↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
254/269

9月4日(金):古曲ひびきの日

 とある世界では今日は、長く親しまれてきた音楽に耳を傾ける日。アルメリアでは『古曲ひびきの日』として、昔から伝わる短い節を一つ選び、音を大きくする前に、鳴らす場所と聞く場所で響きがどう変わるかを楽しむ日だった。


 学院、学舎、園から戻った三人の荷物がそれぞれの場所へ収まり、夕食の片づけが終わるころ、フレイメル家の工房にはまだ昼の熱が薄く残っていた。


 西側の部品棚は夏位置のまま。入口の夏換気札も四行のままだ。今夜の風に合わせた開け方も変えない。


 グレゴールが地下室から上がってきたとき、抱えていたのは細長い木箱だった。


「今日は音だ」


 アストルが眉を上げる。


「父さん、その言い方は少し不安になるな」


「古曲ひびきの日に、音を比べずどうする」


 蓋の中には、四枚の薄い金属舌と小さな巻き胴、それから三本の銀糸が張られていた。


 フィオナが覗き込む。


「楽器?」


「半分はな。昔、地下の石室で音の返り方を比べた『返り音箱』だ。巻き胴を一度回すと、同じ四音を同じ間で鳴らす」


「もう半分は?」


「返ってきた揺れを銀糸が拾う」


 レオンが聞いた。


「いい音かどうかも分かる?」


「分からん」


「上手かどうかは?」


「それも分からん」


 クリスが笑った。


「きくけど、ほめない」


「そういう道具だ」


 昨日、便利な道具には任せる範囲があると確かめたばかりだ。今日は音箱に、音楽の良し悪しまで決めさせない。


 アストルが工房中央の卓を空け、箱の下へ薄い当て布を敷いた。周囲の金属部品は作業皿ごと棚へ寄せる。別の物まで共鳴して条件が増えないようにするためだ。


 聞く場所も決めた。


 レオンは卓から三歩。フィオナはその横。クリスとルミナはさらに一歩後ろ。グレゴールが巻き胴を一度だけ回す。


 こん、りん、こん、りん。


 四つの音が同じ間で鳴った。


 三本の銀糸が少し揺れ、止まる。


「わたしには、まるいおと」


 クリスが両手で小さな輪を作った。


「そう見えるんだね」


 フィオナが頷く。


「でも、まず聞こえたものは別に比べよう」


 次は、部品棚とは反対側の板壁寄りへ箱だけを移した。通り道は塞がず、当て布も箱の向きも同じ。聞く人の位置は動かさない。


 もう一度。


 こん、りん、こん、りん。


 最後の二音に、薄い返りが重なった。


 レオンが首を傾げる。


「一回なのに、後ろでもう一回鳴ったみたい」


 クリスも耳を澄ませる。


「わたしには、おとのしっぽ、ふたつ。でも、これだけできめない」


 三本の銀糸は、中央のときより長く揺れている。


「じゃあ、板壁の近くがいちばんよく響く?」


 レオンは口にしてから、自分で続けた。


「……いや、箱の場所しか変えてない。『響く』と『聞きやすい』も同じか分からない」


「うん」


 フィオナが笑う。


 今度は箱を板壁寄りのまま固定し、聞く人だけ動く。


 レオンが一歩右。


 フィオナが一歩後ろ。


 クリスとルミナはそのまま。


 鳴らして、戻す。


 次は箱を中央へ戻し、聞く位置だけ同じ順に変える。


 四音そのものは同じなのに、言葉で表すと違った。


 中央では一音ずつ分かれやすい。


 板壁寄りでは後ろへ柔らかく重なる。


 少し離れると、返りは薄い。


「場所が変わると、同じ音でも聞こえ方が変わる」


 レオンが言う。


 グレゴールは銀糸を見たまま、眉を寄せた。


「ただし、これは少し長すぎるな」


 板壁から中央へ戻したあとも、三本のうち一本だけが細かく震えていた。


 フィオナが聞く。


「部屋の響きじゃなくて、箱のほう?」


「その仮説は立つ。だが、もう一度だ」


 中央の同じ位置。


 聞く人も最初と同じ位置。


 同じ四音。


 やはり一本だけ、ほかの二本より長く残る。


 そこで初めて、グレゴールが頷いた。


「箱側の余韻が混じっている」


