6月11日(木):傘骨そろえの日
とある世界では今日は『雨の季節に備え、傘を手に取る前に開き方としまい方を見直す』日。アルメリアでは『傘骨そろえの日』として、濡れる前の傘、濡れたあとの傘、誰かに貸す傘を分け、開く前に骨を数える日。
木曜の夕方、フィオナは王立魔法学院分校の課題札を鞄に入れた。今日の札には、『傘は雨を避ける道具である前に、人の頭上を預かる道具』と書かれていた。
その下に、先生の補足がある。
『傘を開く前に骨を数えること。濡れた傘は閉じた姿だけで判断しないこと。貸し傘は持ち主札と戻し札を分けること。』
フィオナは最後の行で少し止まった。持ち主札と戻し札。昨日の時札と同じだ。いまの役目を見ないまま、一つの名前で呼ぶと、道具はすぐ迷う。
校門を出ると、細い雨が落ちていた。強い雨ではない。けれど、石畳の目地を濡らし、灯路の光がまだ始まる前の灰色を少し深くしている。
今日は、ひつじ雲ベーカリーへ寄らない。そう決めていた。約束を増やすより、昨日まで増えた札を乾かす日だ。けれど鞄の中には、薄い端材が数枚入っている。先日、テオが家の問答錠にも使えると思って渡してくれた板だ。
持っているだけで、少し背筋が伸びる。
家に戻ると、玄関の傘立ての前でレオンがしゃがみ込んでいた。初等学舎の鞄を下ろしたまま、古い黒い雨傘を半分だけ開こうとしている。
「待って」
フィオナの声が先に出た。
レオンは手を止めた。「え、まだ開いてないよ。半分だけ」
「半分でも、骨は動いてる」
レオンは黒い傘を見下ろし、少し真面目な顔になった。「今日、傘の日だから、点検しようと思った。ぼく、雨の日のヒーローは足元だけじゃなくて頭上も守るべきだと思って」
「発想はいい」フィオナは靴を脱ぎ、傘立ての前に膝をついた。「でも、先に数える」
クリスが居間から走りかけて、ルミナに止められた。「走らない。玄関は濡れているわ」
「わたし、かさ、みる。ほね、ある?」
「ある」フィオナは笑いそうになった。「傘にも骨がある」
アストルが工房から顔を出す。「骨の話か。壊れてるなら父さんの出番だな」
「壊す前なら、私の出番」フィオナは言い、黒い傘の留め紐を見た。
濡れてはいない。けれど、紐が少しねじれている。傘立ての底には、乾ききらない砂が薄く残っていた。昨日の雨と今日の雨で、誰かの傘から落ちたものだろう。
フィオナは課題札を玄関小棚に置き、紙を三枚切った。
一枚目に『開く前』。二枚目に『濡れたあと』。三枚目に『貸すとき』。
「今日の傘立ては、この三つに分ける」
レオンが頷いた。「開く前は、骨を数える。濡れたあとは、干す。貸すときは、戻す場所を書く」
「そう」
クリスは自分の小さな黄色い雨傘を持ってきた。「わたしの、ちいさい。ほね、ちいさい」
「じゃあ、クリスのは一緒に数える」
ルミナが乾いた布を渡した。「床は私が拭くわ。傘はお願い」
フィオナは黒い傘を、まだ開かずに寝かせた。まず留め紐をほどき、布で持ち手を拭く。次に、先端の石突きの周りを見た。小さな砂粒が一つ、骨の根元へ入り込んでいる。
「これ、引っかかり」
「そんな小さいのが?」レオンが覗き込む。
「小さいから、入る」
フィオナは短い刷毛で骨口を外へ掃いた。砂を押し込まない。鍵口や滴り口と同じだ。入口にあるものは、奥へ入れる前に外へ出す。
アストルが腕を組んだ。「最近のフィオナは、入口に厳しいな」
「入口で間違えると、奥で直しにくいから」
「名言だ」
「からかわないで」
言いながら、フィオナは少しだけ頬が熱くなった。入口という言葉が、店の流し横や控え箱の鍵口まで連れてきてしまう。彼女は鞄から端材を取り出し、傘札にするため小さく切った。
レオンはそれを見て、目を細めた。「それ、テオ兄の店の板?」
