第4話 深海に堕ちる陸の姫
繰り返し繰り返し思い出すのは、十年前のたった一週間。
何年経っても忘れない。サキと共に過ごした、サキと出会ってからの色付いたあの鮮やかな日々を。
彼の存在を。彼が、私の心に刻んだ温もりを。どんな僅かな、彼の表情を。隣にいることができた、あの大切な時間を。
「ころん」
不意にかけられた声に、ころんは軽く寄りかかっていた水槽から身を引いた。けれど水槽の前からは動かずに、水槽に映った「彼女」に視線だけを向ける。
「今回はありがとう……今回の事で近いうちに追って連絡することになると思うけれど」
「……そう」
律儀にもころんが望む場所へ運転手を引き受けた相手に、僅かに逡巡しながらもころんは肯定の返事をすることで応えた。
「……大丈夫?」
ころんの覚悟を探るかのようなその問いかけに、ころんはガラス越しの視線を外さないままで口の端を持ち上げた。
「私を、なんだと思っているの? ……他は知らない。けれど、萌未と交わした“契約”は続く限り守るわ」
「……」
挑発とも取れるようなころんの回答に、彼女―萌未(めぐみ)は一つ、心を切り替えるかのように息を吐き出すと、頷いた。
「そう……そう、だったわね。疑うような発言をして悪かったわ、撤回する」
ガラスに映ったころんの口元は、笑みを「作って」いた。その様子を見ながら頷いた萌未は、困ったように眉尻を下げながらも、微笑んで見せた。
「とりあえず、お疲れ様。私も、今日こそは自宅に戻るから……ころんもある程度したら引き上げるのよ」
萌未の言葉に耳を傾けていたころんは、保護者の立場から言われた言葉に苦笑しながらも瞳を閉じることで遮った。
そんなころんの態度がわかっていたのか、ころんが瞳を閉じる直前、萌未は軽く肩をすくめながら踵かえしてころんに背を向けていた。
××××
乾いた音が聞こえたのと同時に、顔は右を向いていた。遅れて感じたのは、左頬に走るじんじんとした熱。
そこまできて、ようやく“ころん”は自分の左頬が打たれたことに気が付いた。
「お父さん!」
「あなた……」
抗議するかのように声を上げたのは、ころんの二つ年下の異母妹・奏音(かなと)で、控え目に呼んだのは継母だった。継母は憔悴しているようで、純粋にころんの身を案じていたのだろうということが、継母にも異母妹にも興味の薄いころんでさえも理解できた。
「この恥さらしが」
声を荒げることもなく、淡々と吐き捨てられた“父”の言葉に、ころんの感情はぱきりと凍りついた。
赤く熱を持った頬に震える指で触れたころんは、冷え冷えとした感情を宿した父親の見下ろすような瞳に、内心で悦楽を感じた。それと同時に、心に浮かんだのは『父親』への諦めと決別の感情だった。
(誰も、いらない――)
九歳。サキと無理に引き離されたころんは、そう決めた。それから十年の歳月が流れて、ころんには『家族』以上に大切な『仲間』ができた。けれどころんが抱く根本にある想いは変わらない。むしろ強くなったくらいだ。
ころんの『枷』を外せるのは、この世界でただサキ一人。
実際、ころんの心は壊死しかかっていた。
頭の中で何度もリピートされる、セピア色の残像。別離。精神が狂いそうなほどの冷たい孤独に、ころんの心は凍えていた。
実家に、父の側にいれば、サキに再会することなどできない。サキに再会する前に『精神の死』を予感したころんは、亡くなった母の親戚だった萌未を頼って寮の完備された私立学園の初等部に編入した。
学園都市として名高いその学園は、何よりも外聞を気にしていたらしい父の自尊心を補って余りあるほど満たしたらしく、ころんは学園に入ってからの十年、父と――あの男とその家族に干渉されずに済んでいた。
「逢いたいよ……サキ……」
近代的な水族館。平日の黄昏時。
水族館の奥まった場所。日があたらない深海の世界で生きる“彼ら”を見ることのできる場所。その場所が、ころんがサキに出会った場所だった。
あれから十年、ころんはよほどの事情でもない限り、毎日のように水族館に通い詰めている。それだけではなく、あらゆる手を使ってサキを探し続けていた。
けれどサキは未だに見つからない。その痕跡すらも。まるで、最初からカトウサキという人物がこの世界には存在してはいなかったかのように……。
あのマンションを出た後、警察に連行されてからの足取りが掴めない。サキと過ごしたマンションも、あの事件から一年もしないうちに取り壊しが決まって立ち入り禁止になった。
今は、その面影すらもない。
サキの存在を証明するものは、ころんの思い出とこの水族館くらいだった。
ぼんやりと壁にもたれかかりながら水槽の中を優雅に泳ぐ魚たちに視線を向けていたころんは、不意に意識を現実に戻した。
ガラスにぼんやりと映っているのは、ころんの姿だけ。けれどころんは、壁から身を起こしながら振り返った。
「……」
振り返った先にあったのは、深海魚の泳ぐ水槽。通路に繋がる出入り口を除くと一面の水槽に囲まれる場所で、ころんは「香り」に気が付いた。
ころんの意識を現実に引き戻す、酷く懐かしく愛おしいその香りは――
「……サキ……」
否応なくサキを思い出す香りに胸元を握りしめたころんは、求めた人の面影から抜け出すために頭を軽くふって水槽に視線を戻した。
一つ、ため息を吐いて一歩踏み出す。
ころんがいつもいるのは出入り口から数歩進んだ、壁と水槽の間。日によって割ける時間は異なる。けれど平均して三十分。日が暮れる前にそこに立ち、日が暮れると水槽を一周してから出ていく。
そうして足を踏み出した先、水槽のガラスの手前にある、コンクリートとガラスの間に存在する、僅かな余剰のスペース。
見落としそうなその場所に、白い封筒が置かれているのに気が付いた。近づいて、気づく。その封筒から香る、懐かしい香りに。
自然と心音が高くなる。ドキドキと痛いくらい脈打つ鼓動と、逸る気持ちを抑えながら封筒から取り出した二つ折りのカードを開いたころんは、目を見張らせてから弾かれたように背後を振り返った。
そこには先ほどと同様、誰もいない。けれど――
「サキ……」
歓喜なのか、驚愕なのか、自身の気持ちさえころんは正しく言葉に表すことができなかった。ただ一つ確かなことは、ころんの瞳はそれまでから一転、希望に満ち溢れていた。
不意に、ころんの表情が変わった。
サキと別れてからの十年、口の端を僅かに上げての微笑か、意識して持ち上げた「作った」笑顔。そのどちらでもない、心からの笑顔を浮かべたころんは、誘われるように足を踏み出した。
カードを胸元で皺にならないように抱きしめながら、ころんは憂うこともなく、迷いなく水族館を後にした。