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4月2日(木):文庫ひらきの日

 とある世界では今日は『本のある場所が開き、人が集まっても、読む人と聞く人と待つ人がぶつからないように、箱と席の名を先に揃える』日。アルメリアでは『文庫ひらきの日』として、本の箱に付ける札と、座る席に置く札を、読む人の目線で言い直してから並べる日。


 昼すぎ、フレイメル家は図書室『月読み文庫』へ向かっていた。昨日、灯路番所のそばで結び直した木札付きの腰掛けと、返し先ごとに分けた敷布を、今度は文庫の入口へ運ぶためだ。今日はルミナが迎えを少し早めたので、クリスもほいくえん帰りのまま一緒に来ている。月読み文庫の石段の下には、司書ミレーユが小さな本箱を三つ、順に並べて待っていた。


「助かったわ」と司書ミレーユが言う。「春休みの読み聞かせ、今日は子どもが多そうなの。箱と席の札だけ、先に置いておきたくて」


 入口の脇には、よみきかせ用の本箱、自分で選ぶ本箱、返す本の浅い箱が一つずつある。昨日運んだ低い腰掛けは、前に四つ、後ろに二つ。その間に、大人が通る細い道を一本あけることになっていた。


 レオンはその並びを見て、すぐに胸を張った。


「ぼく、札を書く」とレオンは言う。「昨日、呼び名と返す名を分けたし。今日は、読む箱と座る席を、ちゃんと分かるように書けばいいんだ」


 フィオナは腰掛けの木札を確かめながら頷いた。「うん。でも、誰の目で読んだときに分かるかを考えてね」


「大丈夫。今日は本の札だもん」


 返事は早かった。早いけれど、昨日よりは少し落ち着いている。レオンの中で、先に分ける、という気持ちは残っているらしい。


 レオンは紙札を三枚切り、炭筆で大きく書いた。


『よむ本』 『えらぶ本』 『かえす本』


 席には別の札を二枚。


『きく席』 『まつ席』


「これでどう?」とレオンが言う。「短いし、ちゃんと違う」


 司書ミレーユは札を見て、少しだけ首を傾げた。「悪くないけれど……」


 その続きが出る前に、クリスが『よむ本』の札を見て箱をのぞき込んだ。「これ、わたし よむ ほん?」


「うん、読む本」とレオンは言う。「今日、読むやつ」


 クリスは素直に頷いたが、次の瞬間、『えらぶ本』の箱から一冊抜いて『よむ本』の箱へ入れた。


「これも よむ」


「あっ、ちがう」とレオンが言う。「それは自分で選ぶ本で――」


 その横で、見習いパドが『まつ席』の札を後ろの腰掛けに置きながら訊いた。「これ、遅れて来た子が座る席ですか。それとも、読み聞かせのあとで待つ席ですか」


「えっと……」


 司書ミレーユも、返す本の浅い箱を見たまま言った。「『よむ本』は、司書が今から読む本に見えるし、『えらぶ本』は、この箱の中から選ぶ本にも見えるわね。意味は分かるのだけれど、子どもには、どっちに動けばいいかが同じに見えるかもしれない」


