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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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32/77

長谷川結花は練習する

 結花も、そのシンガー自体は知っていた。

 他の曲なら普通に歌える。


 カラオケでも、何度か歌った事はある。

 だが、この曲だけは完全にレパートリー外だった。


 理由は単純だ。

「自分が歌えると思っていなかった」

から。


 この曲は、上手いだけでは成立しない。


 感情。

 息。

 視線。

 危うさ。

 色気。

 全部、必要になる。


 だから結花も、珍しく時間をかけた。


 授業の移動中。

 箱根へ向かう電車。

 深夜の仕事帰り。

 合間を見つけては、イヤホンをつける。


 歌詞を見る。

 小さく、口ずさむ。


 最初は

「むず……」

 と、眉を寄せていた。

 でも段々、歌う回数が増えていく。


 そしていつしか、無意識に口から零れるようになる。

「名前を呼んで……」

 小さな声。

 まるで、確認するみたいに。


 また、

「名前を呼んで……」

繰り返す。


 その様子を、一緒にいた三人は黙って見ていた。


 灯。

 奈緒。

 美里。


 一番最初に、耐えきれなくなったのは、灯だった。

「結花……」

 結花が、顔を上げる。

 灯がニヤニヤしながら言った。

「サビ好き?」

「え?なんで?」

 結花が、本気で分からない顔をする。

 灯がニヤニヤしたままで肩を竦めた。

「だって、何回も確認してんじゃん」

「珍しいよ?」

 結花は、一瞬だけ固まる。

 そしてすぐ、誤魔化すみたいに言った。

「いや、練習してるだけ!」

「へぇ〜?」

「ほんとだって!」

 奈緒が、吹き出すのを堪えている。

 美里は、黙ったまま結花を見ていた。


 灯がわざと軽い調子で続ける。

「その人、学祭ライブ観に来たらいいね」


 その瞬間、結花の動きがぴたりと止まった。

「来ないよ!」

 返答が、早い。

 三人が、無言で顔を見合わせる。

 結花だけが、気づいていない。

 灯は、ニヤニヤが止まらず追撃する。

「なんで?」

「あの人、学校なんて一番縁ないとこだし!」

 結花は、早口になる。

「それに最近、すごく忙しいみたい……」

「仕事でも、箱根にも来ないし……」

 言い切った後。

 結花が自分で止まる。


 数秒の沈黙。

 そして、

「……あっ、」

 遅い。

 灯が机へ突っ伏す。

「出たーーーー!!」

 奈緒も完全に笑ってる。


 美里だけ、静かに目を細めた。

——あぁ。

 今年の“ゆいか”。

 本当に、危ない。


「……お客さんの一人だから…」

 結花が、ぽつりと言う。

 さっきまでの、慌てた空気が少しだけ消えていた。

 その声は、静かだった。


 灯達も、そこで笑うのをやめる。

 結花は、視線を落としたまま続ける。

「別に……そういうんじゃないし……」

「忙しい人だし」

「仕事でもないのに私から連絡するのは、なんか違うかなって……」

 小さく、笑う。

 諦めているその笑い方が、少しだけ苦い。

 美里は、何も言わなかった。

 多分結花は、自分でも分かっていない。

 これは、『線引き』だ。


 箱根とお客。

 大学生と社会人

 立場。

 境界。

 自分から、そこを越えないようにしている。

 だから、気になる、会いたい、来てほしい。

 感情はあるのに、『追いかけない』。

 頑なに、自分から連絡しない。


 期待もしない。

 そうやって蓋をしている。


 なのに。

 今、歌っているのは……

「名前を呼んで、触れて、認めて欲しい」

 感情を、隠せない歌。


 だから結花、無意識に何度もそこを歌ってしまう。

 美里は、静かに思う。

——あぁ。

 この曲。

 今の結花には、刺さりすぎている。


 練習日は、本当に少なかった。

