その15・その腕前は次元を超える
週末の休み明けの朝、俺は靴下を履きながら今日からの芸術祭準備について考えていた。
「……いてっ。」
それはもう、ボーッとしてローテーブルにスネをぶつけるくらいには考えていた。
芸術祭の準備は、まあ順調だ。
アナスタシアさんも結構楽しそうではある。
ただ、全員で作業をする空気じゃないんだよなぁ……アナスタシアさんだって、やたら精密な城の絵を描いて満足そうに見せてくるけど俺にだけだし、いやそれは嬉しいが、ベンとニックに対してはやはり事務的というか………まぁニックとかに嬉しそうに絵を見せられても複雑……ハッキリ言って嫌………じゃあどうすりゃいいんだよって話だが……
「──いっったぁ!」
……ついに眼球にレモン汁を飛ばしたので、一旦考えるのはやめよう。
教室に入ると、ニックが寄ってきた。
「おはよう……なんか目ぇ赤いな? 大丈夫か?」
「問題ない。」
めちゃくちゃ痛かったけどな。
「人形劇の進捗どうだ?」
「あぁ、とりあえず言われた分は完成したぞ。」
芸術祭は一日目の出し物だけでなく、二日目の芸術選択の成果発表も重要だ。
この前空き教室で集まって以降は、それぞれ選択授業の方の打ち合わせや作品作りなどで忙しく時間が合わなかった為、放課後に集まるのは約一週間ぶりである。
その間、授業時間内に芸術祭準備の枠がある日もあったが、ほとんど必要な椅子なんかの手配や材料についての話し合い、作業の割り振りだけで終わった。実際の作業の方は空いた時間に各自で作業を進めていくという手筈だ。
なので、今日はまず進み具合や完成したものの確認をする予定になっている。
「こっちも脚本は出来たから、後で見てくれ。」
脚本が完成しないと必要な背景や人形、音楽などが確定しないので、無事完成したようで何よりだ。俺に変なセリフが割り振られていないといいが………。
「アナスタシア嬢はどうだろうか。」
「大丈夫だろ。」
アナスタシアさんは時間があればあるだけ書き込んできそうなので、俺の描いた背景とクオリティの差がつきすぎないか、そこが心配ではある。
その辺りも考慮して、草原みたいな誤魔化しのきく背景を担当させてもらっているが……不安になってきた。先に見せてもらおうかな。
放課後、ちょうどベンが寮に取りに帰るものがあると言うので、ニックに付き添わせた俺はその隙に予め抑えてあった空き教室に誰よりも早く到着した。
ドアを開け、アナスタシアさんが来てたりしないかなと教室を見回すが誰もいない。
「まだ来てないか。」
そりゃそうだ。授業が終わって競歩で辿り着いた俺より早く来ていたら忍びである。
今日は昼休みにも会えなかったので、早く来たら少しは二人で話せるかと思ったが……
「ヴィクター、どうしたの。」
「ぎゃっ!」
すぐ後ろから、首元でアナスタシアさんの声が聞こえて思わず叫んでしまった。
いろんな意味で恥ずかしい!!
「そんなに驚かなくても。」
「ち、近い!」
「だって、ヴィクターが教室の中を覗いていたから……おばけでもいたの?」
俺の右肩に手を添え、割り込むように背後から顔を出して教室の中を覗く。5秒ほどじっと見てから俺の方に顔を向けた。
「何もいないわ。」
いないのは知ってるから、至近距離で振り向くのはやめてくれ。心臓に悪い。
「俺はただ、誰も来てないか見ただけだ。」
さっきまで教室で一緒に喋っていたニックやベンが来てないかチェックするというのもおかしな話だな……言っておいて何だが。
アナスタシアさんがいないか見ていたとバレないだろうかと考えていると、当の彼女が何かに思い至ったような顔をした。
「そうなの? ……もしかして、オルグレン様かアスター様がお誕生日なのかしら。」
「へ?」
思ってもいなかった言葉に、俺はマヌケ面を晒した。
「お二人と分かれてから、とっても早足で歩き出したでしょう? 先に着いてお誕生日のサプライズの準備をするとか……」
「いや、違う。」
なんだその発想。
「あ……お兄様たちがわたくしの誕生日によくやっていたから………………違ったのね。」
アナスタシアさんのお兄様は、次兄がアナスタシアさんを引き止めている間に長兄が会場準備をするパターンのサプライズを子供の頃は毎年していたらしい。
ニックかベンにどちらかの引き止め役をさせて、俺が先に行って準備する役かと思ったのだと、勘違いから少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「な、何かしら!」
