第24話 血の暴走と、蠢く刻印
「行くぞ……黒狐!」
クラマが吠えた。
次の瞬間、両手から漆黒の肉球を引き裂くように鋭利な漆黒の爪が伸びる。
黒い妖気を纏い、クラマは爆辞的に大地を蹴った。一筋の黒い条光となり、直線で野槌へと迫る。
「――っ!」
空を切り裂き、全力で振り抜かれた爪が野槌の身体を正確に捉えた。
ガンッ!!
硬質で鈍い衝撃音が山中に激しく響き渡った。
しかし――野槌の身体はピクリとも動かない。
野槌の片腕から生え揃った、気味の悪いヒルのごとき無数の触手が複雑に絡み合い、クラマの爪を力任せに受け止めていたのだ。
「……ほう」
クラマは瑠璃色の目を細める。
だが、攻撃の手は緩めない。
右、左、右――。
残像すら残さぬ速度で、爪の連撃を繰り出す。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!!
凄まじい火花と鈍い音覚が連乱する。
しかし、野槌は片腕の触手を蠢かせるだけで、クラマの必死の連打を余裕綽々で受け流していた。その場から一歩たりとも動いていない。
「ねえ……」
野槌の裂けた口が、薄く愉悦に歪む。
「手加減なんていらないよ。もっと本気で来なよ」
ズバァンッ!!
瞬間。野槌の背後から別の触手が死角を突いて死の如く唸りを上げた。
「――っ!?」
ドゴォォォンッ!!
横薙ぎに振るわれた触手の一撃が、クラマの胴体を真正面から直撃する。
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
痛烈な打撃音とともに、クラマの小さな身体が宙を舞った。何本もの大木をバキバキと薙ぎ倒しながら、勢いよく吹き飛ばされていく。
土煙を上げて地面に叩きつけられたクラマは、肺の中の空気を吐き出し、激しい苦悶に表情を歪めた。
黒い鎧の表面にはひびが入り、激痛がクラマの肉体を蝕む。
「ははははっ……!」
野槌が心底楽しそうに高笑いを上げた。
「まさか、それが全力のつもりなの?」
舌を這わせながら、ゆっくりとクラマへ歩み寄る。
「早く僕を倒さないと、あっちの鎌鼬の兄弟も……あの人間たちも、みんな殺されちゃうよ?」
その侮蔑の言葉に、クラマの目が血の走った鋭さでギラりと光る。
「それとも……待ちきれないから僕が先に行って、あいつらの首を跳ねてこようか?」
「……貴様……っ」
クラマは野槌を鋭く睨みつけ、折れそうな膝を震わせながら、ふらつきと同調して立ち上がった。
『クラマ……っ!!』
体内で水狐が叫ぶ。
『今の力じゃ絶対に無理だよ! 一度引こう、逃げようクラマっ!!』
「馬鹿を言うでない」
クラマは血の滲む口元を不敵に吊り上げた。
「……これからが、一番楽しいところなんじゃ」
『でも――』
「お前たち……すまんな」
クラマは体内の三匹の狐たちへ、密やかに意識を向ける。
「少しだけ……無茶をするぞ」
幼い顔に覚悟の笑みを浮かべた、まさに次の瞬間――。
バチバチバチバチィィィッ────!!!!
凄まじい青白き電流が、クラマの体内で暴走し、全身の肉体を内側から焼き焦がすように駆け巡った。
「なっ……!?」
雷狐が驚愕に目を見開く。
クラマはあろうことか、己の制御しきれぬ激甚な妖力を己の運動神経と脳へ直接打ち込み、超伝導状態を作り出していた。肉体が自壊するリスクと引き換えに、反応速度を物理限界の数十倍へと強制的に引き上げる狂気の領域。
「お前……無茶しやがって……っ!」
雷狐が絶望と呆れを含んだ声で叫ぶ。
「神経に直接電流を流して反応速度を引き上げるなんて……死ぬ気か!? 」
「ふふっ……」
クラマは全身の神経を焼き焦がす激痛のなかで、絶頂の笑みを浮かべた。
そして――。
シュンッ!
クラマの姿が、完全に世界から消え去った。
「――なにっ!?」
野槌の笑みが凍りつき、目を見開いたその刹那。
ザシュッ────!!
