2月18日(水):遠灯札の日
とある世界では今日は『いちばん遠い光に、名前を残して忘れない』日。 アルメリアでは『遠灯札の日』として、町外れの灯路石――いちばん遠い灯の札を点検し、番号と当番の線を引き直す。
夕方、フィオナは王立魔法学院分校の鞄とは別に、薄い木箱を抱えて帰ってきた。箱の中で紙が擦れる音がする。擦れは音にならないはずなのに、今日は耳に残った。
台所の小窓の当て布は、レオンの言うとおり、風に持ち上がらない。布の端は揃っていて、釘の頭が同じ高さで並んでいる。
「おかえり。……それ、なに?」 レオンが箱を見て、目を細めた。
「分校の道具。今日は冥王星の話が出た」
「めいおうせい?」 クリスが椅子によじ登り、首をかしげる。
ルミナが皿を拭きながら言った。 「遠い星の名前ね。今日、発見された日だって」
フィオナは頷いて、木箱の蓋を開けた。 中には円い紙が二枚、薄い透明板が一枚、そして中心を留める小さな留め具が入っている。
「星回し盤。空の上の“遠い点”を、回して覚えるやつ」
アストルが工房から顔を出した。 「回すなら、軸が肝だ。軸がずれれば、遠い点ほど外れる」
「ずれてる」 フィオナは短く言って、留め具を指先でつまんだ。
留め具の頭がわずかに潰れ、透明板の穴が楕円になっている。回すと板が引っかかり、紙の印が擦れて濁る。
「先生が、明日までに直したいって。班で使うから」
「持ち帰り許可、出たの?」 グレゴールが茶を置きながら尋ねる。
「出た。……私が言った。今日のうちに整えたいって」
言い方が少しだけ強かったのを思い出して、フィオナは目線を落とした。 分校の教室で、遠い点の名前が増えていくのが、今日は妙に落ち着かなかった。
レオンが箱の中を覗き込む。 「どこが悪いか、言語化できる?」
「中心の穴が広がってる。留め具が噛む。板が擦れて、印がにじむ」
「じゃあ、手順も言語化しよう」 レオンは自分の得意な形に話を寄せてくる。
フィオナは息を整え、順に並べた。 「1 ずれを測る。2 穴の周りを補強する。3 留め具を替えるか、当て物を入れる。4 回転の抵抗を揃える。5 印が擦れないか試す」
ルミナが頷く。 「まず乾かす。透明板、湿りでたわむことがある。火は強くしないでね」
フィオナは透明板を布で拭き、板と板の間に薄紙を挟んでから、まな板と本で挟んだ。重しは均等。角だけ重くしない。
次は穴。 楕円になった穴は、戻せない。戻す代わりに、穴の“周り”を補強する。 フィオナは紙の端切れを円く切り、穴の位置だけを合わせて重ねた。糊は少なめ。乾くまで待てる量。
「穴が二重になると、回りが硬くなる。紙が裂けにくい」 フィオナが言うと、クリスが机を指さした。
「にじゅう。つよい」
「そう。強くするのは、ここだけ」
アストルが小さな部品箱を持ってきた。 「留め具の座金なら、薄いのが一枚だけある。紙が擦れるなら、間を作れ」
座金は丸い金属片で、薄いのに指に冷たかった。
「ありがとう」
昨日貼った札の文句が、胸の奥でひそかに鳴った。――届いたら返す。
フィオナはもう一度だけ盤を眺め、言った。 「……できれば、もう一枚。上下に一枚ずつ入れたい」
アストルは肩をすくめる。 「薄いのはそれきりだ。似たのなら、ひつじ雲の方が持ってるかもしれん。窯の蝶番に使う」
ルミナが察したふうに布箱を寄せる。 「なら、届けるついでに、受け取ってくる? 前に言ってた、札の紙の厚み」
「……うん」
レオンが口を尖らせた。 「また、裏口?」
「裏口は、粉が入らないように整えた。だから行ける」
「理屈で来た。よし」 レオンが変に納得して椅子を引いた。
フィオナは星回し盤の部品を木箱に戻し、上に蝋紙を一枚かぶせた。紙が擦れないように、箱の角に布を当てる。手は急ぐけれど、結び目は急がない。
ひつじ雲ベーカリーの裏口は、約束どおり、少しだけ開いていた。けれど開きっぱなしではない。戸布が二重になり、入口は細く息をしている。
「フィオナ?」 テオくんの声がして、扉がもう少しだけ動いた。
「うん。お願いがある」 フィオナは木箱を抱え直した。
テオくんは作業台の端を空け、箱を置く場所を作る。 「それ、学校の?」
「分校の。星回し盤。中心の穴が傷んでる」
テオくんが覗き込む。 「回すやつなら、札の穴あけと似てるな。……目が細かい仕事」
フィオナは座金を一枚見せた。 「これ、もう一枚、分けてもらえる? 薄いの」
テオくんはすぐ引き出しを開け、同じ薄さの金属片を一枚、指で探り当てた。 「これでいい?」
「うん。助かる」
札袋は、作業台の横の釘に掛かっていた。赤糸の縫い目が見える。定位置だ。 フィオナの胸が、少しだけ軽くなる。
テオくんが言う。 「昨日の札、読んだ。……あれ、いい」
「……見えない場所に置いたのに」
「見えるよ。段取りは、見えなくても残る」
フィオナは返事を探しながら、星回し盤の穴に補強紙を重ね、座金を上下に一枚ずつ当てた。留め具を締める前に、紙と板の“滑り”を揃える。抵抗が片寄ると、回したときに歪む。
テオくんが濡らしすぎない布巾で台を拭き、言った。 「遠い星って、見えにくいのに、名前はちゃんとあるんだよな」
「遠いから、名前が要る」 フィオナは口を滑らせて、そこで止まった。
言いかけたのは、別の話だ。 遠い人にも、名前を置いておきたい、という話。
テオくんが視線を上げる。 「……なに?」
「ううん。分校の先生が、そう言っただけ」
嘘ではない。でも、足りない。
テオくんは追わずに頷いて、外の空を一瞬だけ見た。 「今夜、晴れそうだ。寒いけど」
フィオナは留め具を最後まで締めず、少しだけ緩みを残した。きついと紙が鳴く。
「回す?」 テオくんが言う。
フィオナは頷き、透明板をそっと押さえ、紙の円を回した。引っかからない。印は擦れない。中心がぶれず、遠い点ほど静かに位置が合う。
「……直った」
「直した」 テオくんが言い換える。
フィオナの頬が熱くなる。 「……直した」
帰り道、空の色が濃くなっていた。雪解け水の匂いは残っているのに、風は硬い。 家に着くと、レオンが玄関で待っていた。
「結果報告」
フィオナは木箱を掲げる。 「中心が戻った。印は擦れない。回転は揃った」
「よし。じゃあ最後は、遠い灯の札だ」 レオンは得意げに言った。
フィオナは台所の壁の板に、小さな札を一枚貼った。 『遠灯:中心を守る。回し盤:緩みを残す』
札の文字は大きくない。真ん中に静かに収まる。
窓の外で灯路石が点り始め、いちばん遠い灯も、遅れて小さく光った。
梁の上でスノーが片翼を畳み、目だけで遠い灯を追った。 「遠い名は近い手で守れる。言いかけた言葉も、今夜の空で一度冷えれば、明日ちゃんと形になる」