 魔法を切り、巻き胴が完全に止まったことを確かめる。


 アストルが留め具を外した。子どもたちは手を出さず、盤の外から見る。


 蓋の内側には、細い木板が一枚、銀糸の後ろへ差し込まれていた。


 グレゴールが「あ」と言った。


「余韻留め板だ」


「忘れてたな、父さん」


「……忘れていた」


 返り音箱は、地下の広い石室で小さな反響を聞き逃さないため、返ってきた揺れを少し長く残す仕組みを持っていた。


 家の工房では、その設定が次の音まで余韻を抱え込みやすい。


「外せば終わり?」


 レオンが聞く。


 フィオナが首を振る。


「外したあと、箱の余計な揺れと、本当に部屋から返った音を分けて確かめる」


 アストルが余韻留め板を抜き、向きを変えず部品皿へ置く。銀糸の溝には細かな乾き埃が少しあったので、乾いた刷毛で木枠だけを払う。銀糸そのものには触れない。


 組み直して、まず中央。


 こん、りん、こん、りん。


 前より早く三本が止まった。


 次に板壁寄り。


 薄い返りは残る。


 それは消えない。


「壁から返ってるぶんだね」


 レオンが言った。


「そう考えてよさそう」


 フィオナが答える。


 ただ、中央へ戻してもう一度鳴らすと、同じ一本だけがまだわずかに遅れて震えた。


 板を外しても残る。


 位置を戻しても残る。


 二度同じ。


 アストルが箱を止め、銀糸の留め具、たるみ、傷を目で確かめる。外れも緩みもない。


「物の壊れは見当たらない」


 グレゴールはそこでようやく指先を近づけた。


「ならば、長く余韻を拾わせていた一本に、揺れだけが残っているという仮説で試せる。整える場所はここだ」


 箱は中央。


 当て布も同じ。


 余韻留め板は外したまま。


 先に物理条件を揃えてから、グレゴールが遅れていた一本へごく弱い整えの魔法をかける。


 光は音を美しくしない。


 板壁の反響も消さない。


 一本だけ遅れていた細かな震えを、ほかの二本と同じ静けさへ戻すだけだ。


 光を収め、少し待つ。


 それから再試験。


 中央で一回。


 板壁寄りで一回。


 もう一度中央で一回。


 銀糸は、その場所から返ってきたぶんだけ揺れて止まった。


「直した、じゃなくて、余計な揺れを静かにした?」


 レオンが聞く。


「そうだ」


 グレゴールが答える。


「場所の違いまで消したら、これは観察道具ではなくなる」


 最後に三人は、それぞれ好きな聞き場所を一つ選んだ。


 レオンは中央。


「一音ずつ分かるほうが好き」


 フィオナは板壁から少し離れたところ。


「少しだけ重なるのがきれい」


 クリスは中央と板壁寄りを行ったり来たりせず、最初に決めた場所から指をさす。


「わたしは、ここ。おとのしっぽ、ひとつと、ちょっと」


「それは聞こえたこと?」


 フィオナが聞く。


 クリスは少し考えた。


「わたしには、そうみえる。きこえるのは、フィオ姉ちゃんともういっかいくらべる」


「うん。それでいいよ」


 片づけでは、余韻留め板を捨てず、返り音箱の別溝へ収納した。


 蓋の内側には一行だけ。


『家内では余韻留め板を外して比較。響きの良し悪しは箱が決めない。』


 家の新しい札は増やさない。


 返り音箱は地下室へ戻り、工房にはいつもの夜が戻った。


 九月四日でも、壁にはまだ夏の熱が残っている。外から入る風だけが、昼より少し軽い。


 レオンは最後の木片を拾いながら言った。


「同じ音でも、場所が違えば聞こえ方が変わる。でも、違うから間違いじゃないんだな」


 ルミナが頷いた。


「聞いた人が、何を心地よいと思ったかも残していいのよ」


 梁の上でスノーが、回収された木片へ首を傾け、羽先を一度だけ揃えた。


「響く場所と聞きやすい場所を一緒にするな。いい音ってのは、置き場と耳の両方で変わる――明日は『よくやった』って言う前に、誰が何をやったのか見てやれ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。