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3月19日(木):響き分けの日

 とある世界では今日は『人の手で鳴らす音を、聞く人のために分けて整える』日。アルメリアでは『響き分けの日』として、戸口や掲示のそばで鳴る合図の音を、役目ごとに聞き分けやすく整える。急がせる音と、落ち着かせる音と、呼ぶだけの音を、同じ町の中で混ぜないための日だ。


 朝の一度だけの約束は、ちゃんと守られた。


 フィオナはパン屋の前まで一度だけ行き、昨日置いた板札の具合を見た。その帰り、ひつじ雲ベーカリーの戸鈴を軽く鳴らし、少し離れたところでルミナが星粒ほいくえんのおひるね音箱を試した。そこまではよかった。けれど春の湿りを含んだ空気の中では、二つの音が思ったより近く聞こえた。


「おなじ おとみたい」


 朝、クリスがそう言った。


 その一言が、夜まで残った。


 夕餉のあと、食卓の上には三つの包みが並んだ。ひつじ雲ベーカリーの戸鈴の予備鈴玉。家の戸鈴の内側で使う鈴玉。初等学舎の掲示板につける合図鈴の見本。どれも小さく、どれも手の中に収まる。けれど役目は、ちゃんと別でなければいけない。


「朝、どっちが先に鳴ったんだっけ」とレオンが言った。


 クリスがすぐ答える。「テオおにいちゃん、と、おかあさん。いっしょ」


 その言い方に、フィオナの手がほんの少しだけ止まった。ほんとうに、いっしょだった。戸鈴の紐に伸びた手と、板札の先で様子を見ていた自分の手が、一拍だけ同じところへ触れた。それだけのことなのに、ルミナは湯呑みを置きながら何も言わずに笑い、アストルは言いたそうな顔だけして黙っている。家族は音より先に、そういう空気を拾う。


「似て聞こえるなら、分け方が足りない」とグレゴールが言った。「春の湿りは高い音の角を丸くする。高さだけで分けると、近づく」


「じゃあ、役目で分ける」とフィオナは言った。「店は短く。家の中はやわらかく。学舎は一度で遠く」


 それで、今夜の仕事が決まった。


 ルミナは食卓の端へ厚い布を敷いた。金具を傷つけないためだ。アストルは細い目打ちと刷毛を並べ、三つの木皿へ札を立てる。『ぱんや』、『いえ』、『がくしゃ』。レオンは紙片を三枚切り、鳴らし方の札を書く役を買って出た。クリスは布の上へ並んだ鈴玉を、指先でそっと押していく。


「これ、かたい。これ、まるい」


「うん。そこが違いになる」とルミナが頷いた。


 最初に見たのは、ひつじ雲ベーカリーの戸鈴だった。外の鈴そのものではなく、厚い戸布の内側で音を受ける小さな鈴玉のほうだ。今の鈴玉は明るいが、湿りの夜には家の鈴玉と少し似る。