「端材。道具用」
「ふうん」
「何」
「何も。ぼく、骨を数える係する」
レオンは素直に黒い傘へ目を戻した。その素直さが、かえってありがたい。
フィオナは傘を少しだけ開いた。いきなり広げない。半開きよりさらに手前、骨が互いに離れるところで止める。一本、二本、三本。レオンが声に出して数え、クリスも追いかける。
「よん。ご。ろく。……なな?」
「八本」フィオナが言った。「一本、布の影に隠れてる」
隠れていた骨は、先が内側へ少し寄っていた。折れてはいない。ただ、布の縫い目に引っかかり、開くときに遅れる形になっている。
「これを力で開くと、布が引っ張られる」フィオナは骨の先を指した。「今日は戻すだけ」
アストルが細い木べらを持ってきた。「金具は使うなよ。布に跡が残る」
「分かってる」
フィオナは木べらで布をほんの少し浮かせ、骨の先を正しい溝へ戻した。レオンが傘の持ち手をまっすぐ支える。クリスは黄色い傘を胸に抱え、「まっすぐ」と小さく唱えていた。
黒い傘をもう一度、半分だけ開く。
今度は八本の骨が、同じ間隔で広がった。
「よし」レオンが息を吐いた。「開いていい?」
「まだ。干し場所を先に決める」
「濡れてないのに?」
「濡れてなくても、点検した傘は置き場所が変わる。元に戻す前に、何をした傘か分かる札がいる」
フィオナは端材に小さく書いた。
『点検済み。骨八本。濡れたら干し棚へ。』
黒い傘には切り欠き札。クリスの黄色い傘には丸い札。ルミナの深緑の傘には細い紐札。アストルの作業用雨外套には、傘ではないので『外套』の札を付ける。
「お父さんのは傘じゃない」クリスが言った。
「そう。だから傘立てに入れない」
「まちがうと、かさ、ぎゅうぎゅう」
「その通り」
ルミナが濡れた床を拭きながら笑った。「クリス、今日はよく見ているわね」
「わたし、ほね、みた。かさのなか、てんとみたい」
フィオナは黄色い傘を開く前に、クリスと一緒に骨を数えた。小さな傘は六本。一本の先に糸のほつれがある。切らずに、糸を布の裏へ戻し、結び目を小さく押さえる。ルミナが針箱を出しかけたが、フィオナは首を振った。
「今日は縫わなくていい。濡れた後で布が縮むか見る」
「待つのね」
「待つ」
その言葉が、昨日から家の中に少しずつ増えている。問答錠の横の待つ札。刻水盤の水位。滴り瓶の一滴。今日は傘の骨だ。
夕食前、玄関の傘立ては、いつもより静かに見えた。傘が減ったわけではない。名前が増えただけだ。開く前、濡れた後、貸すとき。三つに分けたことで、一本ずつの居場所が見えている。
レオンは黒い傘の切り欠き札を指でなぞった。「ぼく、明日から開く前に数える。ヒーローは、広げる前に守る範囲を知る」
「いい言い方」フィオナが言うと、レオンは胸を張った。
クリスは黄色い傘を小棚へ戻しながら、「わたし、ろっぽん。おぼえた」と言った。
アストルは自分の雨外套を傘立てに入れようとして、家族全員に見られた。
「……外套棚だな」
「うん」フィオナとレオンが同時に言い、ルミナが吹き出した。
夜、フィオナは帳面に今日の三行を書いた。
『開く前に骨を数える。濡れた後の置き場を先に決める。借りるものは、戻る場所まで札にする。』
その下へ、端材の残りを一枚挟む。薄くて軽い板なのに、持つと不思議に落ち着く。誰がくれたかを言わなくても、道具はちゃんと今日の仕事をした。
窓の外で、雨がまた細くなった。明日は二枚の絵札を並べる日になる。近づけすぎても読めず、離しすぎても意味がほどける。たぶん、同じ紐で結ぶ前に、間を見る日だ。
梁の上で、スノーが傘立ての札を見下ろし、羽を寄せた。「傘は開けば守れるってもんじゃねえ。骨を数えて、戻る場所まで決めろ。……明日は二枚の札を、同じ紐で縛る前に間を見ろ」