 小さな沈黙が落ちた。


 レオンの札は間違っていない。間違っていないのに、読む人ごとに、動く先がずれていた。


 レオンは少しだけ眉を寄せた。「でも、ちゃんと分けて書いたのに」


「うん」とフィオナが言う。「分けた。でも、“誰が”と“いつ”が抜けてる」


 ルミナが入口の段差で立ち止まり、静かに言った。「止まろう」


 その声で、箱のふたを持っていた手も、札を置く手も止まる。


 フィオナは紙札を一度集め、月読み文庫の石段の上へ順に並べた。「じゃあ、順番に。レオンが言いたかったことは何?」


 レオンはすぐに答えられず、箱を見た。やがて、ひとつずつ指した。


「『よむ本』は、司書ミレーユが今日の読み聞かせで読む本」


「うん」


「『えらぶ本』は、子どもが自分で選ぶ本」


「うん」


「『まつ席』は、読み聞かせの前に、まだ前へ出ないで待つ席」


 司書ミレーユが頷く。「それなら分かるわ。さっきの札は、言葉は正しかったけれど、動く人の顔が見えなかったのね」


 クリスも、石段の上の札をのぞき込みながら言った。「わたし、よむ ほん、ぜんぶ よむ ほん だと おもった」


 見習いパドも続ける。「ぼく、『まつ席』が、何を待つのか分かりませんでした」


 事実が並ぶと、どこで意味が分かれたかがはっきり見えた。昨日は、名札の役目が混ざった。今日は、札を見る人の位置が抜けていた。


 レオンは息を吐いた。「ごめん。短く書けばいいと思って、読む人のことを途中で落としてた。ぼく、自分が知ってる意味のまま読めると思ってた」


 ルミナは頷いた。「そこが見えたなら、もう直せるわ」


「どう直す?」とアストルが箱を押さえながら訊く。


 レオンは今度は急がなかった。札を一枚ずつ見て、順番に言い直す。


「『ミレーユさんが いま よむ本』」


「『じぶんで えらぶ本』」


「『よみおわったら かえす本』」


 席の札も、少し考えてから書き直した。


「『まえで きく席』」


「『うしろで まつ席』」


 フィオナが頷く。「いいと思う。誰が動くかと、いつ動くかが見える」


 司書ミレーユは新しい札を受け取り、箱と席へ順に置いていく。『ミレーユさんが いま よむ本』は司書机の横。『じぶんで えらぶ本』は入口に近い箱。『よみおわったら かえす本』は帰り道に向いた浅い箱へ。席の札も、前と後ろで迷わない向きに置き直した。


「これなら、読む前に足が止まらないわ」と司書ミレーユが言う。


 クリスも胸を張る。「わたし、じぶんで えらぶ ほん、わかる」


 見習いパドが後ろの席札を見て笑う。「ぼくも、ここは“あとで行く場所”だって分かります」


 レオンはそこで、やっと少しだけ笑った。「短くするだけじゃ足りなかった。読む人の立つ場所まで、札の中に入れなきゃだめなんだ」


「うん」とフィオナが言う。「言葉って、置いた場所だけじゃなくて、読む人の向きでも変わるから」


 月読み文庫の入口で、春の風が一度だけ札を揺らした。けれど、今度は揺れても迷わない。箱の名も、席の名も、読む人の足の向きと一緒に並んでいるからだ。


 読み聞かせが始まる前、司書ミレーユは低い声で言った。「レオンくん、ありがとう。今日は札が、ちゃんと“案内”になってる」


 レオンは少し照れたように鼻の頭をこすった。「昨日は名札の役目を混ぜて、今日は読む人の位置を落としてた。……でも、どっちも、先に分ければよかったんだな」


 アストルが小さく笑う。「そのうち、札だけで町を回しそうだな」


「そこまではしないよ」とレオンは言ったが、声は少しだけ嬉しそうだった。


 帰り道、フィオナは月読み文庫の石段を振り返った。低い腰掛けと本箱は、小さく並んでいるだけだ。けれど、札が揃うと、そこへ集まる人の動きまで静かに揃う。春は人を外へ呼ぶ季節だからこそ、最初に読む言葉の向きが大事なのかもしれない。


 明日はたぶん、箱より先に橋を渡る順番が要る。止まる声と進む声を、同じ調子で投げると足が迷う。そんな気配が、文庫の石段の下を流れる春の水の上に、もう薄く出ていた。


 梁の上でスノーが片翼をすぼめ、並んだ箱と席を見下ろした。「文庫は本を積む場所じゃねえ。先に人の足を落ち着かせる場所だ――札が歩き方を迷わせなきゃ、ページは勝手に開いていく」


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