野槌の頬から、鮮血が大きく噴き出した。
あまりの神速。野槌の触手すら反応できず、クラマの爪がその肉を深く切り裂いていた。
初めて、野槌の顔から余裕の嘲笑が消え去った。
「……へぇ」
野槌は頬を伝う己の温かい血を、細い指でゆっくりと拭った。
クラマは神経を焼く電流の紫煙を全身から立ち上らせ、瑠璃色の瞳を輝かせて笑う。
「さあ……仕切り直しと行こうぞっ!!」
一方、その頃――。
「……っ」
九十九は喉を鳴らし、息を呑んだ。
目の前に立ち塞がる、巨大な鎌鼬――窮奇。
ただそこに静佇しているだけだというのに、全身の皮膚が暴れ出すような猛烈な死の警告を本能が発し続けていた。
圧倒的な、死の匂い。
膝が震え、足が地に着かない感覚に襲われる。
「……くそっ!!」
九十九は勢いよく己の左頬を殴りつけた。
ガンッ!!
激痛で意識を強引に引き戻す。
「豪鬼……頼む、力を貸せ!!」
九十九が牙を剥き出しにしながら黒刀を握り締める。
すると――。
ズズズズズッ……!!
両手の甲に刻まれた禍々しい黒い痣が、まるで生き物のように蠢き、腕を伝って肩口、そして首元へと猛烈な勢いで侵食を広げていった。
『おい九十九……本気かよ!?』コンが狂ったように叫ぶ。『痣の侵食をそこまで広げたら、本当にお前自身の意識が乗っ取られるぞ!!』
「少し無理をしなきゃ……あいつには届かないっ!!」
九十九は視界が赤く染まりかけるのを耐え、黒刀を激しく構えた。その瞳に、捨て身の覚悟が宿る。
窮奇はそんな九十九の様子を冷ややかに見つめ――。
「……来い」
次の瞬間。
窮奇の巨躯が、空間から掻き消えた。
「――なに!?」
九十九が叫ぶと同時に。
ザシュッ!!
「ぐっ……ぁっ!?」
肩口から鮮血が激しく舞った。
振り返ると、いつの間にか背後に移動していた窮奇が、爪についた血を払いながら不気味に笑っていた。
目視することすら不可能な、絶対的な神速。
「九十九っ!!」
葉月が悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。
窮奇は葉月へ冷たい視線を滑らせると、両腕の巨大な鎌を一閃させた。
ズガァァァンッ!!
葉月の足元の石畳が爆破されたように一瞬で抉れ飛ぶ。
「ひっ……!?」
「お前は――」
窮奇は氷のように冷徹な瞳を葉月へ向けた。
「喋るな。邪魔だ」
「くっ……あいつ……っ!」
九十九は激痛に耐え、血を吐き出しながら再び窮奇へ向かって踏み込んだ。黒刀を全霊で一線に振り抜く。
しかし――刃はまたしても空を切った。
(消えた……どこだ!?)
次の瞬間。
ザシュッ!!
「ぐあぁぁぁっ!?」
今度は背中が大きく斜めに切り裂かれ、九十九は地べたへと倒れ込んだ。
「九十九っ!! 今助けるわ――」
「来るなっ!!」
這いつくばったまま、九十九は絶叫した。
「来るな葉月! 巻き込まれるっ!!」
窮奇は倒れた九十九を一瞥もしず、静かに葉月へ向かって足を進める。
「大人しくしていろ」
窮奇は冷淡に告げた。
「アラタ様の命令だ、命までは取らん。……だが、殺さずとも両手両足を奪い、二度と動けぬようにすることなど、俺には造作もない」
葉月の顔が恐怖で蒼白に引き攣る。
「……っ!」
それでも葉月は震える手で幾重もの札を握り直し、錫杖を構えた。
「九十九を……これ以上傷つけるなら……私だって――」
「葉月」
九十九の声が、重く低く地面から響いた。
「大人しくしててくれ……頼む」
「九十九……!?」
九十九は黒刀を杖代わりにし、ゆっくりと、異様な動作で立ち上がった。
ズズズズズズッ……!!
首元まで達していた黒い痣が、まるで黒い猛毒の血流のように顔面へと這い上がり、右頬、そして右目までも黒く染め上げていく。
『九十九!』コンが悲痛な叫びを上げる。『馬鹿野郎! それ以上は踏み出すな! 戻って来れなくなるぞっ!!』
だが――コンの声すら、今の九十九の耳には一切届いていなかった。
脳裏を灼き尽くすのは、圧倒的な力の差に対する屈辱と、泥を舐めさせられる怒り。
心の底、暗黒の深淵から溢れ出るドロドロとした純粋な増悪。
頭の中で、豪鬼のおぞましい重低音が歓喜に震えて反響する。
――そうだ……もっと憎め……すべてを壊せ……
九十九の口元が、人間とは思えぬ不気味で凶暴な角度に吊り上がった。
九十九の右目が、爛爛とした漆黒の狂気に染まる。
「……死ねよ」
自身の命も、心すらも豪鬼の黒い毒に差し出し――九十九は正気を投げ打ち、神速の凄絶な怪物・窮奇の懐へと、一気に飛び込んだ。




