほのかな炎に照らされた子供の顔には布が巻かれていなかった。布が巻かれていた場所にあるものが一つしか無かった。
一つの目が鼻の上にあった。鼻と口は常人と同じだ。一つしかない眼が澐鄭を見つめている。
彼はその姿の動じる事なく、子供の頬に優しく手をあてた。
「まだどちらでもないか」
子供も澐鄭の手に自分の手を重ねてきた。
「婆様にはお前が必要みたいだ。今はこのままにしておく」
子供が澐鄭の言葉を理解したのかは定かではないが、背を向け老婆の所へと戻っていった。
陽が昇りかけると、澐鄭は老婆に一宿の礼を述べ、村を後にした。
家を出る時、家に数枚の護符を貼っておいた。瘴気が目立たなくなる護符と、この村は高野衆の澐鄭が関わっていると、他の者に知らせる目印の護符だ。
澐鄭が林檎の木の横を通り過ぎた時、季節には合わない暖かな風が静かに流れていった。
老婆が育てる林檎の木が多数の実をつけていた。いつもなら村の誰かに頼んで林檎を町へと売りにいってもらっていたが、今年は皆老いと体調のせいで、老婆の作物まで運べそうにない。そんな時、行商人が村を訪ねてきた。普段ならこの村に行商人が来る事はない、しかし町へ向かう途中で、林檎の匂いに惹かれてここに来たのだという。
行商人が言うには、この林檎なら城でもおろせるので、高値で引き取ると言って、収穫まで手伝ってくれた。来年も林檎を買い付けに来るので他の者には売らないでくれと懇願もされた。
老婆は今までにない買取価格に、収穫を手伝ってもらえたので、快く了承した。
そんな老婆の横には、常に目に布を巻いた子供が張り付いていた。
「良太、林檎が売れたよ。来年も買ってくださるようだから、林檎の木には頑張ってもらわないとね」
老婆は良太の頭を撫でた後、手を繋いで林檎の木へと近づいて行った。
彼女は子供に良太と名付けたようだ。撫でられた良太は口元に笑みを浮かべながら、老婆を見上げている。老婆は手を繋いだまま林檎の木を見上げていた。
作物に買い手がついたのは老婆の家だけではなかった。村全体の作物の品質が良かったので、行商人は知り合いに教え、伝え聞いた者達が作物を仕入れに来ていた。
そんな状態が三年は続き、村全体が潤っていった。
老婆の住む村の人々は飢える事はない位、各々が蓄えを確保できていた。
しかし村へと移住して来る者や、出て行った者が帰って来る事はなかった。
三年位豊作が続いても、今までが今までだ。水害、冷害が多い土地なので、いつ以前のようになるか分からない。不安な土地に移住する者はいない。
「ここか?」
「へい」
五人の男達が村に来ていた。皆、身体の所々に傷跡が見える。中でも屈強な男が、横に控える男に尋ねた。
「行商の男から聞いた話ですが、皆かなりため込んでいるみたいですぜ」
「そうか、それは楽しみだ」
男達は村へと入っていき、老婆の家の戸を叩いた。
「どなたかな?」
老婆が疑いもなく戸を開ける。そこには穏和な笑みをみせる男達が立っている。
男達は老婆に移住希望者だと告げた。老婆は村の責任者ではない。そもそもこの村に村長はいないし庄屋もいない。不作続きの時に税の徴収で役人が来たが、畑の状態を見て帰って行った。そんな状態が数年続き役人は来なくなっていた。
「ここで百姓をするのですか?」
「はい、この村の仲間になりたいです」
男は笑顔を絶やさず、老婆を見る。
「この村に村長はいないのですよ。だから各々の家に挨拶にいって、空き家に住めばいいよ」
老婆も笑顔で答えた。前々から村の者達と話はしていたのだ。もし移住者がきたら空き家と空いている畑を使ってもらう。残っている者はもう若くない、希望者がいれば、その人達に村を継いでもらおうと。
老婆は今住んでいる者達の家を男に教えた。
「ありがとうございます」
男達はお礼を言うと、老婆に背を向け歩き出した。男達からは穏和な笑みは消え、変わりに卑屈な笑みが張り付いていた。
男達が村に住み着いて一か月近くが過ぎようとしていた。
最初は少し警戒していた他の村人達も、各々の男達が村人の家に行き来できるほどの信用を得ていた。
当然男達の目的は移住ではない。村人を油断させて、一人一軒を担当し素早く金を奪う裁断のようだ。
元々が年寄りだらけの村だ、油断している所を殺してしまえばいい。
作物が実り始めた頃、行商人が村に訪れる前に男達は犯行に及んだ。殺した後、村人の金を回収する。それぞれが村人達の金のありかを知っていたので、簡単な仕事だった。
老婆の家にはリーダー格の男が来ていた。
「な 何故・・・」
「何故も何もねえよ。俺達が本気で畑仕事をすると思ったか」
老婆の背には鎌が刺さっていた。出血がひどく、もう虫の息だ。
「ばぁばぁ」
老婆の傍らで、顔に布を巻いた子供がしがみついている。
「ばぁばぁ」
子供は布を巻かれていても、見えているかのように鎌を掴み抜こうとしている。
「ばぁばぁ」
その背後で男が金を袋に入れていた。
「うるせえガキだ」
金を詰め終えた男が老婆と子供の所へやってきた。
「薄気味悪いガキだぜ」
バキ!
