18
十日後、アーシュラは離れから急ぎ足で本館へと向かっていた。回廊から本館に飛び込む。エントランスには間違いなくいらいらした顔のサイファがいるだろう。
ちらりと見上げれば、ここしばらくで見慣れた天使の禍石はもうなくなっている。
カイルによって破壊されたそれは、サイファが撤去してしまった。欠損した禍石は少ないのだから、もう一度組み立てて飾ってもいいのだろうが、サイファはそうしなかった。
飾っておくより有効な使い道を考えるさ、と言って。
妙に清々した顔をしていた。
サイファの呪いと直接関係はなかったとはいえ、あれはサイファにとってなんらかの形で重しとなっていたのかもしれない。呪いの象徴であったかのようだ。
屋敷の外の出ることが可能になってもサイファは相変わらず昼夜逆転しているし、気ままだ。しかしそこからは確かに諦観は薄れていた。
今日は王宮に招かれている。王の午後の茶会だ。今までは丁重に断っていて、王ももちろん承知だったが、今日は出席の返事を出した。間違いではないかと遠回しではあったが王宮からの再確認があったくらいだ。それにたいしてサイファが念を押したのは、一人、友人を連れていくということだけだった。
今頃社交界にはさまざまな憶測が飛び交っているだろう。
「サイファ様、お待たせしました」
「本当に待たされ……」
予想通りエントランスで待っていたサイファは言いかけた不満を急に途中で切った。彼を見つめたアーシュラも息をのむ。
「どうしたんだお前」
「サイファ様こそどうしたんですか」
アーシュラは唖然として彼を上から下まで見つめた。
「その身なり、一部の隙もありませんよ?」
「当たり前だ、王に会うんだぞ!?」
サイファはいつもの着崩しただらしなさなど、まるで見受けられないほどの流儀と流行を抑えた気のきいた服装だった。
「やればできる子だったんですね……」
「それは俺の言葉だ。アーシュラこそ」
いつも爆発気味のアーシュラの髪は、きれいに高く結い上げられていた。
「あ、はい。わたしもわたしに驚きました」
アーシュラのほうはサイファと違って当人も驚きの変化だったらしい。
「ジュードが髪結いを手配してくれたんです。でもそのために時間がかかってしまって。お待たせしました」
髪を結い上げただけではなく、着ているものも間に合わせではなくサイファが招いたドレス屋の最高の品だ。
怪我をしたジュードだが、経過は順調で、事件の二日後には起きだした。
こまごまとした日常業務をこなし、髪結いを手配したりドレスを頼んだり、リリーの葬儀の手続きをしたり、さらには新しい使用人を探したりと八面六臂の活躍だ。アーシュラへの態度は、とにかく冷やかから、二言三言はツッコミをいれてくるくらいまで緩和された。
『貴女の友人は危険な存在だと、死にそうなところをわざわざ指差して教えて差し上げたのに!』と目が覚めるなり説教された。が、どう考えてもそれはわからないだろうとさすがのアーシュラも思う。そもそもカイルと言い争いをしていた彼の言葉は、どう考えても悪役のものである。ジュードの善意のわかりにくさはもはや芸術的だ。
だがジュードの多忙ももうしばらくの辛抱だ。もうすぐバージェス邸に正式な執事が来る。
美しいアーシュラを見てサイファはしみじみと言う。
「なあ、ちゃんとやればみられるなら、いつもちゃんとやったらどうだろう」
「面倒だからいやです。すごく時間がかかるんですもの。その時間でお父様の暗黒系破壊呪文の一つも覚えられます」
「だから暗黒系からちょっと離れろ。それが全ての基準なのはよろしくないぞ」
どうも反抗とか不良化とかそういう問題ではなく、アーシュラは暗黒系呪文に心躍らせるたちらしい。物騒極まりないとサイファは止めるのに最近必死だ。
それに。
「……好きな相手にはかわいい姿を見せたいとか思ってくれないかなあ……。いや単に俺がその対象じゃないだけか……?ああ、財布としてちょっと強権発動するべきか……」
サイファのつぶやきはアーシュラの耳には入らなかったようだ。
