第49話 最愛という名の指名手配
ふわりとカーテンが揺れ、レオナルト殿下は音もなく窓の外へと消えていった。
私は、彼が消えた空白の窓枠を、ただ呆然と見つめていた。
……けれど、次の瞬間。全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。
「待って、ここ二階なのよ……っ!?」
慌てて窓際に駆け寄り、身を乗り出すようにして下を覗き込む。
そこには無惨に折れた植え込みも、倒れている人影もなかった。ただ、午後の穏やかな陽光が芝生を照らしているだけだ。
あの人は人間をやめているのか。それとも、王族に伝わる超常的な身体能力のなせる業なのか。
どちらにせよ、あんな規格外の男に目をつけられたのだと再認識させられ、背筋に冷たいものが走った。
「今日、お前の平穏を壊したことは……謝らない。だが、無理をさせたことは後悔している」
去り際に彼が残した、低く、重い声。
謝らないと言い切る傲慢さと、それ以上に伝わってきた、痛々しいまでの後悔を滲ませたあの表情。どうしても、それらが頭から離れない。
私は逃げるように視線を逸らすと、カチリと窓の鍵を閉めた。
ゴーン、ゴーン、と。
無情にも、放課後の終了を告げる二度目の鐘が鳴り響いた。
寮の廊下の向こうから、波のようなざわめきが近づいてくる。
いつもなら、寮の廊下は淑女たちの穏やかな衣擦れの音しかしないはずだ。
けれど今は、隠しきれない高揚と、熱に浮かされたような鋭い声が、閉ざした扉を侵食するように響いていた。
私は吸い寄せられるように、抜き足差し足でドアへと近づき、そっと聞き耳を立てた。
「……ねえ、本当に信じられないわ。あの氷のような王太子殿下が、あんな……あんなに愛おしそうに、誰かを抱きかかえるなんて」
廊下で足を止めた令嬢の、震えるような声。
「ええ、わたくしもこの目で見ましたわ。あの方はいつも、誰に対しても等しく冷ややかでいらしたのに……。
あの時ばかりは、まるで壊れ物を扱うような手つきで。それでいて、誰にも触れさせまいとする独占欲が、こちらまで伝わってくるようでしたの」
「一体どこのどなたなの? 顔は見えなかったけれど、あの華奢な体つき……。下級生かしら? それとも、他国から密かに招かれた貴賓の方?」
ひそひそ声のはずが、興奮のあまり、いつもよりずっと大きな声が漏れ聞こえてくる。
「ああ……わたくし、その場にいなかったことが悔やまれてなりませんわ! 殿下のあんな表情を引き出す『最愛』の君だなんて、一体どれほどの美女なのかしらね……」
「本当ですわね。一目だけでも拝見したかったわ。……でも、そんな方が学園にいらしたかしら?」
やめて。お願いだから、その「犯人捜し」の考察を私の部屋の前で繰り広げないで。
心臓が、喉から飛び出しそうなほど激しく脈打っている。
私は弾かれたようにドアから離れると、ベッドへ飛び込み、頭から毛布を被った。その中で、膝を抱えて小さく丸まる。
あの時、耳元で聞こえた殿下の低い声が、嫌な鮮明さで蘇る。
「……案ずるな。お前の名は、まだ誰にも教えてやるつもりはない」
「今のうちは、正体不明の「私の最愛」として、皆に羨まれていればいい」
羨まれる? 冗談じゃない。
あんな、全校生徒を絶望と嫉妬の渦に叩き落とすような所業をしておいて。
今の私は、羨望の対象なんかじゃない。全女子生徒から標的にされかねない、逃亡犯と同じだ。
彼女たちが憧れ、溜息を漏らしながら語り合っている人物の正体が、今この部屋で、震えながら毛布にくるまっている地味で病弱なモブだなんて、誰が想像するだろう。
絶対に、死んでもバレるわけにはいかない。
やがて、廊下から人の気配が消え、夕食の時間を告げる静かな鐘が鳴った。
食堂へ向かう生徒たちの足音が遠のき、寮内がようやくしんと静まり返る。
……よし、今だ。
私はようやく毛布から顔を出し、小さく息を吐いた。
このまま食事を抜いて体力を削るのは得策じゃない。もし明日、空腹でふらついて余計な人目を引くようなことがあれば、それこそ藪蛇だ。
「……よし。今まで通り、影の薄い生徒として振る舞えばいいだけよ」
私は自分に言い聞かせると、這い出すようにベッドを降りた。
まずは、荒れ狂った胃腸を落ち着かせるのが先決だ。棚から常備している胃腸薬を取り出し、水と一緒に流し込む。苦い粉薬が喉を通ると、少しだけ冷静さが戻ってきた気がした。
鏡の前で髪を整え、これ以上ないほど「地味で、どこにでもいる女子生徒」の顔を作る。
視線を落とし、肩をすぼめ、周囲の景色に溶け込む。これは、私がこの学園で平穏を勝ち取るために磨き上げてきた、唯一無二の技術だ。
よし、行こう。
私は窓の鍵が閉まっているのを最後にもう一度指差し確認し、音もなくドアを開けた。




