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2月26日(木):紅滴庫開きの日

 とある世界では今日は『命をつなぐ赤い滴を、必要なときに使えるように蓄えて守る仕組みが始まった』日。アルメリアでは『紅滴庫開きの日』として、灯路番所の「助け箱」に入った紅滴瓶を数え、札を貼り替え、揺れと温度を確かめる。紅いものほど、急がせない。


 朝の台所で、レオンが鞄の紐を直しながら昨日の掲示札を思い出した。「灯路番所、回覧の刻限が早まるって書いてあった。あと、備品点検も」


「びひん、てんけん?」クリスが口当て布の上から目を丸くする。


 ルミナが頷いた。「助け鈴だけじゃなくてね、転んだり切ったりしたときのための道具もあるの。紅滴瓶も、その中のひとつ」


 梁の上でスノーが片目を細めた。 「赤い瓶は熱と揺れで機嫌が変わる。触るな、抱えるなら“胸の前”で止めろ」


「さわらない」クリスは言いながら、指を握った。触りたい気持ちを、指の中へしまうみたいに。


 昼、戸鈴が鳴った。灯路番所の備品係が、小さな木箱を抱えて立っていた。箱の継ぎ目には薄布が挟まれ、留め金は二重。見た目のわりに、扱いが慎重だ。


「紅滴瓶の携行箱です。点検の日でして……数を写したいんですが、泡が立つと刻印が読めなくなる」


 ルミナが受け取り、工房へ案内した。「泡は揺れの記憶。止めれば、勝手に引くよ」


「わたし、もつ」クリスが一歩出た。


「持つのは、端を押さえる役」ルミナがすぐ言って、箱の底を両手で支えさせた。「胸の前。歩幅は小さく。溝は濡れてるから」


 工房の床際には、雪解け水が引いた細い湿りが残っていた。そこへマナ・ポーレンが薄く沈んで、足が迷う匂いを作っている。


 クリスの足先が一度だけ遅れ、箱が腕の中で小さく揺れた。


 備品係の眉がきゅっと寄る。


 ルミナの手が背に添えられ、転びはしなかった。けれど揺れは、箱の中へ入ってしまった。


「……割れてない。でも、泡の顔になった」ルミナは落ち着いた声で言った。「大丈夫。今日は“戻す日”」


 蓋を一度だけ開ける。中には小瓶が4本、赤い滴が入っている。表面に細かな泡が集まり、底の刻印が霞んで見えた。


 クリスの喉が小さく鳴る。「ごめん」


「今は止める」ルミナが言う。「謝るのは、手が落ち着いてから」


 作業台の上に、薄い木枠が置かれた。瓶が倒れずに立てられる枠で、底にフェルトが貼ってある。揺れと音を吸う布だ。


「瓶は直接つかまない。手の熱が入る」ルミナはクリスの手を胸の前で重ねさせた。「押さえるのは、箱じゃなくて時間。時間を押さえる」


 砂時計が棚から降ろされた。砂が落ち始める。


 備品係は落ち着かない指先を膝へ戻し、代わりに箱の薄布を見た。「この布、夜の湿りを吸ってますね」


「湿りは揺れを呼ぶ」ルミナは布を外し、乾いた布へ替えた。濡れた布は別の紐へ吊るし、直風を当てない位置で乾かす。急がせると、また波打つ。


 そこへ、学舎帰りのレオンが工房を覗いた。「泡……?」


「揺れたら、こうなる」備品係が言う。


 レオンは声を落とした。「じゃあ、今日は掲示板と同じ。急ぐほど、読めなくなる」


 クリスは口当て布の下で息を吸って、ゆっくり吐いた。泡も、息も、速いほど増える気がした。


 砂が半分ほど落ちた頃、泡の粒は小さくなり、赤い面がなめらかに戻ってきた。底の刻印が、ちゃんと読める。


「いち、に、さん、よん」クリスが囁く。


 備品係がほっと息を吐いた。「これなら写せます。点検札も、新しくできる」


 最後の砂が落ち切るまで待ってから、ルミナは瓶を枠ごと箱へ戻した。揺らさない。蓋はすぐ閉めず、箱の中の冷たさと外の空気が喧嘩しないように、もう一度だけ時間を置く。


「今日は開くのは一回でいい」ルミナは言った。「あとは閉じたまま守る」


 夕方、箱を灯路番所へ届けると、掲示板の横で巡回担当が青い腕章を配っていた。明日の巡回訓練に使うらしい。


 レオンが足を止める。「明日、列の練習するの?」


 巡回担当が頷いた。「春前は足元が滑る。列が崩れると危ないからな」


 クリスは腕章の青を見上げ、口当て布の上から小さく言った。「あお、つよい」


 家へ戻る道で、クリスはさっきの揺れを思い出して、両手をきゅっと握った。守りたい気持ちが大きいほど、手が先に出る。でも、今日は手を止めて戻せた。


 梁の上でスノーが、砂時計を見下ろして嘴を鳴らした。


「助けたいなら、先に揺らすな。赤い滴は時間で澄む――止めて預けたぶんだけ、ちゃんと戻る」



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