 吹奏楽部からも応援を呼んでいる。

 合う日程が本当に少ない。


 だから後輩達は、その数少ない機会へやたら集まってくる。


 “ゆいか”を見たい、それだけで。

 視聴覚室の後ろには、1年生達がずらりと並んでいた。

 しかし、しばらくすると空気が変わる。

 ざわつき。

 戸惑い。

 そして、露骨な落胆。


 何人かは、そのまま部屋を出ていく。

 結花は、全く気づいていなかった。

 譜面を見ながら、

「ごめん、そこもう一回いい?」

普通の声。

 普通の大学生。


 汗で髪が崩れて、ジャージ姿でペットボトルを抱えている。

 ステージの“ゆいか”とは、別人だった。

 耐えきれなくなったのは、奈緒だった。

「……キミ達」

 後ろへ振り返る。


 1年生達が、びくっとする。


 奈緒は、静かに言った。

「何しに来てるの?」

 空気が止まる。

 1年生の男子が困った顔で言う。

「いや……だって…、」

 言いづらそうに、結花を見る。

「全然違うじゃないですか……」

「アレが、カリスマ?」

 その瞬間。

 視聴覚室の空気が、少し冷えた。

「え?」

 奈緒は、小さく息を吐いた。

 そして、少し笑う。

「当たり前でしょ?」

 静かな声だった。

「ずっと“ゆいか”だったら、壊れるよ。見たい、聴きたいだけならもう辞めな」

 奈緒の声は、静かだった。


 でも、かなり冷たい。

 後輩達が、息を呑む。

 奈緒は、そのまま続けた。


「時間の無駄。本番、観客席から見た方が多分キミ達のイメージ通りだよ」

 誰も、口を挟めない。

 奈緒は、視線だけを後ろへ向けた。

「ここ、今クリエーターしかいないの」

 吐き捨てるみたいな声だった。


 空気が、張る。

 後輩達は、何も言えなくなる。


 でも、そんな空気すら、“ゆいか”チームには関係なかった。

 誰も、止まらない。

 雑音なんて、気にしていない。


 今、出来る事をやるだけだ。


結花は、譜面を見ながら、

「出だし、もうちょいベース重く出せない?」

 灯が、すぐ音を確認する。

 シンセ。

 ベース。

 ギター。

 ドラム。


 “ゆいか”の声と、どう噛み合わせるか。

 美里は、少し考えてから言った。

「今ので良くない?」

 結花は、少し首を振る。

「本番、もう少し声が重く出ると予想する……」

 その瞬間。

 

 後ろにいた後輩達が、少しだけ顔を上げる。

 “ゆいか”ではない。

 ジャージ姿の、普通の大学生。

 なのに今、話している内容だけは完全にステージを作る側。


 美里は、すぐ頷く。

「わかった」

 そしてまた、音が鳴り始める。


 誰ももう、後ろを見ていなかった。


 練習中の結花は、驚くほど普通だった。

 感情は、まだ乗らない。

 声も、張り上げない。


 ただ、淡々と音を確認していく。


 だからもし、そこだけ切り取って聞けば、

「カラオケ上手いな」

 その程度だ。


 少なくとも、去年の動画を見て憧れた1年生達が期待していた、“ゆいか”ではない。


 だが、上級生達はもう分かっていた。

 これは、

「まだ出してない」

だけだ。


 本番。

 照明。

 客席。

 空気。


 そこまで揃った時、結花は変わる。


 だから上級生達は、後ろの空気など気にしない。

 淡々と、最後の調整を進める。


「そこ、ギター、一拍後ろ」

「ここ、入り結構揺れる?」

「うん。だから、そのまま進めて。合わせないで」

「照明、赤入るタイミング確認」


「黒幕一枚入れて、替え。MC入れて、次繋げよう」

「サビ前もっと落とせる」

 タイミング。

 音。

 照明。


 “ゆいか”が最大限映える形を、全員で組み上げていく。

 残った下級生達も、少しずつ顔が変わっていた。

 最初の熱狂は、消えている。


 代わりに『作ってる』

 空気を、理解し始めていた。


 譜面。

 修正メモ。

 タイムテーブル。


 皆、必死に読み込む。

 本番まで、あと少しだった。


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