「わたしの髪の毛についてはオーガストも諦めていましたもの」
「……それは相当だな」
「これをオーガストが見たら喜ぶでしょうね」
「それならいつもやってやれ!明日から来るんだから」
サイファは言い切った。
ジュード以外の全ての使用人が出て行ったバージェス邸。そこにようやく一人目の使用人がやってくる。それはアーシュラの家で執事として働いていたオーガストだった。カイルがバージェス邸を襲った日、ジュードが会いに行っていたのはオーガストだったのだ。オーガストは年こそとっているが、いや、だからこそ、仕事の上では有能だった。その噂を聞いてサイファは彼を自分の屋敷に招くことにしたのだった。このまま田舎に退くことを本心では望んでいなかったオーガストがその誘いを受けることにしてくれた。
「いい執事が見つかってじつに喜ばしい」
オーガスト本人の才能をサイファが認めたということであるが、もちろんアーシュラに対しての思いやりも含まれている。
サイファはそれも不十分だと感じているようだが。
「……もし、お前が屋敷を取り戻したいと望むなら、俺は」
彼はアーシュラが望むなら、あの売り払われた屋敷もサイファが買いなおすつもりだった。しかしアーシュラはとんでもないとばかりに首を横に振った。
「サイファ様がこの屋敷の離れにわたしを置いてくださって、オーガストがいて、お父様の研究成果もあって、これからも学ぶことができる。それ以上は何もいりません」
アーシュラはサイファを見上げて憂いなく笑った。
「あの屋敷、古くて日当たり悪くて実は怖かったんです」
父と母の優しい記憶の全ては、アーシュラの内側に消えることなく存在している。
「それに、これ以上借金がかさむのは……」
「借金?」
サイファは聞きなれぬ言葉に目をむいた。
「借金なんてしているのか?」
「してますよ、サイファ様に」
アーシュラは何をいっているのだとばかりに続けた。
「滞在費……はサイファ様のご好意に甘えて免除していただきますけど、今後の学費は返さなければいけないでしょう。ちょっと先になりますけど、ちゃんと給料のふんだくれるところに勤めてお返しします。お父様も借金は残しませんでした。だからわたしも残さないように頑張ります」
アーシュラはサイファの妻にはちょっとなれそうもないなと諦めている。というより、自分が誰かの妻にむいているとはとても思えないという現実に覚醒したようだ。確かにアーシュラを喜んで迎える貴族は少ないだろう。
だがもちろん例外はあるわけで。
「……俺の妻になれば、自由にお金をつかっていいのに……」
呟いたサイファはその声を大きくすることなく飲み込んだ。これではまるでプロポーズではないか。
別にプロポーズはいいのだが、こんなせわしない時に世間話のように言うわけにはいかないと思いついたようだ。
サイファにとっては幸運なことに、アーシュラは別のことを考えていて、彼の小声には気がつかなかった。アーシュラはそのことを口に出す。
「学校といえば、今日ビビアンに会ってきたんです」
「ああ……友達はどうだった?」
体調を崩し、ようやく面会できるようになったビビアンに、アーシュラは会いに行っていたのだ。サイファとジュードは止めたが、アーシュラは驚くべき頑固さで聞かなかった。「本当にお前はグレッグの頑固さを受け継いでいるな……」と最後サイファがあきれたくらいだ。
それでもアーシュラはさほど悲壮な顔をしていない。
「謝られました。そしてわたしも謝りました。でもビビアンは学校はやめてしまうかもしれません」
「……そうか」
アーシュラはビビアンの顔を思い出す。
恋しい男を倒したのは友人である。でも悪い男から自分を守ってくれたのも友人である。
恋もまだろくにしたことのないアーシュラにはビビアンの気持ちはもはや察しきれない。もしかしするとビビアンも自分の気持ちがわからないのかもしれない。
いつか、また友人として話せるのだろうかと考えてもわからない。そうあれればいいと願うが、ビビアンにとって自分と会うことが重荷になってもいけないと思うのだ。