「長く残るんだな」とアストルが言う。「朝の忙しい店先なら、一息で分かるほうがいい」


 フィオナは頷き、紐の長さを見た。「鈴玉はそのまま。紐を半目だけ短くする。残りを切る」


 家の戸鈴の内側鈴玉は、逆だった。外からの来客を告げる音と混ざらないほうがいい。家族だけが分かれば足りる。


 グレゴールが小箱から古い木玉を一つ出した。「こっちは金気が立たん。丸く落ちる」


「家の中で呼ぶなら、それで十分ね」とルミナが受け取る。


 初等学舎の合図鈴は、鈴玉ではなく、小さな打ち板が当たる乾いた音だった。遠くへ通るかわりに、近くで鳴ると少し硬い。


「学舎は変えない」とフィオナは言った。「鳴り方じゃなく、回数を決める。一度だけ、で足りるようにする」


 レオンがすぐ顔を上げる。「それ、分かる。二回鳴ると、急ぐ音に聞こえる」


「そう。学舎は集めるけど、慌てさせない」


 戸鈴の小さな結び目をほどくとき、戸鈴が一度だけ鳴った。戸口の向こうではなく、もう家の中の音だ。


「ここ、押さえてもいいですか」


 声がして、みんなが振り向く。テオくんが戸口に立っていた。背負い袋の口を二回折り、手には小さな紙包みがある。


「店の奥に、予備の木玉がありました。朝の音、やっぱり近かったので」


 差し出された包みの中には、磨きすぎていない木玉が二つ入っていた。乾いた木肌で、指に残る感触がやわらかい。


「ちょうどよかった」とフィオナは言った。「家の鈴玉、木に替えようとしてたの」


 テオくんは食卓の皿を見て、小さく頷いた。「朝、一緒に鳴ってしまったので。あれ、分けたほうがいいと思って」


 その言葉だけで十分だった。朝の一度が、片方だけの気のせいじゃなかったことまで、ちゃんと残っている。


 フィオナは家の鈴玉の紐を外し、テオくんへ殻を渡した。「こっち、押さえてください」


「うん」


 指先が、殻の縁で一拍だけ触れた。すぐ離れたのに、その一拍をレオンは見逃さなかった顔をしたし、ルミナは湯呑みの縁へ視線を落として笑いを隠した。アストルは何も言わなかったが、黙り方があまりにも分かりやすかった。


 木玉を入れ、紐を結び直す。短すぎると鈴玉が遊ばない。長すぎると、戸布の揺れだけで勝手に鳴る。フィオナは一つ結んでは軽く揺らし、またほどく。アストルが横から見て、「あと半目」と言い、グレゴールが「急ぐな。音は先に結び目へ出る」と言う。


 クリスが真顔で聞いた。「むすぶと、おと、かわる?」


「かわるよ」とレオンが答える。「長いと、ながく鳴る。短いと、すぐ分かる」


「じゃあ、ぱんや、みじかい」


「うん。家は、まるい」


 その言葉が、今夜の札になった。


 レオンは紙片へ大きく書く。『ぱんや ひとつ みじかく』。『いえ まるく ひくく』。『がくしゃ いちどだけ』。文字は短い。朝の手が迷わない長さだ。


 試しに、三つを順に鳴らした。


 最初はパン屋。短く、明るい。焼き上がり前の忙しい手でも、一息で分かる音。


 次に家の鈴玉。高くはない。けれど角が立たず、台所の奥まで丸く届く。


 最後に学舎の合図鈴。乾いている。一度だけで、背筋が少し伸びる音。


「もう、おなじじゃない」とクリスが言った。


「うん。役目の顔になった」とルミナが頷く。


 テオくんはパン屋の札を見て、読み上げた。「『ひとつ みじかく』。これなら朝でも迷わない」


「試すのは一回だけです」とフィオナが言う。


「分かってます」


 短いやり取りなのに、今夜はそれで足りた。足りる言葉の量を、家族のだれも崩さない。むしろ、揃った三つの音を聞いたあとでは、黙っているほうが自然だった。


 最後に、フィオナは包みの表へ小さな印を足した。パン屋は短い横線。家は丸。学舎は縦の細線。目で見ても、触っても、鳴らしても分かるようにする。


「音って、見えないのに、置き方で分かるんだね」とレオンが言った。


「見えないから、置き方がいるの」とフィオナは答えた。


 包みをそれぞれの持ち手の前へ置く。パン屋のぶんは戸口寄り、家の鈴玉は台所の小棚、学舎の札はレオンの鞄のそば。春の湿りはまだ戸布の向こうに残っているけれど、家の中の手順は、今夜ぶんだけもう乾いていた。


 クリスが眠そうに目をこすりながら、小さく言う。「ぱんや、ちいさく。いえ、まるい。がくしゃ、いっかい」


「そう」とルミナが笑う。「それなら迷わない」


 食卓の灯りの下で、三つの合図はもう似た顔をしていなかった。同じ町の音でも、役目が違えば、鳴り方も違っていい。フィオナはその並びを見て、明日の朝に誰がどの音を聞いて動くのか、自然に想像できた。


 梁の上でスノーが、揃え直した包みと鳴らし方の札を見下ろして嘴を鳴らした。「良い音ってのは、上手いやつが鳴らす音じゃない。誰の手でも迷わず届く音だ――明日は数を増やすな、意味だけ通せ」


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