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2月17日(火):囁き粉の札日

 とある世界では今日は『寒さが空に細い結晶を浮かべ、声にしない言葉だけが先に届く』日。 アルメリアでは『囁き粉の札日』として、灯路の明かりの周りに舞う白い粉を“耳で確かめ”、粉と粉を混ぜない段取りを整える日。


 夕方、分校からの帰り道で、フィオナは灯路の柱を見上げた。 灯の輪の中だけ、何かがきらきらしている。雪ではない。雪解け水の季節なのに、空気の端が一瞬だけ冬に戻ったみたいに、粉が舞っていた。


「……これが、“ささやき”」


 昨日、裏口で交わした約束が、言葉より先に思い出される。風の音が細くなると、耳が先に拾う――そんな話。


 家へ着くと、台所の小窓の当て布は、まだきれいに張ってあった。レオンが釘の頭を指先で確かめ、胸を張る。


「ほら。ぼくの止め方、きょうも勝ってる」


「うん。ありがとう。……当て布が浮かんでない」


 フィオナがそう言った瞬間、レオンの耳がぴくりと動く。


「いま、なんか言った?」


「言った。ありがとう」


 クリスが椅子によじ登り、窓の外を覗いた。 「わたし、きこえる。ひそひそ」


 ルミナが皿を並べながら笑う。 「今日は“天使の囁き”ってやつね。外が冷えて、空気が白くなる日」


 フィオナは、言い直さずにうなずいた。分校では別の呼び名もあるけれど、家の中では生活の言葉に訳したほうが落ち着く。


「囁き粉が舞うと、粉ものは困る」 グレゴールが湯気の立つ茶を置く。


 アストルが工房から顔を出した。 「粉? 工房に入ると、機械の歯がざらつくぞ」


「だから今日は、混ぜない日」 フィオナが言うと、レオンが首をかしげた。


「粉って、粉だろ。混ぜたら増えてお得じゃない?」


「増えても、風味がずれる」


 ルミナが即座に返し、クリスが真似して言う。 「味、かわる」


 フィオナは鞄を椅子に掛け、蝋紙の包みを机の端へ置いた。昨日の空図の写し。濡らさない段取りは守った。問題は今日の段取りだ。


 ――裏口、開けておきます。


 あの“開けておく”は、風に対しても、言葉に対しても、入口を作ることだ。 入口は、入ってほしいものだけを選べない。


 フィオナは息を整えて言った。 「私、ひつじ雲ベーカリーへ寄ってくる。……戸口の粉避け、作りたい」


「え。今から?」 レオンが身を乗り出す。


「夕方の粉が舞ってる。今日のうちに、混ざらないようにしないと」


 アストルが頷いた。 「静かな整頓だな。道具は貸す。針と糸、ここ」


 ルミナは、すぐに布箱を引き寄せた。 「余り布、細長いのがある。戸布の端を二重にするだけでも、粉は減るよ」


 グレゴールは、短札を一枚、無言でフィオナの前に滑らせた。硬めの札紙だ。


 フィオナは札紙を見て、胸の奥の線が揃うのを感じた。 粉避けの札。 そして、もう一つ――言葉を置く札。


「……ありがとう」


 今度は、誰にも隠さず言えた。


 ひつじ雲ベーカリーの裏手に回ると、戸布の隙間から灯が漏れていた。テオくんは、扉を少しだけ開けて待っていたらしい。冷気が細い筋になって、工房へ入りかけている。


「フィオナ。来てくれた」


「来た。……でも、今日は“入口”が危ない」


 フィオナが空を指すと、灯の輪の外側に白い粉が漂っていた。粉は軽く、さらさらと動き、扉の隙間へ吸い寄せられそうだ。


 テオくんが眉を上げる。 「これ、粉じゃない?」


「粉だけど、パンの粉とは違う。混ぜたら、舌が迷う」


 フィオナが家での言い方をそのまま借りると、テオくんは小さく笑って、すぐ真面目な顔になった。


「じゃあ、今日の段取りは“混ぜない”だ」


 作業台の上には、発酵中の生地が布をかぶって寝ている。横には、札と紐が入った小袋――昨日渡した札袋が、もう仕事場の定位置に置かれていた。 それだけで、フィオナの胸が少し軽い。


 テオくんが言う。 「裏口、開けて待ってた。……けど、開けると粉が入る」


「だから、開けたままにしない方法を作る」


 フィオナは布箱から細長い布を出し、戸布の内側に添えた。アストルの糸を借り、縫い目をまっすぐに走らせる。赤糸ではなく、今日は戸布に溶ける色。目立たせたいのは、布じゃない。


 テオくんは、その間に台の周りの粉を拭く。布巾を湿らせ過ぎない。湿りは別の粉を呼ぶから。


「フィオナ、こういうの、手が早い」


「早くしないと、夕方が終わる」


「夕方、終わってほしくないみたいに聞こえる」


 テオくんが言ってから、少しだけ咳払いをして、目を逸らした。 フィオナの耳が熱くなる。


「……段取りの話」


「うん。段取り」


 ふたりで戸布を二重にし、扉は“少しだけ開けられる”状態に整った。開けたら閉まる。閉めたら戻る。入口は作るけれど、開きっぱなしにしない。


 最後に、フィオナは短札に一行だけ書いた。


『入口:開けたら閉める。言葉:届いたら返す』


 札を戸口の内側に貼り、もう一枚の札を、そっと札袋の口に差し込む。見えない場所に、短い言葉の居場所を作る。


 テオくんが札袋を見て、ゆっくり言った。 「昨日の袋、助かってる。……それと、今日も」


「今日も、なに?」


「来てくれて」


 フィオナは、息を一つ落として答えた。 「私も。……開けてくれて」


 言えたのは、それだけ。けれど、それだけで、耳に残っていた“ひそひそ”が、ちゃんと言葉の形になった気がした。


 家へ戻ると、レオンが玄関で待ち構えていた。


「どうだった? 粉、勝てた?」


「勝った。混ぜなかった」


「ぼくも、窓の当て布、勝ってた」


「うん。今日は、みんな守れた」


 ルミナが台所から顔を出す。 「勝ち負けじゃなくて、整った日ね」


 フィオナは頷き、鞄の中の蝋紙包みをそっと押さえた。空図も、札も、言葉も、居場所があると落ち着く。


 外では灯路の輪がまたきらきらしていた。白い粉は、相変わらず静かに舞う。


 梁の上でスノーが片翼を畳み、窓の外を見下ろした。 「囁きは近いほど聞こえるとは限らん。遠いものほど静かに届く日もある。明日は“遠い星”の名前でも思い出しておけ」


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