3月10日(火):備え糖の日
とある世界では今日は『甘い粉を、分けて、迷わない形で備える』日。 アルメリアでは『備え糖の日』として、湯屋の棚や灯路番所の休憩卓に、湯と一緒に口へ落とせる小袋の甘さを補う。甘いのは贅沢のためだけじゃない。息を戻すためにも、少しだけ要る。
夕方、フレイメル魔具修理店の戸鈴が鳴った。
フィオナは学舎の外套を脱ぎ、手を洗ってから工房へ戻った。雪解けの湿りに、マナ・ポーレンの甘い粉が混じる季節だ。粉は人の鼻にも、道具の当たりにも、薄く噛む。
作業机の端に、アストルが木箱を置いていた。蓋の札に一言だけ。『ぶんけき』。
「フィオナ。きょう、渡すはずだった」父は言葉を短くした。短いのは、焦っているときの癖だ。
「テオくんの?」
「湯屋と番所に備える糖の小袋。あいつの工房で量を揃えるのに、これが要る。俺が仕上げた。……だが、動きが変だ」
戸布が少し揺れ、甘い匂いが入り込んだ。
「こんばんは。テオくん、来ました」ルミナが台所から声をかける。
テオは袖をまくり、先に手を洗ってから工房へ入った。粉の匂いは、パンの粉じゃなくて、砂糖のほうが強い。
「すみません。受け取りに来ました」
アストルが箱を開ける。「これだ。分け器。取っ手を引けば、一定量が落ちる」
分け器は掌ほどの箱で、上に細かい網、下に滑り板、その先に小さな仕切りがある。取っ手を引くと、網の下の粒がほどけて落ち、仕切りで量が揃う。
テオが試しに取っ手を引いた。
最初は落ちた。次が止まった。もう一度引くと、塊が一気に落ちて、紙袋が膨れすぎた。
「……これだ」アストルが唇を噛む。「急いで締めた。湿りも拾った」
フィオナは匂いを嗅いだ。甘さの下に、湿った紙の匂いが混じっている。
「湿り。あと、当たり」
「直せますか」テオが言った。
「直す。夕のうちに」フィオナは言い切って、蓋の留め具を外した。
まず網。網目の裏に、白い粉が薄く貼りついている。粒は動かず、角だけが固い。
水は使わない。砂糖は溶けて、また固まる。
フィオナは刷毛で裏から払った。塊は指で潰さず、木べらで角を崩して紙の上へ落とす。粉は紙の上でほどけ、粒の音が戻る。
次に滑り板。端に白い膜ができ、その膜に粒が噛んでいた。板の当たりが片側だけ強い。強い当たりは、粉の居場所を作る。
フィオナは板を抜き、乾いた布で拭いた。削りすぎない。量が変わると、札が嘘になる。
「ここ、締めが偏ってる」フィオナはアストルへ示した。
アストルは目を逸らしてから、短く頷いた。「俺の急ぎだ」
「急ぎは悪くない。急ぐ前に、段取りを一つ足す」フィオナは言って、温石を布の上へ置いた。
温石は熱くしない。指が触れて温い程度。
網と滑り板をその上へ並べ、数を数える間だけ置く。湿りが抜けると、粉がさらさらになる。動きの音が軽くなる。
その間、レオンが居間から顔を出した。「ぼく、ふくろ、折る?」
クリスがその後ろで手を上げる。「わたしも。ちいさい、ふくろ」
「お願い」フィオナは頷いた。「指を濡らさない。角をそろえる」
ルミナが紙束を渡す。「角が揃うと、入れる人の手も迷わないわ」
テオも一緒に折り始めた。袋の口へ短い札を書く。『ゆや』『ばんしょ』。行き先だけ。
レオンが言う。「昨日の刻印札みたいだ。札が先にあると、走らない」
「走らないと、落とさない」テオが笑った。
網と滑り板が温まったころ、フィオナは組み戻した。留め具を締め、取っ手を引く。戻す。引く。戻す。
動きは止まらず、落ち方は同じ。
試しに砂糖を入れ、紙袋を一つ置く。取っ手を引くと、粒は一定の高さで落ち、袋が均一に膨らんだ。
テオが息を吐く。「同じだ……」
「同じにするのが、道具の仕事」フィオナは言った。
アストルが小さな布袋を出した。中身は乾いた豆の皮だ。
「箱の隅に入れろ。湿りを吸わせる」
フィオナは分け器の内側に札を貼った。『ふたを すぐ しめる』『はこは かげへ』。口で言うより、札で残す。
テオはその札を見て、少しだけ照れたように頷いた。
「……お礼、別で」テオが小声で言った。「明日、湯屋と番所に届けたあと。店に、砂糖菓子を置きます。家族分。逃げないように包んで」
「小さな約束ね」ルミナが笑った。
フィオナは返事の代わりに、札の角を指で揃えた。揃える手つきが、いちばん正直だ。
戸鈴が鳴って、テオが帰る。
机の上には、備え糖の小袋が整列していた。白い粉は散らばる前に分けられて、行き先の札も同じ向きを向いている。
梁の上でスノーが、箱の蓋と札の向きを見下ろして嘴を鳴らした。
「甘い粉は、湿りで固まる。固まる前に分けて、蓋を閉めろ――明日の灯は小さくても、手を戻す」




