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6  ユッカの迎春(2)

 


「――ユッカ。母さん、ちょっと行ってくるから、ティーアとここにいてくれる?」

 母の声が、表情が、いつもとどこか違っていたような気がするのは、気のせいだろうか。

 しゃがみ込んで目線を自分と同じ高さに合わせる母の姿は見慣れているはずなのに、まるで別人のように見える。

 当惑する五歳の少年に、母はすやすやと眠る赤子を預けた。

「お母さん?」

「そんな顔しないで。すぐに戻ってくるから」

 少年は、自分の腕に初めて預けられた数ヶ月前にできたばかりの妹を、落とさないように、つぶれないように、ぎゅっと抱きしめた。

「――どこ行くの?」

 母は少年の問いには答えず、ティーアと仲良くね、とだけ告げると頭を撫でて立ち上がった。

 路地の片隅で、人の間で見え隠れしながら去る母の後姿を目で追っていると、知らない男が母に近寄ったのが見えた。その男に母は親しげに微笑みかけ、二人は腕を組み、人垣に消えた。

 それをぼんやりと見送りながら、少年は頭のどこかで悟った。

 もう二度と、自分は母親の声を聞くことはできないのだと――



     *   *   *



 ユッカはベッドの上で身体を起こすなり大きな溜め息をついた。

「夢か……」

 呟いてみたものの、その言葉は正しくないとわかっている。あれは幼い頃の自分の記憶だ。ティーアにも、育ててくれた曲芸一座の団長夫婦にも話したことのない、ユッカが覚えている母の唯一の姿だ。

 忘れたつもりでいたのだが、どうもそうではなかったらしい。

 ユッカは珍しく不機嫌そうに顔をしかめつつ、ベッドから降りた。


 外は東の空が白んできてはいるがまだ暗い。起きている人もほとんどいないだろう。

 起きている人がいないということは、人と会うことも少ないということだ。だから日課である散歩ランニングを、ユッカはこの時間にしている。

 ユッカは着替えると冷たい水で顔を洗った。

 夢の余韻を取り払いたいのに、目を閉じるとあのときの記憶が鮮明に蘇ってきて、ユッカは眉間に皺を寄せた。

 顔を上げると、視界の片隅に昨夜の蒸し鶏の入った器が入る。結局、味の解決策は見つからずじまいだ。それどころか、昨夜アニータに言った足りないもの――『キュイッ』と『白』と『ピンク』――が、間違っているような気がしてきていた。

 ま、一晩考えたくらいじゃ無理だよな。

 いろいろな意味を込めた溜め息を一つつくと、ユッカは早々に外へ出た。

 常若の街とはいえ、早朝はまだ空気がひんやりとしている。

 いつもこのランニングの時間に、行き詰まった新作の解決案や、今日仕込みする食材の量や種類に思いを馳せる。すると何故か頭が冴えてきて、自然と考えがまとまるのだ。

 ユッカは準備運動もほどほどに、走り始めた。早く瞼の裏に残る夢の残骸を振り落とし、仕事に集中したかった。

 しかし、走っても走っても、今日に限って一向に思考がまとまらない。

 まるで霧のようだ。固めようとしても指の間をすり抜け、掌には何も残らない。走っても走っても、出口が見えてこない。

 荒く息をしながらも、ユッカは走るスピードを速めた。そして、いつものコースではなく脇道の方へと通りの角を曲がる。景色を変えれば、気分も変わるかもしれない、そう考えて。

 見慣れぬ路地は、ユッカの目論見通り少しだけ頭を冷やしてくれた。

 冷静になれば、今まで何故こんな当たり前のことが思いつかなかったのだろうと言いたくなるような考えが浮かんでくるものだ。おかげで新作については一回置いておこう、とも思えた。

