4月1日(水):呼び名くるりの日
とある世界では今日は『ほんの少しだけ呼び名をずらして笑い、すぐ本当の名へ戻して、言葉の重さを忘れないようにする』日。アルメリアでは『呼び名くるりの日』として、遊びの呼び名と、物に結ぶ本当の名を同じ札に書かず、使う場ごとに分けておく日。
春休みの昼、フレイメル家は灯路番所のそばの空き地へ、小さな腰掛けをいくつか運んでいた。今日は兄姉が家にいるので、クリスもほいくえんを休んで一緒に来ている。明日、月読み文庫で春の読み聞かせの小さな席を増やすことになり、近所から低い腰掛けと敷布を借りるのだ。司書ミレーユが今朝、灯り文で「返し先が混ざらないよう、持ち主の札を付けておいてください」と頼んできた。
空き地の端には、腰掛けが6つ、敷布の束が4つ、細い紐と木札が小箱に分けて置かれている。雪解け水はまだ隅に細く残り、その横に春の花粉が薄く溜まっていた。風はやわらかいのに、足元だけは気を抜くと春に引っかかる。
「ぼく、札を書く」とレオンが胸を張った。「昨日、“今の一つ”にするって分かったし。今日は名札だろ。ちゃんと分けられる」
ルミナは敷布の埃を払いつつ頷いた。「お願い。でも、書く名と呼ぶ名は違うことがあるわ。物に結ぶのは、返すための名よ」
「うん、分かってる」
返事は早かった。早くて、少しだけ弾んでいた。レオンの目には、もう楽しさまで入っている。
クリスは木札の箱をのぞき込み、「これ、わたし かく?」と訊いた。
「クリスは紐を選んで」とフィオナが言う。「太いのは腰掛け、細いのは敷布」
「ふといの、いす。ほそいの、ぬの」
言いながら、クリスは素直に箱を分け始めた。
最初の2枚は順調だった。レオンは木札に炭筆で、持ち主の名を書いていく。『レオン』『クリス』『見習いパド』。ところが3枚目を書きながら、急に口元がいたずらっぽく上がった。
「今日は呼び名くるりの日だし、ちょっとだけ面白くしてもいいよね」
そう言ってレオンは、自分の腰掛けの札に『見はり隊長』、クリスの敷布に『ちいさな風』と書いた。見習いパドの敷布には『泥よけ名人』。どれも、本人をからかうほどではない。レオンなりの、笑って終わる遊びのつもりだった。
「ねえ見て。こっちのほうが分かりやすいだろ」とレオンは言う。「パドは泥を避けるのうまいし、クリスはすぐ走るから風だし」
見習いパドは苦笑いした。「ええと……ぼくの、本当の札はどれですか」
「これだよ」とレオンは別の木札を持ち上げる。「でも呼ぶときは、こっち」
そこで、フィオナの手が少し止まった。
クリスは『ちいさな風』と書かれた札を見て、ぱっと笑った。「わたし、かぜ」
「うん。だからそれ、クリスのだよ」
「じゃあ、かぜの いす、もってく」
クリスはそう言って、今度は『見はり隊長』と書かれた腰掛けを持ち上げた。レオンがさっき、自分で「ぼくが見張る」と言っていたからだ。
「ちがう、それぼくの」とレオンが言う。
「だって、みはり たいちょう、レオン」
見習いパドも手を止めた。「ぼく、この『泥よけ名人』を敷布に結べばいいんですか。それとも『見習いパド』ですか」
空き地に、小さな沈黙が落ちた。
札そのものは間違っていない。けれど、“返すための名”と“遊ぶための呼び名”が同じ木札の束に混ざった途端、誰の何かが、するりと分からなくなった。
レオンは口を開きかけて、すぐ閉じた。うまくいくと思っていた分だけ、うまくほどけない顔になっている。
ルミナが、木札の束を机代わりの箱の上へそっと置いた。「止まろう」
その声で、皆の手が止まった。