「グェ」
男が子供の背中を容赦なく踏みつける。そして子供が抜こうとしていた鎌を抜いた。
グサ!
何の躊躇もなく鎌を子供の背に突き刺した。
「せいせいしたぜ」
男は金の入った袋を抱え家を出た。
「ばぁばぁ」
血だらけで横たわる老婆の横に、鎌で背を刺された子供が震えている。
背中に刺さる鎌の傷口から、血が流れる事はなかった。
「首尾はどうだ?」
男達が林檎の木の下に集まってきていた。
「へい、上々ですぜ」
それぞれが金の入った袋を見せ合った。
「これだけあれば、暫く町で遊んで暮らせるぜ」
「ははは、簡単な仕事だったな」
ハハハハハハ
男達が笑い合い、村を出る準備をしていた。
ポト
まだ林檎とは呼べない実が落ちた。
ポト ポト ポトポト ポトポト
実が次々と落ちてくる。
「な、何だ」
「な な?」
男達は戸惑いの声を上げる。
バン!
男達が狼狽える中、老婆の家の戸が内側から壊された。
「どうした?」
男達が老婆の家を見る。壊された戸から小さな影が出て来た。
「おい、子供は始末しなかったのか?」
「い、いや。殺したはずだ」
鎌で背中を刺したのだ。普通なら死んで当たり前のはずだった。しかし子供は真っすぐに男達の方へと向かって来ている。
顔に巻かれている布が緩んでいた。
ハラリ
男達の近くで巻かれていた布が落ちた。その顔には目が一つしかなかった。
「こ、こいつ人じゃねえぞ!」
男達は一瞬怯んだが、小さな子供の化け物と判断し、各々が懐からドス取り出した。
今まで悪事に手をつけて生きてきた連中だ、それなりに肝が据わっている。
「やっちまえ!」
リーダー格の男が叫んだ。叫びに応えるように、最初は小柄な男が子供に切り込んでいく。
一瞬で事は尽きると男達は考えていた。しかし違った。小柄な男と子供が交差した時に、小柄な男の首が地面に転がった。
「な!」
ガキ ボキ
小柄な男の返り血を浴びた子供の身体が変化していく。
手足が伸び、首が縮んでいく。剛毛が生え、肩が盛り上がり、それぞれの部位が太くたくましくなっていき、有に二メートルは超える巨体になった。もう子供ではなく、猿人だ。一つ目の猿人だ。
バァーーーーー
猿人が吠えた。
「うわーーー」
さすがの男達も、一つ目の猿人に恐怖を憶え逃げ出していく。そんな男達の前に跳躍した猿人が立ち塞がった。
ギェーーーー
グッ
ア!
一瞬で二人の男の首が地面に転がる。そして身体に大きな穴を開けた男が地面に倒れ込んだ。
バァーーーー
猿人が再び吠え、村の出口へと急ぐリーダー格の男の前へと跳躍した。
「ま! 待ってくれ。 か、か、金は返す」
男は震えながら金の入った袋を猿人の前に差し出した。猿人も腕を男の方へと向ける。
バサ
チャリン
地面に金の入った袋が落ちた。いや、男の腕ごと地面に落ち、銭が散らばった。
ギャーーー!
男が短くなった腕を振り上げ、地面へと膝をついた。
猿人が腕を横に払った。 男の首も地面に落ちた。男の目は散らばる銭を名残惜しそうに見つめている。
バァーーバァーーーー!!!!!
