不本意な公認と、ふわふわの先制攻撃
図書室を出て、私は何度も深呼吸を繰り返した。
心臓の音がうるさくて、歩くたびに殿下の指の冷たさが首筋に蘇る。けれど、時間は無情にも過ぎていく。一限目のチャイムが鳴る前に、私は自分の定位置――教室の片隅、風景の一部であるはずのあの席へ戻らなければならない。
教室の重い扉を、いつもと同じ控えめな動作で開ける。
……けれど、一歩踏み出した瞬間に、奇妙な違和感に足を止めた。
なんだか、今日……視線が多くないだろうか。
気のせいだと思いたかった。けれど、教室のあちこちから、チラチラと私の方を伺う視線を隠しきれていない。いつもなら、私が教室に入っても誰が来たかなど気にも留めず、誰もが自分の朝の準備を続けているはずなのだ。
ああ、やっぱり。今朝、あんな風に殿下に連れ去られたところを皆に見られてしまったせいだ。
私の平穏なモブ人生に、なんて消えない傷を付けてくれたのか。注目を浴びているという事実に胃の辺りを重くしながらも、私は単に、朝の珍事の当事者として好奇の目で見られているのだと解釈した。私は顔を伏せ、足早に自分の席へと向かう。
すると、隣の席の令嬢が、これまでにないほど柔らかく微笑みかけてきた。
「おはようございます、アルトレイン様。……今朝は、その、大変でしたわね」
「あ、おはようございます。……ええ、もう。データの不備をあんな衆人環視の中で指摘されるなんて、恥ずかしくて……」
「データの……不備……?」
隣の令嬢が、なぜか、まあこの方は……と言いたげな、慈愛に満ちた目で私を見つめている。そこへ、背後からふわりと甘い花の香りが漂ってきた。
「あら、あらあ……。アルトレイン様、お顔がまだ林檎のように赤いですわよ? ――まあ、お耳まで」
耳に心地よい鈴を転がすような、その声。
私が恐る恐る振り返ると、そこには綿菓子をそのまま形にしたような、おっとりと柔らかな笑みを浮かべた少女が立っていた。
この学園の至宝。殿下の従妹にして、ロシュフォール公爵家の令嬢――カトリーヌ様だ。
いつも遠くから、今日も美しいわ、眼福だわ、と勝手に風景として愛でていた高嶺の花が、今、私の目の前でぱちぱちと長い睫毛を揺らしている。
「お、おはようございます、ロシュフォール様!? な、なぜ私などに……っ」
あまりの衝撃に、心臓が口から飛び出しそうだった。殿下とのやり取りで削られた精神に、眩しすぎる公爵令嬢からの直撃は刺激が強すぎる。
「おはようございます、アルトレイン様。……あまりにお顔が赤いものですから、お体が心配で。もしや、兄様が無体なことをなさったのではありませんか?」
ロシュフォール様は、そっと私の頬に手を添えようとして、ひどく悲しげに眉を下げた。
「いえ、その、これは! 決して殿下がどうこうというわけではなくて、ただ私が少し、動揺しているだけでして……っ」
「……まあ。そんなに震えて。……アルトレイン様、無理をしてはなりませんわ。お体をお休めになったほうがよろしいのではありませんか?」
「いえ、お休みするほどでは……」
「……ああ、可哀想に。痛くありませんか? 歩けますの?」
ロシュフォール様は、まるでお花にお水をあげるようなおっとりした口調で、とんでもないことをおっしゃった。
「全く、兄様ったら。アルトレイン様をこのような状態にしておきながら、配慮がなっていませんわ。……後で、たっぷりと抗議して差し上げなくては」
ぷう、と可愛らしく頬を膨らませてお怒りになるロシュフォール様。
腰。お一人で歩かせる。そして、兄様への「抗議」。
……そこで、私はようやく気づいてしまった。
ロシュフォール様が、なぜこれほどまでに私を労り、悲しげな目を向け、そして兄である殿下に憤っているのか。彼女のふわふわとした言葉のオブラートを剥ぎ取った先にある、あまりにも生々しい誤解の正体に。
待って。
血の気が引くのがわかった。ロシュフォール様は、殿下が今朝、私を連れ去った後の「密室」で、もっとその……学術的でも理論的でもない、十八禁的な事態が起こったのだと信じて疑っていないのだ。
周囲のクラスメイトたちの納得に満ちた視線も、隣の令嬢の慈愛に満ちた微笑みも、すべては今のロシュフォール様の言葉で真実として固定されてしまった。
「ロシュフォール様、違います! 何も、そういう……殿下と不適切なことは何もしておりませんっ!」
「うふふ、なあに? そんなに必死に隠さなくてもよくてよ。兄様、本当に罪なことをなさいますこと。……しっかりお叱りしておきますから」
私の絶叫に近い否定さえも、おっとりと微笑む彼女の手によって、初々しい令嬢の照れ隠しへと変換されていく。だめだ。この方は、一度思い込んだらお花畑のような包容力で、相手の言い分をすべて飲み込んでしまう。
殿下の「宿題」に、ロシュフォール様の特大の、あまりに不名誉な勘違い。
私の平穏な背景人生に、また一つ、甘くて重い絶望が降り積もった音がした。




