第16話 檻の中の母と、地獄の始まり
「母さん……」
ひんやりとした冷気が漂う、薄暗い屋敷の蔵の奥。
橘大和の足音が、静まり返った木床に重く響いていた。
「やっと……やっと黒刀を手に入れたよ」
蔵の最奥。埃っぽい光の届かない場所に、堅牢な鉄の檻が置かれていた。
その檻の中に、一人の女性が寂しく座り込んでいる。
乱れた長い髪を垂らし、俯いたまま、ぴくりとも動かない。
肌の血色は失われ、呼吸をしていることすら疑わしい――まるで、精巧に作られた人間大の人形のようだった。
「これで……」
大和は檻の前で足を止め、握りしめた拳を震わせた。爪が皮膚に食い込む。
「母さんを……こんな姿にしたあの女……」
低く、憎悪に満ちた声が蔵の暗闇に沈んでいく。
「九条美麗……必ず、僕の手で殺してみせる」
大和はそう呟くと、檻の隙間から中にいる母――橘恵の顔をじっと見つめた。
しかし、恵からの反応はない。
ただ虚ろで光のない双眸で、何もない宙を見つめ続けているだけだった。
――十数年前。
格式ある橘家に、一人の男の子が誕生した。
当時の橘家当主・橘匠と、その妻である恵の間に生まれた待望の第一子。
その名は――大和。
「この子を……必ずや橘家の輝かしい跡取りに……」
恵は生まれたばかりの愛おしい我が子を抱きかかえ、取り憑かれたように呟いていた。
かつての名家・橘家は、その頃すでに全盛期の勢いを失い、陰りを見せていたのだ。だからこそ恵は、大和を伝説の『黒刀の継承者』に育てることに対し、異常なまでの執着を抱くようになっていった。
そんなある日のこと。
追い詰められていた恵は、当時親友であった九条美麗に焦りの心中を打ち明けた。
「大和に……どうしても黒刀を継がせたいの。どうすればいいの……?」
美麗は思案するようにしばらく沈黙したのち、懐から小さなガラス瓶を取り出した。
その中には、粘り気のある薄暗い赤黒い液体が満たされている。
「法術の力を跳ね上げる方法があるわ」
「これ……なに……?」
「少しずつでいいの。大和の食事に混ぜて与えなさい」
美麗は妖しい笑みを浮かべ、その瓶を差し出した。
恵は狂気と迷いに揺れながらも、差し出された瓶を受け取った。
そして――美麗に言われた通り、幼い大和へ少しずつその液体を与えていったのだ。
効果は劇的だった。
大和は幼少期から、周囲の人間が恐れをなすほどの異常な法術の才能と力を開花させていった。
小学生になる頃には、並の大人では束になっても敵わないほどの絶大な力を手に入れていた。
だが――代償はあまりにも大きかった。
力が肥大化していくにつれて、幼い大和の心から『感情』がひとつ、またひとつと削ぎ落とされていったのだ。
笑わない。
泣かない。
怒りすら見せない。
誰から何を言われても、まるで他人事のように無機質に受け流すだけの空洞のような子供。
「……もうやめろっ!!」
ある日、異変に気づいた夫の匠は、ついに恵からあの怪しい瓶を取り上げた。
「こんなおぞましいものを…吸血鬼の血を大和に飲ませるのは、今すぐやめるんだっ!!」
「でも……この子はもっと……もっと強くならなきゃいけないのよ!?」
「強さなんてどうでもいい!!」
匠は涙を浮かべ、叫ぶように声を荒らげた。
「俺は……俺は大和の心を失いたくないんだ!!」
あまりの気迫に、恵は言葉を失った。
――まさにその時だった。
「……恵」
二人の背後の暗闇から、滑り込むように美麗の声が聞こえた。
美麗は恵の耳元へ口を寄せ、甘い毒のように囁く。
「あなたの夫はね……大和をあなたから取り上げようとしているのよ」
「……え……?」
「このままだと、大和はあなたの手から完全に離れてしまうわ」
「そんな……そんなの嫌……っ」
「嫌でしょう?」
美麗の恐ろしい声が、破綻しかけていた恵の精神へと深く染み込んでいく。
「だったら――」
美麗はそっと恵の手へ、冷たい刃物を握らせた。
「あなたが……大和を守るのよ」
……恵の瞳から、最後の一線だった理性の光が消え去った。
その後に何が起きたのか――大和自身も、ほとんど覚えてはいない。
ただ、父・匠は死んだ。
そして母・恵は、完全に正気を失った。
