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2月16日(月):空図読みの日

 とある世界では今日は『空の印を写し、線でまとめて、遠い人へ渡す』日。 アルメリアでは『空図読みの日』として、灯路番所の掲示板を写し取り、夜の灯路の段取りを整える。


 夕方、台所の小窓に当て布をした部分だけ、風が少しだけ通った。昨日、レオンが縫い直した縫い目がほどけず、布は呼吸みたいに小さく震える。風は冷たいのに、匂いが冬とは違う。雪がほどけた水の匂いに、見えない粉――マナ・ポーレンが混じっている。


 フィオナは分校の鞄を抱えたまま、玄関で立ち止まった。鞄の中の紙が、さっきから妙に重い。今日の課題は「空の印を写して、線を引く」。分校ではそれを天気図と呼ぶ。けれど灯路の町では、もっと生活の言葉で「空図」だ。


「ただいま」


「おかえり、フィオナ。靴、濡れてる。雪解け水、今日は太いよ」 台所からルミナの声が飛ぶ。


 アストルは工房の戸布を少しだけ持ち上げ、外気を嗅いだ。 「北から東に回った。線を読む日だな」


 レオンが椅子を引きながら首をかしげる。 「線って、空の?」


「空の線。読めないと、夜の灯路が困る」


 クリスが椅子に膝をつき、昨日の当て布を指でつまんだ。 「ふわふわ。ほどけない?」


「ほどけない。昨日、守ったから」 レオンが胸を張る。


 グレゴールが薬草茶を運びながら、フィオナの鞄を目だけで見た。 「番所の掲示板は、もう貼り替わっておる頃だ。初めて空図を作った日の話も、古い記録に残る」


 フィオナは鞄を机の端に置き、羊皮紙をそっと取り出した。町の輪郭が簡単に描かれ、印はまだ疎らで、線は引きかけだ。分校で写したのは途中までで、仕上げは自分で観察して補う必要がある。


 ――観察。補う。印を揃える。


 それだけなら、いつもの段取りでできる。 問題は、同じ鞄の奥に、もうひとつ、薄い布袋が入っていることだった。


 赤い糸の縫い目が一本、目印みたいに走っている。


 札袋。 札と紐を濡れと粉から守るための、小さな居場所。昨夜、工房の隅で布を裁って縫った。縫い目を指で押さえ、赤糸がまっすぐになるまで何度も撫でた。


「お姉ちゃん、きょう、わたす?」 クリスの声が突然近い。


 フィオナは反射で札袋を鞄の口へ押し戻した。 「……なにを?」


 クリスは口をすぼめる。 「ころころ、じゃない。ちいさいの」


 レオンがわざと意味ありげに言う。 「段取りが増えてる顔だ」


「課題。段取りは、紙のため」 言い切ったつもりなのに、頬が熱い。


 ルミナが鍋の蓋を静かに閉めた。 「課題なら、まず手を洗って。紙は濡れに弱い。今日は特に」


 フィオナは手を洗い、布で指の間まで拭いてから、羊皮紙を巻いた。 濡れないように蝋紙で包み、紐で2回だけ軽く結ぶ。結び目は外側。ほどけやすい形。急いでいる日に、急がない結び。


