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3月9日(月): 祝い刻印の日

 とある世界では今日は『小さな絵柄を角に添えて、便りの季節を祝う』日。 アルメリアでは『祝い刻印の日』として、伝言屋の窓口が、灯り文や封筒の角に小さな祝い刻印を押し、受け取る人の手が迷わないように印影を揃える。


 夕方、フレイメル魔具修理店の戸鈴が鳴った。


 フィオナは外套の肩をほどきながら、工房の机を拭く。学院から戻ったばかりで、指先にまだ粉っぽい空気が残っている。雪解けの湿りに、マナ・ポーレンの甘い粉が混じる季節だ。道具の軸にも、人の鼻にも、薄く噛む。


「おかえり」ルミナが台所から声をかけた。「今日は、便りが増える日でしょう。夕飯、少し遅くなっても大丈夫よ」


「うん。私、先に手を洗う」


 居間ではレオンが鞄の口を締め直していた。明日の札を作る癖がついている。 「お姉ちゃん、今日、先生が『便りは短くてもいい』って言ってた。ぼくも、短い札にする」


 クリスがそれを真似して白紙に丸を描く。「わたし、まる、かく。ことば、あと」


 そのとき、戸口の向こうで布の擦れる音がして、もう一度、戸鈴が鳴った。


 入ってきたのは、伝言屋の窓口係だった。両腕に抱えた木箱は、いつもより重そうで、蓋の端に赤い印影が二重に残っている。


「こんばんは。急で、すみません」窓口係は箱を机へ置き、息を整えた。「祝い刻印の刻印器が、ずれます。押すたびに、角が伸びて……戻りも遅いです」


 箱の中には掌ほどの刻印器があった。押し板、刻印板、底の布、そして側面の留め金。見た目は整っている。けれど、触ると分かる違和感がある。押し板が、ほんの少しだけ斜めに落ちる。


 窓口係が言った。「今朝、アストルさんが『新しい留め具にしておいた』って。粉が入りにくい形だって……でも、昼過ぎから、急に」


 アストルの仕事だ。納期の匂いがする。フィオナの胸の奥が、少しだけ早くなる。直せば間に合う。間に合わなければ、窓口の列が止まる。


「見せて」フィオナは言った。「試し刻印する紙、ある?」


 ルミナが控え帳の端紙を差し出す。フィオナは一度だけ押した。印は角で二重になり、右下が薄く伸びた。押し板を戻すと、戻りが半拍遅い。板の下面が布を引っかいている。


「原因を三つに分けます」フィオナは言った。「刻印板の座り、押し板の軸、留め具の当たり」


 窓口係が喉を鳴らす。「直りますか」


「直す。夕飯までに戻す」


 アストルが工房へ顔を出した。「おいおい、俺の新型か」苦笑いのまま、視線だけで状況を読む。「フィオナ、分解でいい。今日は押し数が多い。噛みは早い」


 フィオナは頷き、留め金を外した。刻印板の溝に、細かい粉が詰まっている。窓口の机の上で舞う紙粉と、外のマナ・ポーレンが混じったものだろう。さらに、溝の縁に薄い蝋の膜がある。封筒の口を留めた蝋紙の欠片が、いつの間にか擦れて移ったのかもしれない。


 刷毛で溝を払う。蝋は木べらでそっと起こし、蝋紙へ受ける。角を潰さない。溝は言葉の輪郭だ。潰せば、祝いも受け取りも滲む。


 次に押し板。軸の付け根へ指を当てると、片側だけ渋い。留め具の座が、ほんのわずか欠けている。欠けた側に粉が溜まり、押し板が傾く。傾けば、布の湿りも一方向へ押し出される。


「ピン、替える」フィオナが言うと、アストルが棚の小箱を引いた。「急ぎで合わせた仮ピンだ。太さが髪の毛分、違う」


 仮の太さは、数十回では黙る。百回で泣く。今日は、泣く日だ。


 フィオナは新しいピンを選び、軸の穴を布で拭ってから差し込んだ。締める前に、当たりを確かめる。押し板を上下に動かすと、引っかかりが消える。戻りが、素直になる。


 戸鈴が控えめに鳴った。鈴玉の音が細い。


「テオくん、来たわよ」ルミナが言った。「粉袋の布、持ってきてくれたって」


 粉の匂いと一緒に、テオが戸布をくぐった。袖をまくり、手を洗ってから工房の端へ立つ。目線が、分解中の刻印器へ落ちた。


「祝い刻印の日、ですよね」テオが言った。「伝言屋の前、列が長かった。印が止まると、みんなの手が止まります」


「止めない」フィオナは短く言って、言い切ったあとで少し照れた。「……今、戻りを直してる」


 テオは頷き、言葉を増やさずに机の端を支えた。フィオナが刻印器を組み戻し、留め具の当たりを左右で揃える。締めすぎると戻りが鈍る。緩いと傾く。真ん中を探すのは、手の感覚だ。


 最後に布。湿りが強いと印が流れる。乾きが強いと欠ける。フィオナは布を一度外し、乾き布に挟んで数を数える間だけ圧を置いた。仕上げに、温めの魔法をひと息。湯気を出さない。湿りの偏りだけを整える。


「試す」


 紙を置く。押す。戻す。


 印は一つの輪郭で立った。角が揃い、二重にならない。


 窓口係の肩が落ちる。「ありがとうございます……これなら、窓口が回ります」


 フィオナは紙の端へ短い札を書いた。『押す前に 溝を払う』『蝋紙は 箱へ』『布は 蓋をする』。道具の修理だけで終わらせない。運用の札で、次の噛みを遅らせる。


 窓口係は札を見て頷き、箱を抱え直した。「今夜、ここへも祝い刻印を一つ、押していいですか。お礼として」


「代金でいい」アストルが笑って言い、フィオナは小さく咳払いした。「……でも、ひとつだけなら」


 窓口係が控えめに押した印は、灯路石の小さな形だった。机の隅で淡く光るように見えて、フィオナは思わず指先を止めた。祝う印は、派手じゃなくていい。揃っていれば、それで届く。


 窓口係が帰り、戸布が落ち着くと、テオが布袋を机へ置いた。「粉袋用。目の詰まった布。入口に吊るすと、粉が少しだけ止まります」


「助かる」フィオナは言ってから、言い足したくなった。「……今日みたいな日は、特に」


 テオは短く笑う。「じゃあ、明日も。甘い匂いの方が、粉より手強い日です」


 フィオナは返事を飲み込み、代わりに布袋の口を揃えた。揃える手つきは、言葉より正直だ。


 梁の上でスノーが、羽を畳み、机の隅の灯路石の印と、刻印器の戻りの速さを見下ろして嘴を鳴らした。 「祝いの印は飾りじゃねえ。戻りが詰まれば、人の夜が詰まる――甘い匂いに浮かれる前に、軸を先に滑らせとけ」


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