 今日の分の仕込みをどうするかの方が先決だ。お客様が食べたいという料理を用意できなかったら大変なのだから。

 ユッカが思考を切り替えようとした矢先、ふと、何かが鼻腔をくすぐった。

 淡く芳しく、甘酸っぱい。ここ数日、ユッカが嗅いでいたものよりも何倍も濃厚で魅惑的な、林檎の香りだ。

 ユッカはその香りに誘われるようにして路地を進んだ。

 新作料理に足りないと自分が求めているものが、その香りの行き着く先にあるような気がして。

 路地を進むごとに林檎の香りは強くなる。

 そしてそのまま広い通りにぶつかり、路地はそこで終わっていた。

 しかし芳醇な香りはより濃く漂っている。

 ユッカは足を止めるとあたりに視線を走らせ、その香りの元を探した。

 そして、見つけた。真っ正面、通りの向こう側にある、可愛らしい外観のお店を。

「ア…フェール……?」

 入り口と思われる正面戸口の上に、そう書かれた看板が掛かっている。

 その店の名前に、ユッカにはなんとなく聞き覚えがあった。そう、確か、家でティーアが話していたように思う。このティルナノーグの街に『アフェール』という林檎菓子専門店がある、と。「その店のクレイアさんっていうパティシエさんの作るお菓子がね、ホント美味しいの。今度何か買ってくるね」とティーアは言っていたが、甘いものがそれほど得意でないユッカは、せっかくティーアが買ってきた林檎のクッキーを口にしなかったのだ。

 そこまで思い出して「なるほど」とユッカはひとりごちた。

 林檎菓子の専門店からなら、ユッカを誘ったこの香りにも納得がいく。林檎の調理方法にも詳しいだろうし、ユッカの求める味を出すための一番いい方法も知っているだろう。

 ティーアの買ってきた林檎クッキーを食べなかったことが、今更悔やまれた。

 それにしても、菓子店がこんな早朝から甘い香りを漂わせているというのはどういうことだろうか。まだ今日のお店に出す菓子を焼き上げるには早すぎる時間帯だ。下拵えで生地を作るくらいならありえるとしても、林檎の香りがここまで外に漏れるような作業はしないはずなのに。

 通りを挟んだこの位置からでも、明かりが灯されたままの店の奥で誰かが何かをしているのがわかる。

 もしかしたら、自分と同じように新作を考案中なのかもしれない。

 こんな美味しそうな香りがするということは、自分と違ってもうほとんど完成しているのかもしれないけれど。

 羨ましい、とユッカは思った。できるものなら、アドバイスをお願いしたいくらいだ。

 ……まぁ、俺には無理だけどな。

 ユッカが溜め息をつき、立ち去ろうとしたとき。


 ガチャリ


 店の脇にある勝手口が開いた。甘い林檎の香りに混じって、小麦粉の香りがふわりとユッカに届く。

 突然のことにユッカが対処する間もなく、中から人が出てきた。焦げ茶の髪を高く一つに結い上げた小柄な女性だ。襟元にフリルのついた真っ白いコック服を着こなし、頬には少し白い粉がついている。多分小麦粉だろう。

 少女は雲一つない空を見上げて嬉しそうな笑顔を浮かべると、袖の捲られた細い両腕を空に掲げて太陽に向かって伸びをした。

 いつの間にか顔を見せていた太陽が、少女を明るく暖かく照らす。その少女を包むその柔らかい光の中に、ユッカは、妖精の女王ニーヴの姿を見た気がした。

 ――祝福の光――

 あまりの美しさに、ユッカは息をするのも忘れて見惚れた。

 ニーヴは少女の周りで軽やかに舞い、最後に少女の頬にキスすると、光の中に消えた。

 と同時に、少女も腕を降ろす。そして振り返り、通りの反対で呆然と立ち尽くすユッカに気がついた。

 しまった、と思っても遅い。

 ユッカは身を翻す間も視線を逸らす間も与えられないまま、少女の瞳に捕らえた。

 少女の澄んだ水色の瞳が僅かに細められ、真っ赤に熟した林檎と同じ色の唇が弧を描く。

「おはようございます」

 聞こえてきた心地の良い小鳥のさえずりのような声とともにその少女の笑顔を見た瞬間、ユッカの胸の奥で何かが弾けた。

 心臓が壊れてしまったのかと思うほど早鐘を打ち鳴らし、身体中の血が沸き立ち逆流する。

 何が起こったのか自分でもわからないまま、何かに操られているかのようにユッカは会釈し、踵を返すとまた走り始めた。



     *   *   *



「あ、お兄ちゃん、お帰り。なんか今日は遅かったね。遠回りしたの?」

 ティーアの明るい声を浴びて、ユッカは我に返った。

 はっとしてあたりを見渡すと、何故か自分の家の戸口にいる。どうやら、自分は帰宅したらしい、とユッカは思った。

 先ほどの少女に会ってから今の今まで、自分がどこにいて何をしていたのか、完全に記憶が飛んでいる。こうして家に辿り着いているということは、普通に走って帰って来たのだとは思うが、どの道を通ったのかまったく覚えていない。

 そのことにも驚きだが、それよりも走っていたことだけが理由ではないだろうこの身体の熱さ。今までに体験したことのないこの体調のおかしさは何だろう?