「灯路番所、行ってくる。掲示板の写しが要る」


 アストルが頷く。 「石畳は滑る。溝の水は避けろ。マッド・スライドは入口から来る」


 レオンが立ち上がった。 「ぼく、ついてく?」


 フィオナは迷って、首を振った。 「今日はいい。昨日の当て布、もう一回だけ見てて。風が変わったから」


「了解。見張り役、任せて」 レオンが言う。


 灯路番所までは徒歩で7分ほど。石畳の端を選び、湿りの薄いところを踏む。溝を跨ぐときだけ歩幅を小さくする。鞄の中の紙が揺れないように、胸に寄せた。


 番所の明かりは、夜ほど強くない。掲示板には新しい紙が貼られていた。 町の輪郭と、丸印。風向きを示す矢羽。湿りの札の小さな切り欠き。


 フィオナは指で触れない距離で目だけを走らせ、同じ位置に印を写した。濡れのせいか、掲示板の端の一つだけ線が薄い。消えかけた墨を追うために、息を止める。


 解析眼が勝手に働きそうになるのを、フィオナは止めた。 魔法で答えを引き抜けば、手が雑になる。


「薄いなら、薄いなりに読む」


 目線を少し斜めにずらし、光の当たりで凹みを拾う。印は、そこに残っていた。


 写し終えた紙を蝋紙に戻し、紐を結び直す。結び目の端を短く整えた。余分が長いと、泥が噛む。


 帰り道、風が少し強くなる。胸の包みを押さえる指に力が入る。 角を曲がったところで、甘い匂いが流れてきた。ひつじ雲ベーカリー。焼き上げの名残が、冷気を少しだけ丸める。


 フィオナの足が止まった。 鞄の底の札袋が、重さを増したみたいに感じる。


(渡すなら、今日。濡れないうちに。言葉が逃げないうちに)


 店先へ行けば、戸鈴が鳴る。家族の耳に届く距離だ。 フィオナは裏手へ回り、戸布の端に隠れた小さな鈴玉を指で一度だけ鳴らした。


 すぐに足音がして、テオが顔を出した。粉の匂いと、火の匂い。 「……フィオナ。こんな時間に。寒くない?」


「寒いけど、紙は濡れてない」 フィオナは蝋紙の包みを軽く持ち上げて見せ、それから鞄の口を探った。


 赤い縫い目の札袋が、夕方の光でやけに目立つ。


 テオの目が札袋からフィオナの顔へ戻る。口元が少しだけ上がった。


「それ、作ってくれたんだ」


 フィオナは息を一つ入れて、差し出した。 「札と紐。粉と雪解け水で、すぐ迷子になるって言ってたから。居場所を作った」


 テオは受け取って、掌で布をならした。赤糸が指の間でまっすぐになる。


「助かります。ほんとに、よく迷子になるんで」


「迷子になるのは、紐のせいじゃないと思う」


 テオが笑いそうになって、真面目な顔で頷いた。 「段取りのせい?」


「段取りのせいにしておけば、直せるから」


 短い沈黙が落ちる。風が裏口の軒を鳴らした。


 テオがふと、蝋紙の包みの方へ視線を向ける。 「空図?」


「うん。今日は空の線を紙に落とす日。夜の灯路が曇ると困るから」


「線って、不思議ですよね。近づいたり、離れたりしてるのに、ちゃんと一つの形になる」


 フィオナは返事に迷い、包みを抱え直した。 「……明日、風の音が細いらしい。耳で聞けるくらい」


 テオが眉を上げる。 「じゃあ、明日も掲示板?」


「たぶん。課題、まだ続く」


「なら朝。焼き上がりの前に。裏口、開けておきます」


 その言い方は仕事の段取りのままなのに、開けておく、の一言だけが鍵みたいに胸に残った。


 フィオナは小さく言う。 「……約束?」


 テオは頷いた。 「約束。線が変わっても、ここは開けておく」


 フィオナはやっと息を吐いて、頭を下げた。 「ありがとう。じゃあ、明日」


 家へ戻ると、レオンが台所の小窓を見上げていた。 「当て布、ほどけてない。風が強くても、持ち上がらない」


「よかった」 フィオナは蝋紙の包みを胸に当てたまま言う。


 ルミナが皿を並べながら、目だけでフィオナの鞄を見た。 「外の段取りも、中の段取りも、ちゃんと守れた?」


「守った。濡らさなかった。渡す順も、決めた」


 夕食のあと、フィオナは台所の壁の板に、今日の空図をピンで留めた。丸印の位置は揃っている。線は、印を避けながら静かに回り込んでいる。 隣に短札を1枚貼る。『今日の段取り:濡らさない』


 小窓の当て布が、夜の風で小さく震えた。音は細い糸みたいに伸びる。 耳を澄ますと、言葉の前の息遣いみたいにも聞こえた。


 梁の上でスノーが片翼を畳んだまま、鼻で笑うように嘴を鳴らした。 「空を写せたなら上出来だ。明日は耳を乾かしておけ、風が言葉を置いていくぞ」

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