まだ知らないひと、に会うために
ホテルへ到着すると、既にロビーには何人もの芸妓達が集まっていた。
華やかな着物。
揺れる簪。
甘い香の匂い。
置き屋ごとに、自然と輪が出来ている。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶が飛び交う中、さゆりはユリの後ろを小さくついて歩いた。
他の置き屋の姉さん達が、ちらりと新人を見る。
だが、ユリは迷わない。
真っ直ぐ、今日の宴席リーダーの元へ向かった。
「ちはや姉さん、この間はありがとうございました」
静かな声。
「今日はよろしくお願いします」
“ちはや姉さん”と呼ばれた女性が、ふっと笑う。
「はい、よろしく」
ちはや姉さんが、軽く頷く。
「後ろの子は?」
「さゆりです。今日からですので、よろしくお願いします」
ユリが答える。
「そう…」
ちはや姉さんは、一度だけさゆりを見る。
「頑張んなさい」
それだけ言うと、もう興味を失ったように、隣の姉さんとの会話へ戻っていった。
さゆりは、少しだけ瞬きをする。
もっと何か、聞かれると思っていた。
だが、そんな暇も無いらしい。
その後も、同じような挨拶が続いた。
「新人?」
「頑張ってね」
「若いわねぇ」
短い会話。
名前だけ覚えられて、流れていく。
気づけば、ロビーの空気が少しずつ変わり始めていた。
時計を見る。
宴会開始、五分前。
すると、それまで談笑していた芸妓達が、一斉に動き出した。
裾を捌き。簪を揺らし。
迷いなく、それぞれの宴席へ向かっていく。
さゆりは、その流れに飲まれそうになりながら慌ててユリの後ろを追いかけた。
気づけば、芸妓達が自然と列を作り始めていた。
だが、何の順番なのか、さゆりには分からない。
きょろきょろと周囲を見ていると、
「これ、箱根に来た順番に適当に並ぶの」
知らない姉さんが、小声で教えてくれた。
「えっ、そうなんですか?」
「そうそう。新人ちゃんは一番後ろね」
「他の姉さん達の真似してれば大丈夫」
「あ、ありがとうございます」
慌てて頭を下げる。
芸妓達は、慣れた様子で位置につく。
誰も指示はしない。
なのに、自然と順番が決まっていく。
不思議な空気だった。
その中で、ユリ姉さんは列の真ん中辺りへ静かに並んでいた。
前過ぎず、後ろ過ぎず。
気づけば、そこに居る。
そんな位置。
さゆりは、その背中を目で追いながら慌てて列の最後尾へ並んだ。
やがて、時間になった。
先頭のちはや姉さんが、静かに襖へ手を掛ける。
空気が、すっと張り詰めた。
音を立てず、襖が開かれる。
一斉に視線が集まった。
ずらりと並ぶ芸妓達。
着物の色
簪
香の匂い
それまで賑やかだった宴席が、一瞬だけ静まる。
先頭に立った、今日のリーダーが一歩前へ出た。
「本日は箱根湯本にお越しいただき、ありがとうございます」
滑らかな口上。
慣れた声。
さゆりは、後ろから必死に真似をする。
頭を下げる角度。
手の位置。
裾捌き。
全部、周りを盗み見ながら合わせた。
口上が終わると、芸妓達は一斉に散った。
自然な動きだった。
誰も迷わない。
誰も立ち止まらない。
それぞれが、空いた席へ滑り込むように座っていく。
酒を注ぎ。
笑い。
空気を読む。
さゆりだけが、立ち尽くしていた。
——どこに座ればいいの?
視線だけが忙しく動く。
すると、
「貴女は末席」
誰かが、小さく囁いた。
振り返っても、誰が言ったのか分からない。
「一番下座ね」
別の姉さんが、さり気なく視線で示してくれる。
「あ……はい」
慌てて頭を下げ、さゆりは一番端の席へ滑り込んだ。
座る角度すら分からず、周囲を盗み見る。
盃の持ち方
膝の向き
姿勢
全部真似するしかない。
心臓だけが、うるさいくらい鳴っていた。
席へ着くと、あちらこちらからビール瓶の蓋を開ける音が響き始めた。
カシュ。
パキッ。
姉さん達は、慣れた手付きで次々と栓を抜いていく。
その流れに合わせるように、さゆりも一本手に取った。
そして、栓抜きを渡される。
だが……
——どう使うの?
さゆりは、思わず固まった。
金具を、瓶へ当ててみる。
違う。
横?
上?