「お兄ちゃん?」

 返事をしない兄を心配したのか、ティーアが両腕いっぱいに抱えていた洗濯物をいったん傍らに置いてユッカの前に立つ。そして背伸びしながらユッカの額に手を当てて自分のと比べた。

「んー……熱はないよね? ホントどうしたの? 何かあった?」

 何か? いや、『何か』と言うほどのことは何もなかった。

 ただ、あった。いや『逢った』。

 誰に? 決まっている。あの、アフェールから出てきた――

「――女神……」

「ん?」

 ユッカの口から漏れた言葉が聞こえたのか、それともあまりに小さすぎて上手く聞き取れなかったのか、ティーアが訝しげに首を傾げる。

「今、小麦粉フラワーの香りを纏った白衣の女神に逢った……」

「えぇっ!?」

 ユッカはそう言い残して自分の部屋へと消えた。

 兄の去った扉をぼんやりと眺めつつ、ティーアは呟いた。

「お兄ちゃん、おかしくなっちゃった……」



     *   *   *



「ねぇねぇ、ノエル君、あなたが聞いてよ」

「えぇっ!? 俺が?」

「だって、男同士、通じるものがあるかもしれないし」

「いや、確かに俺、男だけど……でもそれとコレとは関係ないって言うか……」

 海竜亭の厨房へと続く扉の影で、アニータとノエルが小声で何かを言い合っている。

 アニータに肩を叩かれたノエルは溜め息をつき、厨房の中をそっと窺った。

 そこにはいつものようにユッカがいて、調理に専念している。ただ、いつもなら実に嬉しそうに楽しそうに火に向かっているユッカが、今日は呆けたような表情のままただただ仕事をこなしていた。考え事にしては明後日を通り越して数年後の方向を見ていそうな眼差しだ。

 それだけならまだいいのだが、たまにほうっと切なげな溜め息をつく。それがたまたま肉の塊にダンッと出刃包丁を叩きつけた直後だったりしたら、傍目から見るとちょっとアブナイ人に見えてしまうのだ。

 もちろん、アニータもノエルも、ユッカがそんな人ではないとわかってはいるのだが、いつもと違う雰囲気のユッカに戸惑いを隠せないでいた。

「こんにちはー……って、あれ? どうしたの、二人ともこんなところで?」

 店の裏口から入ってきたのは、ティーアだ。

 少し早いお昼を食べにやってきたのだろう。ティーアはほぼ毎日毎食、ここでユッカのまかない飯をいただいているから。

 妹の姿を見て二人は同時に安堵の息を吐き、ティーアを取り囲んだ。

「ねぇ、ティーアちゃん。なんか今日、ユッカさんが変なの」

「一応、仕事の方に支障は出てないんだけど」

「えっ? お兄ちゃん、まだ変なの?」

 眉間に皺を寄せたティーアは引き摺られるようにして海竜亭の中に入る。そして、三人は揃って厨房の扉の影からそっと中の様子を窺った。

 確かに、コンロの奥の壁に向かってぼーっと佇みながらスープ用の大鍋を掻き回すユッカの姿がそこにある。

 それを確認すると、三人はまた扉の影へと隠れた。

「よくわからないけど、アレは重症だよね」

「ねぇ、ユッカさん、どうしちゃったの? 今朝からああだったの?」

「うん、それがね」

 二人の心配をありがたく思いながらも、ティーアはくすりと笑った。

 確かに、ティーアだって兄の朝の様子には心配したのだ。だが、先ほど配達に行った先の『アフェール』で、店番をしていたクレイアと話して謎が解けた。

 だから、今はもう安心している。

 クレイアさんはきっと気が付いていないだろうけど、つまり、こういうことだ。

「お兄ちゃんに、おっそい春が来たみたい」

 ティーアの言葉にアニータが大声を上げそうになったところを、タッチの差でノエルの手が抑える。


 そんなことが厨房の手前で行われているとは露ほども知らず、ユッカは一つ溜め息をついた。


 

前話と前々話でかなりコメディにしてしまったので、今回はちょっとシリアスにしてみました。キャラクターがそのシリアスを中途半端に台無しにしてますけどね! しかもオチてませんけどね!!

それにしても、ユッカさんはもはや「人見知り」の域を超えて「対人恐怖症」の域に来てますねぇ…。


今回は、ナツメさんのアニータさん、桐谷さんのクレイアさん、ひかりさんのノエル君をお借りいたしました。

それと、クダリさんをはじめとするティルナノーグ食道楽委員会の方々が考えてくださったメニューをいくつか使わせていただきました。

皆さん、ありがとうございますー♪

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