「でもまあ、生きているからな」
サイファの言葉の意味を測りかねて、アーシュラはサイファを見上げた。
「俺の兄達と叔父は死んだから、もうどうしようもない。でもビビアン・ナイトリーは生きているだろう」
サイファも自分の生きてきた壮絶な感情の嵐を思い出しているようだ。
おそらく長兄も叔父も次兄も、その死にはサイファは関わっていない。そして当事者は皆そのこと知っていたのだ。愛人の子で魔力も持たず人脈もない漂泊の民の末裔のサイファにはできないことが多すぎた。三人の死の真相についてはアーシュラもうっすら気が付いている。サイファを抜きにして彼らは三人で殺しあったのだろうと。
長兄は叔父の陰謀で、事故を起こされて死んだ。叔父は次兄の雇った誰かに殺された。そして次兄は、怯えて用心していた長兄の遅発的な魔術に襲われたのだ。
最後に死んだ次兄も誰がやったことかは薄々察していたに違いない。でも誰か今恨める人間を恨みたかったのだ。それがサイファだっただけだ。
ビビアンも同じ気持ちでアーシュラを憎むかもしれない。
でも生きていれば人の気持ちは変わる可能性があるのだ。アーシュラはビビアンが安らかでいられるのなら、恨まれても受け入れようと思う部分もあるのだが、それでも彼女が誰も憎まないで済むならそれに越したことはない。
「さて、いい時間だ。出かけよう」
サイファは扉を開ける。そこにはもうためらいはない。
一歩外に踏み出す足も、力みはなく自然だ。
振り返って、彼はアーシュラに手を差し出した。
「どうぞ、アーシュラ・ウィルクスランド伯爵」
「ありがとうございます」
その手をとって、アーシュラも外に出た。春の柔らかな空気が頬を撫ぜる。階段の先に控える馬車を見ながらアーシュラは尋ねた。
「サイファ様、わたしのことは王にどう説明されるのですか?」
「そうだなあ」
サイファは階段三段分思案した。
「このたびわたくしサイファ・バージェス公爵は、光栄なことにアーシュラ・ウィルクスランド伯爵の財布となりました。かな」
「まあ、そんな本当のことを言っては恥ずかしいですわ!」
「……本当のことではあるのか」
しかし腹を立てる様子もなくサイファはただおかしそうに笑った。
「ま、当たり障りなく、後見人となりましたので以後よろしく、というところか」
「きっと、いろいろ噂されるんでしょうね」
「大丈夫だ。俺単体で、噂には事欠かない。アーシュラの不名誉な噂は全力でつぶすから」
「いいんです。わたしのことは」
アーシュラはにっこりと笑った。
少しだけ、四十男に猛烈に迫った十六歳の母親の気持ちがわかる。アーシュラも間違いなく母親の血をひいているのだ。偏屈男好みなんていう点で。
「お忘れですか。わたしが最初にサイファ様に『一緒に外にでかけましょう』と誘ったんですよ。誘った以上、サイファ様には楽しく過ごして欲しいのです」
「アーシュラ」
「ですから、サイファ様について口さがない噂を発したものがいたら、その者にはなかなか治らない口内炎とか、妙に虫に刺されやすい体質とかを起こす魔術を送りつけてやりますわ。口に戸は立てられないとはいえ、こちらもせめて溜飲くらいは下げないと」
「たしかに地味に嫌だな、それは」
まあ暗黒系呪文よりはましか……と大分アーシュラに毒されたことを思ってサイファは馬車の前に立った。
馬車の開かれた扉。
二人は新しい扉の前に立っている。
「さて行こうか」
「はい」
アーシュラは言った。
「天才魔術師のアーシュラ・ウィルクスランドが全ての呪文を駆使してサイファ様をお守りいたしますから、どうぞご安心なさってくださいませ」
おわり
こちらで完結となります。
サイト時代からお付き合いいただいた方、初めて拙作をご覧いただいた方、皆様ありがとうございました。
ブクマ、ポイントなど頂戴できれば嬉しいです。次作への励みとなります。
それでは、また別の話でお会い出来たら幸いです。