バァーーーバァーーーー
バァーーーーバァーーーー
猿人の叫びが、人が居なくなった村にこだました。
澐鄭は大きな仕事が続き、村へとは足を運べないでいた。
子供の件は御山に報告はしている。何か変化があれば自分の所に知らせがくるはずだ。
あれから三年が過ぎ、大きな仕事も片が付き、合間ができたのでので澐鄭は村へと足を運んでいた。
村はあれから豊作が続いていると報告を受けている。このままいけばあの子供の妖はいい方に変化するだろうと考えていた。
ピキーーーーン
後半日歩けば村へと着くだろうという距離に来た時、気の変化を感じた。
以前感じたような瘴気が昇るという事ではない、明らかに陰の気が放たれ、邪悪な何かが現出したような感じだ。嫌な予感を受けながら澐鄭は足を速めた。
村へと近づくにつれ瘴気が濃くなっていく。そして村に入ると嫌な匂いが鼻を突いた。
血臭だ
血の匂いが空気に混じり、澐鄭の肺に入っていく。
「甘い考えだったか」
あの段階で子供を放置した事を澐鄭は悔やんだ。
村の入り口近くで首と腕が転がっている。少し離れた所に胴体があった。血だまりの中にある、腕の周りには銭が散らばっていた。
少し歩き、林檎の木に近づく。そこにも穴の開いた遺体と首の無い遺体が転がっていて、その周りには銭が落ちていた。
「喰われた形跡はないか」
澐鄭は遺体の状態を調べ、独り言ちた。周りには子供の姿はない。
林檎の木を通り過ぎ、老婆の家へと向かう。戸は破壊されており、中の様子が伺えた。
バァバァ
バァバァ
野太とく、くぐもった声が聞こえてくる。澐鄭は独鈷杵を握り、家の中へと入っていった。
澐鄭の視界に籠る瘴気の中、目を開けているが、明らかに息絶えている老婆が横たわり、その横で老婆の身体を揺らす巨体の姿が見えた。
澐鄭が歩を進めると瘴気が揺らぐ。それ位濃い瘴気だ。
瘴気の揺らぎを感じた巨体が澐鄭の方へと振り向いた。
首が無く、大きな中央にある目が赤く濁っていた。 猿人だ。
シャーーーーーーーーーー!!!!
バキ!
瘴気を巻きながら猿人が澐鄭へと距離を詰めた。そして鋭い爪で彼に襲いかかる。澐鄭は独鈷杵でその爪を受け止めた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多・・・」
澐鄭が爪を受け止めながら般若心経を唱えはじめた。老婆の家に訪れた時に読み上げた経の一節だ。
パキンパキン パキン パキン パキン
猿人の力が弱くなっていき、攻撃をやめ、腕を降ろし澐鄭を一つしかない目で見つめた。
経の効果ではない、猿人は澐鄭が宿泊した日を思いだしたのだろう。
澐鄭は腕を上げ、猿人の頬を優しく撫でた。
「事情は察している」
言葉が猿人に通じるか分からないが、澐鄭は一つしかない目を見つめて話した。
外の遺体、散らばっていた銭。遺体の奴らは盗賊か何かで、老婆を殺された子供が悲しみと怒りで、妖へと変化したのだろうと澐鄭は考えた。
「お前には二つの選択肢がある」
猿人は静かに澐鄭を見つめていた。
「人肉を喰らう悪鬼になるか、前の子供に戻り、座敷童になるか」
猿人は人を殺したが、人肉は喰らっていない。これは妖の線引きでは大きな事である。殺戮を憶え、人肉の味を知った妖は悪鬼となり、次々と人を襲いだし、退魔の対象となる。そして村に三年間幸福をもたらした子供にもどれば、座敷わらしとして違う土地へと連れていける。そこで穏やかに暮らせるかもしれない。
・・・バァバァ
猿人が小さく呟いた。そして老婆の遺体にそっとしがみつく。
「それがお前の願いか」
バァ バァ
「わかった」
澐鄭は猿人の呟きを返事ととらえた。そして老婆に近づき開いていた眼を閉じさせる。
懐から折りたたまれた曼荼羅が描かれた布を取り出し、丁寧に広げた後、老婆としがみついている猿人に被せた。曼荼羅と言っても、胎蔵界、金剛界のような仏が描かれた物ではなく、世界の中に梵字が書かれた、色鮮やかな曼荼羅だ。
ナウマク・サマンダボダナン・バク
澐鄭が印を紡ぎ、釈迦如来の真言を唱える。
開経偈、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、般若心経、観音経偈、光明真言、大師御宝号、舎利礼、回向
時間を掛け、経が詠唱されていく。
ナウマク・サマンダボダナン・バク
ナウマク・サマンダボダナン・バク
ナウマク・サマンダボダナン・バク
猿人の身体が震え出し、剛毛が抜け、小さくなっていく。
澐鄭は猿人の変化を気にする事なく、印を紡ぎマントラを唱える。額に浮かぶ汗が頬をつたっていき、板の間に落ちた。
金剛界至心回向、胎蔵界至心回向が詠唱される。
猿人の身体は、もう澐鄭が出会った頃位に小さくなっていた。
ナウマク・サマンダボダナン・バク
ナウマク・サマンダボダナン・バク
ナウマク・サマンダボダナン・バク
印の紡ぐ指の動きが早くなり、唱えるマントラに更に力がこもる。
ハァーーーー フゥーーーー
澐鄭が大きく息を吸い、吐き出した。合掌し一礼する。
彼の前に横たわる老婆と、その傍らに小さな林檎が転がっていた。
澐鄭は老婆の手を胸の上で組ませ、小さな林檎をその中に入れた。
ナウマク・サマンダボダナン・バク
もう一度マントラを唱えた。
ばぁばぁ
子供の声が聞こえたような気がした。その声に応えるように、永眠する老婆も安堵の笑みを浮かべているように見えた。
開け放たれた戸から見える林檎の木の葉が、静かに揺らいでいた。




