聖域への拉致と、無垢なる事情聴取
一限目のチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきたことで、私はようやく心臓の暴走を抑えることができた。
張り詰めていた空気が一瞬で「授業」へと切り替わる。周囲の好奇の視線も、今は黒板へと向けられた。……はずなのに。
一限目の講義中、私は結局、生きた心地がしなかった。
隣の席から、時折、壊れ物でも見るような慈愛に満ちた視線が飛んでくるからだ。ロシュフォール様は、講義を聴くふりをしながら、私が少しでも肩を震わせれば「大丈夫?」とでも言いたげに眉を下げ、優しく微笑みかけてくる。
ノートを取るふりをして俯き、私は必死に背景に徹しようとした。けれど、隣から漂う甘い花の香りと、彼女の過保護なまでの関心が、私の「存在感」を嫌でも際立たせてしまう。
その視線に耐えきれず、講義が終わるなりこっそり教室を抜け出そうとした私だったけれど。
「あら、アルトレイン様。そんなに青いお顔で、どこへ行こうとなさるの?」
ふわり、と退路を断つように甘い香りが立ち込める。逃げ遅れた。
ロシュフォール様は私の腕をそっと取ると、まるでお花を摘み取るような優雅な動作で私をエスコートし始めた。
「いいえ、ロシュフォール様、私は少し風に当たれば治りますので! どうか、お構いなく!」
私は全力で、それでいて不敬にならないギリギリの力加減で、その柔らかい手から逃れようとした。けれど。
「まあ、いけませんわ。無理をなされては。……さあ、あちらで休みましょう?」
ロシュフォール様の微笑みは、一分の隙もなかった。
おっとりと、どこまでも優しく。けれど、公爵令嬢としての「命令」にも似た絶対的な拒絶不能のオーラを纏っている。
私が「でも」と口を開きかけるたびに、彼女は「ふふっ」と可愛らしく首を傾げ、そのまま流れるような所作で私を廊下へと導いていく。
抵抗しようにも、彼女の繊細な指先に力を込めさせるわけにもいかず、私はまるで磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、なすすべなく連行されるしかなかった。
連れて行かれたのは、一般の生徒が使う保健室ではなかった。
王族や一部の高位貴族、あるいは急患のみが入室を許される、学園の聖域――『特別保健室』。
重厚な扉が開かれた瞬間、私はあまりの豪華さに眩暈を覚えた。ふかふかの絨毯に、天蓋付きの大きなベッド。背景令嬢である私が足を踏み入れていい場所ではない。
「先生、いらっしゃいませんのね。ちょうど良かったですわ」
先生、今すぐ戻ってきて! 誰か、私をこの特別すぎる場所から連れ出して!
そんな私の必死の祈りも虚しく、ロシュフォール様は私をベッドへ座らせると、自身もその隣に腰を下ろした。そして、その琥珀色の瞳を潤ませ、内緒話でもするように私に顔を近づけてくる。
「……アルトレイン様。これからのために、私に教えていただけませんこと?」
「は、はい、何でしょうか……」
「その……やはり、初めてというのは、……とても痛いものなのですか?」
時が止まった。
ロシュフォール様は、まるで明日の天気を尋ねるような純粋な響きで、とんでもないことを口にされた。その頬はほんのりと赤らみ、本気で私を「経験者」として頼りにしている眼差しだ。
痛い。何が。どこが。
そんなの、私が聞きたい。というか、私は未経験だ。もちろん殿下とも何もしていない。
けれど、ここで「何のことですか?」と聞き返すのは、あまりに不自然なほど彼女の問いは「事後」を前提としていた。
「ロシュフォール様、あの、大きな、大きな勘違いをなさっています! 殿下とは、その、学術的なお話を……!」
「私、知っておりますのよ? 兄様が幼い頃から、ずっとどなたかに焦がれていらしたことを」
ロシュフォール様は、うっとりと私の手を握り、夢見るように目を細めた。
「なぜ今まで私は気づかなかったのでしょう。アルトレイン様は、兄様が語られていた焦がれていた方の姿そのままだというのに。そんな兄様がようやく見つけた大切な方を、あんなに強引に連れ去って、ただのお喋りだけで済ませるはずがありませんもの」