錯乱した恵は親族の手によって暗い蔵の檻へと閉じ込められ、それから何年もの間、ただの一言も喋らなくなった。
魂だけがどこかへ抜け落ちてしまった人形のように。
そして、空っぽになった大和の中に残されたのは、たった一つの歪んだ目的だけだった。
――母を壊した、九条美麗を殺す。
そのために、黒刀を手に入れる。
一方、同じ頃。
「……お前たちは、一体何者なんだ?」
九十九は、月光の下に立つ二人の少女を警戒混じりの目で見つめていた。
一人は鮮やかな赤いショートヘアー。
もう一人は、静謐な青いロングヘアー。
二人とも、見た目の年齢は十八歳前後といったところだ。
赤髪の少女が威勢よく胸を張る。
「私は葉月!」
そして、隣の青髪の少女を親指で指さした。
「こっちは睦月」
青髪の睦月は、心底興味なさそうに九十九の全身を品定めするように眺めている。
「私たちは、千鶴様の髪の毛から作られた式神よ」
「千鶴様……?」
九十九は聞き覚えのない名前に眉をひそめた。
「誰だよ、それ」
「呆れた……あなた、千鶴様のことを――」
葉月があきれ果てたように何かを言いかけた、その瞬間。
「葉月!」
睦月が慌てて制止の声を飛ばした。
「……ッ!」
葉月はハッと息を呑み、一瞬だけ睦月と目を合わせる。
「はいはい……分かったわよ」
葉月は小さく咳払いをすると、再び九十九に向き直った。
「まあ、今はいいわ。それより――」
葉月は腕を組み、九十九を上から下へと冷ややかに見下ろす。
「あなた、こんなところで何をしてるのよ?」
「黒刀を……奪われたんだ」
九十九は悔しさに歯を食いしばり、拳を固く握りしめた。
「それに……クラマにも謝らなきゃいけない……」
「クラマ?」
「俺が……あいつを化け物扱いして……酷い事を言ったせいで、こんなことになった……!」
九十九は自分の不甲斐なさに押し潰されそうになりながら、痛切に俯く。
しかし、すぐに意を決したようにバッと顔を上げた。
「だから……っ!」
二人の少女に向かって、まっすぐに視線をぶつける。
「俺に……俺に戦う力を教えてくれ!!」
葉月は黙ったまま、九十九の目を見つめ返した。
「黒刀を取り戻す力が欲しいんだ!」
九十九は二人に向かって、深々と頭を下げた。
「頼む……っ!」
夜の静寂の中に、数秒の沈黙が落ちる。
次の瞬間――。
――ドスッ!!
「ぐはっ!?」
みぞおちを穿つ強烈な衝撃。葉月の容赦のない蹴りが九十九の腹部に叩き込まれていた。
九十九の身体が宙を舞い、容赦なく地面を転がっていく。
「情けないわね」
葉月は倒れ伏す九十九を見下ろし、冷たく言い放った。
「たかがその程度の覚悟で、黒刀を取り戻すつもりなの?」
九十九は激痛に腹を押さえ、吐き気を耐えながら、泥だらけになってゆっくりと立ち上がった。
「……それでも……俺はやる……っ!」
「ふーん……」
葉月は九十九の目を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「まあ、いいわ」
「え……?」
「あなたが少しでも強くなってくれれば、私たちの仕事も楽になるしね」
葉月はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、腕を組んだ。
「死なない程度に――」
月光に八重歯を覗かせる。
「しごいてあげるわ」
「……私は手伝わないからね」
睦月はあきれ顔でため息をつくと、興味なさそうにそっぽを向いた。
九十九は二人を代わる代わる見つめ――そして、強く拳を握り直した。
「……ありがとう」
黒刀は奪われた。
クラマも、今は自分のそばにはいない。
それでも――。
「絶対に取り戻す……!」
九十九は力強く、己の足で立ち上がった。
その真っ直ぐな瞳を見て、葉月はフッと鼻で笑った。
「それじゃあ――」
楽し気に、そしてどこか残酷に言葉を紡ぐ。
「始めましょうか。地獄の修行を」
九十九の顔がひきつった。
「……じ、地獄?」
「ええ」
葉月は満面の笑みを浮かべた。
「死なない程度に、ね?」
「……やっぱり、今から帰ってもいいか?」
「ダメ」
一秒の躊躇もない、即答だった。




