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エッセイ

AI挿絵を好きになれない自分がいる

作者: ちりあくた
掲載日:2026/03/15

 小説投稿サイトにて、ある純文学小説を読んでいたときのことです。物語の序盤でヒロインが登場すると、突然、女学生のAI生成画像が差し込まれました。


 その瞬間、私はなんとなく読み進める気を失ってしまいました。特に嫌悪感があったわけではありません。ただ、すっと集中が切れてしまったのです。その後、私はブラウザバックし、別の小説を読み始めてしまいました。


 最近では、AI生成の挿絵を載せている小説・エッセイをたまに見かけるようになりました。ですから、その作品だけが特別だったわけではないでしょうし、これから当たり前になっていくのかもしれません。ただ、後になって少し考えたのです。


 あれはAI生成だったから読む気を失ったのでしょうか。それとも、仮に手書きのイラストだったとしても、やはり同じように引っかかっていたのでしょうか。AI画像よりは違和感が少なかった気はします。しかし、果たして本当に読み続けていたのでしょうか。


 考えているうちに、そもそも「挿絵」が得意じゃないことに気づきました。


 文章を読みながら、私は頭の中で女学生の姿を想像していました。その仕草や表情、雰囲気を、文章から受け取った情報をもとに組み立てていたわけです。ところがそこに、作者が提示する「真の姿」が差し出される。その二つが食い違っていたとき、私は居心地の悪さを覚えてしまうようです。せっかく物語に没入していたのに作者の姿が透けて見えてしまう。彼曰く、「彼女はポニテじゃねえ、ロングへアなんだよ!」……展開上はどうでもいいことのはずです。


 一つ例えてみましょうか。

 私がシアターで映画を見ていたとします。戦場から帰ってきた息子を、母親が無言で抱きしめるシーンがある。それを見た私は、こう解釈します。


「ああ、息子が生きて帰ってきたことが、彼女には言葉にならないほど嬉しいんだ」


 ところが次の瞬間、映画の上映が突然止まる。

 そして映画監督が現れて、こう言うのです。


「いやいや、違うんですよ。彼女が何も言わなかったのは、息子の疲れ果てた様子を気遣ったからです。本当は叫びたいところを我慢してるんだ。いいですね?」


 そう説明された後、映画は再び回り始める。


 ……なんだか窮屈に感じませんか。


 つまり、物語の途中で解釈の幅が狭められた。

 ここでボトルネックのようなものが生まれるんです。


 もちろん、同じ創作者として気持ちはよく分かります。自分が想像した景色を、できるだけそのまま読者に共有したい。嫌というほど理解できます。


 しかし、それだと私は緊張してしまうらしいのです。ひょっとしたら作者は、読者の存在なんてどうでもよく、自身の心象世界を具現化させたいだけなのかもしれません。むしろそうであってほしい。もしそうなら、私が想像を合わせられなかったとしても、それは努力不足の問題ではない。最初から、私が物語に介在する余地はなかったというだけですから。


 ……ここまで挿絵についてグチグチ書いてきましたが、少し不思議なことがあります。


 私はライトノベルから読書にハマったクチです。そしてライトノベルには、ほぼ必ずと言っていいほど挿絵があります。しかし不思議なことに、そこではあまり引っかかりを覚えませんでした。最初から「イラスト込みのメディア」として受け取っていたからでしょうか?


 とはいえ、小説投稿サイトでも挿絵の存在は事前に分かります。「挿絵あり」というタグもありますし、「イラスト込みのメディア」として受け取る覚悟はいくらでもできるはずです。これでは矛盾を解決できませんね。


 私がぼんやり思っているのは、AI生成画像の特徴が関係しているのではないかということです。


 AI画像はとても鮮明です。一枚ぽっちの画像でも情報量が多く、完成度も高い。そのせいか、絵の中の世界が物語から独立しているように感じられるのです。


 つまり、イラストの意図が少し感じ取りにくい。ライトノベルの挿絵では往々にして「場面」が描かれます。ヒロインが天真爛漫に目を輝かせていたり、主人公と宿敵が剣を交して火花を散らしていたり。彼らの躍動は本文での描写に見劣りせず、文章中の人物と、イラスト中の人物とが自然に一致するのです。そこら辺の調整は、作者・編集・イラストレーター間で綿密に行われているんでしょうね。


 しかしAI生成では、ときどき「瞬間」が描かれてしまう。


 例えば、女学生が夕焼けの下で微笑み、主人公へ向けて甘酸っぱい言葉を差し出す場面があったとします。それをAIを通すと、夕焼けの下、張り付いたような笑みを浮かべる女学生の「写真」に変じてしまう。文脈が微妙に乗りづらいわけです。


 作者が出力結果を違和感なく添付できるのは、おそらく彼の脳が前後の場面を補完しているからでしょう。私の目には一枚の写真のように見えても、作者の中では動画の一コマとして映っているのです。その小さなズレが引っかかりを生むのかもしれません。


 ここで言いたいのは「AI=ダメ」ということではありません。


 むしろ、使い方によってはとても有効だと思います。例えば、読者が想像しにくい架空のクリーチャーを見せてあげたり。あるいは、ぼんやりした景色の輪郭だけを提示してあげたり。そういう使い方なら、むしろ想像を助けてくれるでしょう。


 まあ、これも「やれ」と言ってるわけじゃない。インターネットに小説を投稿する意義は――特に純文学ジャンルでは――畢竟、自己満足にあると思います。ですから、過度に読者を意識する必要はないでしょう。それはそれで創作のストレスになるかもしれませんし。


 ただ、もっと読まれるべきだと思った文章に引っかかってしまうと、読み手として少し惜しく思ってしまうのです。ですから、読者の想像力に寄り添ってみるのも、たまにはアリなんて思ったり。それだけです。

「読者の想像力に寄り添ってみるのも、たまにはアリなんて思ったり。」← ここで言う読者とはサンプル数1の私なので、傲慢な言い草だったかもしれません。結局は好きに書けばいいんだ。

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