じっと見ていたら視線に気づいたのか、すぐに般若フェイスで隠されたが。
「というかアナスタシアさん、追い掛けてきたのか?」
「え、えぇ……ヴィクター一人だったようだし、全員で集まる前に、先に確認してもらおうかと思って。」
そう言って教室に入ると、机に鞄を置き、背景用の絵を取り出す。
尾けられている気配や足音は微塵も感じなかったが……やはり只者ではないな。
「実は俺も先に見せてもらいたくて早く来たんだ。アナスタシアさんの絵とレベルが違い過ぎたら、あいつらに見せる前にこっそり手直ししようと思ってな。」
「ふふふ、ずるっ子ね。」
わざと揶揄うような口調で言ったアナスタシアさんに、胸のあたりを人差し指でツンとつつかれた。こっそり手直しの件は冗談で大袈裟に言ったと思われたらしい。
いや、冗談じゃなくてだな。
「こっちが背景で、これが人形用の絵よ。」
案の定、アナスタシアさんの完成させた背景は美麗で繊細、豪華絢爛な芸術作品だった。
さすが公爵令嬢、こういう建物や美術品を見慣れているのか調度品まで違和感なく配置。
棒を付けて人形にするための登場人物の絵も、売り物のような出来栄えである。
紙芝居の背景で、城の窓から見える内装まで描き込むのはやめろ。窓は水色一色に白で反射光を二本入れる程度でいいんだ。俺ならそうする。
「オルグレン様がお持ちの絵本に近いデザインにしたのだけど、どうかしら? お話の内容的には、もののけに少し怖さや不気味さが足りないような気もするわ。」
やたら緻密な背景に、どこが絵本に近いデザインだよと声帯が震え出しそうなのを押し留め、アナスタシアさんが話題にしたもののけの紙人形の方に注目する。
こちらは言葉の通り、アナスタシアクオリティの背景とは違って絵本のもののけのデザインそのままに、少し手を加えたといった感じだ。
お姫様も同様である。
「こういった可愛らしい絵を描くのは初めてだから、人形の方は模写に近いの。もう少し怖くできたらと思ったのだけど……」
アナスタシアさん的にはもののけ感増量でお届けしたかったらしいが、丸い絵は不慣れでアレンジがきかず、かと言って自分の絵で描くと可愛さ親しみやすさが抜け落ちる。まぁ、名画みたいなタッチの人物って子供向けではないわな……子供受けを考えて断念したようだ。
さて、確かにこの話、もののけの方も元々結構な美形というか、お姫様と顔のレベル的には同じ絵なので、「見た目で判断せずみんな仲良く!」というテーマを伝えるには見た目が良すぎる。
少女漫画に出てくる美人の同級生と平凡な主人公の顔があまり大差ないのと同じような現象だ。
ツノが生えてて強面だが優しい美形とか、一般モブより美味しくないか?
「このもののけはモテそうだな。」
「そうね……」
これだとお姫様が危ない雰囲気のイケメンに惹かれるただの面食いになってしまう。
「いっそ、本当に怖い怪物みたいなのを描いてみるのはどうだ?」
「実は、一度わたくしのイメージで描いたものもあるのだけど……」
おずおずといった様子で、アナスタシアさんが鞄からもう一枚紙を取り出す。
そこには、仁王像を迫力倍増させたような、戦闘力の高そうな筋骨隆々の人物が描かれていた。
顔はどちらかというと阿形似である。
「これは……怖いな。」
子供が泣く可能性がある上に、話的にも、このタフガイが周囲に迫害される様子が微塵も想像できない。これを迫害とか一般人には無理だろ。
「やっぱりそうよね……怖さを追求したら、丁度いい加減がわからなくって。」
何事も程々にな、アナスタシアさん。
「……ん? あそこから出てる毛糸は何だ?」
絵を返そうと前を向くと、アナスタシアさんの鞄が目に入った。
絵が入っていたその鞄の隙間から、グレーの毛糸が一本、ぴろんとはみ出ている。
そこだけ革や紙とは違う材質が奇妙な存在感を醸し出していた。
さっき絵を出した際に飛び出たのだろう。よく見るとそれは鞄の奥にもじゃもじゃと沢山あって、モップのような何かに見える。
「あっ、ち、違うのよ、これは……!」
見られたくないものだったのか、慌てて鞄に押し込もうとアナスタシアさんがずぼっと手を突っ込む。
しかし逆に指に毛糸を引っ掛けてしまい、操り人形のように毛糸で引っ張られたそれは宙に弧を描いて飛び出した。
「………………人形?」
ふわりと舞って、それからぽとんと上手いこと机の上に着地したのは、毛糸と布で出来た三頭身くらいのパペットだった。