フィオナは散った札を拾い集め、表を上にして並べた。木札の角には炭の粉が少しついている。乾いた布で軽く払うと、字の形だけが残る。
「レオン」とルミナが言った。「今、札は何種類ある?」
レオンは少し考えた。「持ち主の札と……呼ぶ札」
「うん。役目が違うのに、同じ束にしたのね」
フィオナが続ける。「昨日は、教える言葉を一つにしたよね。今日は、名札の役を一つずつにしたほうがよかったんだと思う」
見習いパドが素直に言う。「ぼく、物に付ける札だと思って読んでました。遊びの呼び名だとは分からなかったです」
クリスも木札を見つめたまま言う。「わたし、かいた なまえ、ほんと だと おもう」
事実は、きれいにそこへ並んでいた。誰かが意地悪をしたわけではない。ただ、遊びの呼び名と返すための名が、同じ形の札に乗ったせいで、手が迷ったのだ。
レオンは息を吐いた。「ごめん。笑えると思ったけど、物に付ける札まで一緒にしたらだめだった。ぼく、呼ぶときの名前と、返すための名前を分けて考えてなかった」
ルミナは頷いた。「そこが分かれば、もう半分は直ったものよ」
「どう直す?」とアストルが訊く。
レオンは少し考えてから答えた。「持ち主の札は木札のままにする。呼ぶ札は紙にする。それで、物には木札だけ結ぶ」
「いいと思う」とフィオナが言う。「紙札は、胸か袖に付ければ遊べるし、返すときは外せる」
すぐに作業が始まった。
フィオナは木札の裏返しを整え、持ち主の名だけを書き直す。レオンは細い紙片を切って、遊びの呼び名を書いた。クリスは太い紐と細い紐を、今度は間違えずに左右へ分ける。見習いパドは腰掛けを一脚ずつ拭き、脚のぐらつきを確かめながら、木札を結ぶ位置を揃えた。
「物に付けるのは、本当の名」とレオンが言う。
「よぶのは、かみ」とクリスが続ける。
「返すときは木札を見る」と見習いパドが言った。
その言葉が並んだとき、やっと皆の手が同じ速さになった。
木札は腰掛けの後ろ脚へ。敷布の札は角の輪へ。紙札は小さな安全針の代わりに、糸輪へ通して袖口に掛ける。物の名と人の呼び名が、見た目からして別になった。
「ぼくはこれ」とレオンは自分の袖の紙札を見せた。『見はり隊長』。
「わたし、これ」とクリスは嬉しそうに笑う。『ちいさな風』。
「でも腰掛けは『クリス』だよ」とレオンが先に言った。
「うん。いす、クリス。わたし、ちいさな かぜ」
その言い直しが、今日いちばん大事なところだった。
昼の終わりには、腰掛け6つがきれいに並び、敷布の束も返し先ごとに分かれた。木札の列は静かで、紙札の列だけが少しだけ楽しそうに揺れている。
アストルがその並びを見て笑った。「遊ぶ名を消さなくて済んだのは、いい直し方だな」
「うん」とレオンは頷いた。「消すんじゃなくて、場所を変えればよかったんだ」
フィオナは木札の残りを小箱へ戻しながら思った。明日は月読み文庫の日だ。読む札そのものを、置く順番で迷わせないほうがいい。今日、名を分けたみたいに、明日は読む札と座る札を分ける日になるかもしれない。
帰り道、クリスは袖の紙札をゆらして歩いた。「わたし、ちいさな かぜ。でも ぬの、クリス」
「そう」とレオンが言う。「呼び名は遊んでもいい。でも、返す名はまっすぐじゃないと困る」
それを自分の口で言えたのが、今日のいちばんいいところだとフィオナは思った。春は、言葉まで軽くなりやすい。だからこそ、軽くしていい名と、軽くしてはいけない名を、先に分けておくのが大事なのだ。
梁の上でスノーが喉の奥で低く鳴り、札の揺れ方を見下ろした。「呼び名をくるりと返すのは遊びで済む。だが返し先の名までひっくり返すな――物が迷うと、町の手も迷うんだよ」