どこにどう引っ掛けるのか、分からない。
右往左往していると、向かいのお客さんが吹き出した。
「姉さん、初めて?」
「あ……っ」
顔が熱くなる。
「す、すみません。上手く開けられなくて……」
慌てて謝ると、周囲から小さく笑い声が起きた。
馬鹿にした感じではない。
「新人さんか」
「可愛いねぇ」
「貸してごらん」
お客さんが、さゆりの手から瓶を受け取る。
「ここに引っ掛けて、こう」
パキッ。
一瞬で開いた。
「おぉ……」
思わず感嘆の声が漏れる。
「ありがとうございます!」
「いいよいいよ。最初は皆分かんないから」
さゆりは、何度も頭を下げた。
少し離れた席に居たユリが、静かにこちらを見ていた。
新人のさゆりは、今日は、二時間だけ。
そう事前に決められていた。
宴席が一段落した頃。
「さゆりちゃん、今日はここまでね」
ユリ姉さんが、小さく声を掛ける。
「あ、はい」
まだ何も出来ていない気がして、さゆりは慌てて頭を下げた。
「ありがとうございました」
お客さん達へ挨拶をしながら、席を離れる。
「頑張ってね、新人さん」
「次は瓶開けられるようになっときな〜」
笑い混じりの声。
「はい……!」
顔を赤くしながら、さゆりも笑った。
襖が閉まる。
途端に、張っていた気が少し抜けた。
廊下へ出ると、静かなホテルの空気が肌へ触れる。
「お疲れ様」
隣を歩くユリ姉さんが、小さく言った。
「すみません、全然出来なくて……」
「最初はそんな感じ」
ユリは、淡々と歩きながら続ける。
「いきなり完璧だったら、逆に怖い」
その言い方がおかしくて。
さゆりは、少しだけ笑った。
初めての夜は、まだ始まったばかりだった。
履き慣れない足袋で、足先がじんじん痛む。
帯も苦しい。
身体のあちこちが、ずっと力んでいるみたいだった。
それでも。
不思議と、嫌な気持ちは無い。
そんな思いでいっぱいだった。
「ママに、帰るって連絡した?」
隣を歩きながら、ユリ姉さんが聞く。
「まだです」
「じゃあ、先に連絡して」
「あと、タクシーも呼んでね」
「えっ、私がですか?」
「うん」
ユリ姉さんは、慣れた様子で小さなメモをくれる。
「ここに連絡先書いてあるから、あとで端末に登録してた方が便利よ。『はなのやの、さゆりです。』ホテル箱根に、何台お願いします、って言えば大丈夫」
「はい……」
さゆりは、慌ててメモを握り直した。
すると、ユリが続ける。
「あと、帰りそうな他の置き屋の姉さん達に、“タクシー呼びますけど、同乗されますか?”って聞いてね」
「……?」
きょとんとするさゆりへ、ユリが少しだけ笑う。
「タクシー代、割り勘だから。人数多い方が、支払い助かるでしょう?」
「あ……はい!」
さゆりは、素直に頷いた。
その瞬間、ユリ姉さんが急に“憧れの人”じゃなく、ちゃんと、この世界で働いて生活している人に見えた。
置き屋へ戻る頃には、夜もすっかり深くなっていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
姉さん達が、それぞれ慣れた様子で荷物を下ろしていく。
さゆりも、ようやく一息つこうとして。
「あ、先に花代」
ママの声で、慌てて背筋を伸ばした。
「はい!」
まず最初にするのは、今日の花代の記入だった。
座敷の時間
延長
誰の席へ付いたか
新人のさゆりは、まだよく分からない。
だが、姉さん達は迷いなく書いていく。
「ここ、今日二時間ね」
「はい」
ママに教えられながら、さゆりも恐る恐る名前を書く。
『はなのや さゆり』
その下へ、今日の花代。
数字を書く手が、少し震えた。
自分で働いた。
着物を着て、笑って、座敷へ出て。
その結果として、初めて“お金”が発生した。
不思議な感覚だった。
「新人にしては、悪くないわよ」
ママが、帳面を見ながら言う。
「えっ、本当ですか?」
「最初は座ってるだけで終わる子も多いから」
褒められて、さゆりの顔が少し明るくなる。
その横でユリ姉さんは、静かに自分の花代を書き終えていた。
「じゃあ、ちょっと反省会しよっか」
帳面を閉じながら、ママが言った。
着物を脱ぎ始めていた姉さん達も、自然と耳を傾ける。
「さゆりちゃん、今日働いてみてどうだった?」
急に振られて、さゆりは背筋を伸ばした。
「えっと……」
何から言えばいいのか、少し迷う。
「初めてで、どう動けばいいのか、何を言われてるのか理解するので必死でした…」
「うん」
ママが頷く。
「でも…言われた意味、半分以上分かりませんでした」
その言葉に、何人かの姉さんが小さく笑った。
「最初はそんなもん」
「専門用語多いからねぇ」
少し空気が和らぐ。
さゆりは、さらに続けた。
「あと……」
「瓶ビールの蓋の開け方、分かりませんでした」
一瞬、間。
そして。
「あははは!」
置き屋に笑い声が広がった。
「そう来たか!」
「今時の子〜!」
「栓抜き使った事ないの!?」
顔を真っ赤にしながら、さゆりは俯く。
「お客さんに……最初、開けてもらいました……」
「可愛いじゃない」
姉さんの一人が笑う。
「それ、今日のネタになるよ」
「新人らしくて良いわ」
笑われているのに、不思議と嫌じゃなかった。
ユリ姉さんも少しだけ笑っていた。
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