特筆すべきことがあるとすれば、顔がやたらヤバイ……ではなく個性的で珍妙。左右で高さの違う溶け出したゾンビのような目に、だらしなく開いた、いや空いた虚空のような口。ガタガタの縫い糸の線で描かれたその口は顔の中心からは外れ、頭部では灰色の毛糸で作られたロン毛がうねうねと絡み合う。
全体的にヨレてくたびれたような風体で、布が寄ったりよじれたり、縫い目の幅もまちまちだ。
焦点の合っていないその目からは何故か言い知れぬ哀愁が漂っていた。
「こ、これは……」
はっきり言って、この貴族やらが出てくる乙女ゲームみたいな世界の世界観にそぐわない、言ってみれば世界から断絶されたような、次元の壁を超えてきたデザインである。
名画の中にギャグ漫画のキャラが紛れ込んでいるが如く、世界から浮いている。
アナスタシアさんは次元超越者か。下手とかそういう問題じゃないぞ。
前世にはこういうヘンテコなグッズはあっただろうが……俺も今世では生まれてから一度も見たことない………。
「皆まで言わないで。わかっているわ。」
ジャンルを超えてきたパペットを凝視している俺の内心が伝わったのか、アナスタシアさんが眉間に皺を寄せながら手を前に出して制止してきた。先ほどの仁王像風の絵よりも迫力満点である。
めっちゃ恥じらってますね。
「………………あ、あれだな? アナスタシアさんでも苦手なものはあるんだな?」
そう言うと、さらに真っ赤になって鬼瓦のような表情になった。
なんだろう……アナスタシアさんのせいで鬼の形相が可愛く見えるという変な性癖が目覚めてしまった気がする。恥ずかしいのを隠そうとプルプル小刻みに震えているのを見ていると変な気持ちになってくるな。
「い、いくら不恰好だからって、笑うなんて酷いわ。」
思わず口元を緩めると、涙目のアナスタシアさんに抗議された。
さらに胸の辺りがもぞりとして、気持ち悪くて逆に気持ちいいみたいな、変な感覚が押し寄せる。フリーフォールで落下してる時や、牡蠣の断面を見てから食べる時の感覚に似ている。
俺の心の中の全ヴィクターがガッツポーズをしながら「そうそうそれそれ!」とかつての彼女の泣き顔を巻き戻し再生、フラッシュバックさせる。
まずい、これはまずい。
「いや、これは人形を笑ったんじゃない。アナスタシアさんが可愛い、その、可愛いところもあるんだなと微笑ましく思ってのことです、はい。」
好きな人の泣き顔に悶えるという、般若顔フェチなんかよりずっと最低な嗜好の顕現を阻止するべく、とにかく口から言葉を吐き出しながらアナスタシアさんの鎮静化を試みる。
俺の変な敬語を訝しみつつも、変な俺を見て逆に冷静になったようで結果オーライだった。
「お裁縫は初めてで……作ってはみたものの、この有様でしょう。うっかりそのまま入れてきてしまっただけで、見せるつもりはなかったのよ。」
「初めてでパペットにチャレンジしたのか?」
「ええ、時間があれば練習してもう少し人並みのものを出せたと思うけれど……背景を描くのに時間をとられてしまって。」
いや、この一週間の間にプラス裁縫に手を出す余裕まである時点で十分凄いんだが………
そういえばアナスタシアさんはお菓子作りも初心者のど素人だったが、夏季休暇の間に特訓して熟練者になって戻ってきたからな……本当に、練習すればこのヤバいパペットからの出発でも職人級パペットを作れるようになるかもしれない。
「でも何でパペットを?」
「ヴィクターが左手を、生き物みたいに動かしていたでしょう? やっぱりああやって、動きがある方が演じやすくて子供たちにも喜ばれるんじゃないかと思って……」
なるほど、あれで人形劇を思い付いたって言ってたもんな……確かにアナスタシアさんも気に入っているというか、楽しげに……割とノリノリで自分の髪のコロネを操っていた気がする。
棒人形よりパペットの方が操作性も近い。
パペットで喋るアナスタシアさんか……非常に興味深いな。
「でも駄目ね。これだと準備期間に間に合わないわ。」
不恰好だと言いつつも初めて作ったパペットには愛着があるようだ。もののけパペットを丁寧に鞄にしまいしまいしつつ、眉を下げて微笑む。
それから俺に両手を差し出した。
「それで、ヴィクターの方はどうなの?」
人形劇の背景絵の要求である。
しまった。忘れていた。
「あ……はい。」
求められるままにアナスタシアさんの手の上に提出したお粗末な俺の絵は、手直しする間もなく、廊下の向こうからベンとニックの足音が近づいてくるのだった。