第九章 そう、オタクにもやらねばならぬ時がある
夜が明ける。駈は焦っていた。どうやら今日、小恋愛は金谷とデートするらしい。
もう時間が無い。今、家にいるのは自分一人。シャルも昨日からまだ戻ってきてはいない。
昨日、小恋愛は友人の家に泊まったらしい。牙に頼んで調べてもらった。
昨日の小恋愛は明らかに様子がおかしかった。目は虚ろだったし、どこかぼうっとしていて、まるで操られでもしているかのような。これも金谷の仕業なのか? しかし、どうすればいい?
前回は小恋愛に邪魔されてしまった。もし、次も小恋愛が割って入ってきたら……
焦る駈を現実に引き戻したのは、ピンポーンというインターフォンの音だった。
駈はイライラしながらも、玄関の扉を開ける。
「はーい、どちらさまー? 生憎と今、取り込んでるんで新聞やセールスなら……」
玄関には誰もいなかった。代わりに、扉の下に一通の手紙が置いてある。
宛て先なし。差出人無記名。怪しさバリバリであったが、駈はふとその紫色の手紙に見覚えがあるような気がしてその封を開けた。中には一枚の、やはり紫色の紙が綺麗に折りたたまれて入っている。駈は迷わずその紙を広げた。
紙には何も書かれていなかった。全くの白紙。しかし、不思議なことに次第にそこから人の姿が浮かび上がる。
浮かび上がったのは金髪の美女だった。軽くウェーブのかかった艶やかな髪に、慈愛に満ちた赤い瞳。まるで、神様が美女とはこういうものだと、見本のために造ったとしか思えないほど整った顔立ち。そして、なんといっても胸がデカイ。少なくともFカップはありそうだ。もはやボインではなく、ボヨヨーンの領域である。
状況を忘れて思わず涎を垂らしていた駈に、紙から声が響いた。
『西岡駈さんですね?』
美しい容貌に負けず劣らずの美しい声。まるで天女のようだ。
「はい、そうでございます」
またしても状況を忘れ、駈はキラリ顔(駈的に一番イケてると思っている顔)で返答する。
『申し遅れました。私、クローディア・クロニクルと申します。シャルがいつもお世話になっております』
その言葉に駈が一瞬で真顔に戻る。よく見ると、確かに面影があった。美しい金髪に整った顔立ち、そして赤い瞳。体の発育具合に関してはコメントを差し控えるが、確かにシャルによく似ていた。そこで、駈は思い出す。この紙は初めてシャルと出会った時に、シャルが姉さまに渡されたと言っていたメモと同じ物だということに。
そして、ようやく駈は今自分の置かれている状況を思い出した。
「そうだ。こんなことしてる時間は……」
『お待ち下さい』
急いで出かけようとする駈をクローディアが呼び止める。
「すみませんが、今ちょっと時間が……」
『分かっています。小恋愛さんのことですね?』
クローディアの言葉に、駈は思わず足を止めた。
「知ってるんですか? 妹のこと」
『はい、そして今、あなた方の置かれている状況についても全て把握しています。こちらから全て見ておりましたので』
そこでクローディアは一旦言葉を切った。
『率直に申し上げます。今、小恋愛さんは死神の使うチャームという魔法に犯されています。この魔法は文字通り掛けた対象を魅了する魔法で、掛けた対象を自分の虜にする、言ってしまえばメロメロにする魔法な訳です』
「じゃあ、金谷は死神なんですか?」
駈の言葉にクローディアは首を横に振った。
『いいえ、彼は人間です。ですが、どうやら死神と契約してその力を一時的に貸与されたようです。死神はそれぞれ個別に固有の特殊な能力を持っていまして、どうやら今回貸与された死神の能力がそのチャームのようなのです』
「どうすればそのチャームとやらは解けるんですか?」
『魔法を掛けた者を倒すか。あるいはその能力を奪い去るか……』
「じゃあ、金谷をぶっ飛ばせば小恋愛は元に戻るんですね?」
『理論上はそうです。ですが、あなたにそれができますか? もし、前回のように妹さんが割って入ってきたらどうします? あなたの資料を拝見しましたが、体育の成績は下の中、おまけに馬鹿でアホで脳の九五パーセントがアイドルとアニメとフィギュアのことで埋まっている、体を鍛えることとはまるで無縁のどうしようもない害虫のようなあなたに、妹さんを避けつつ金谷を倒すような器用な真似ができるとは思えませんが?』
さすがはシャルの姉、言動に容赦が無い。
「じゃ、じゃあ、どうすればいいんですか?」
『シャルはそこにおりますか?』
駈は一瞬言葉に詰まった。昨日自分が怒鳴り散らしたきり帰ってきていないとは言いづらい。
『ああ、そうでした。いないんでしたね。昨日、あなたに怒鳴られてから戻ってきていないのを忘れていました。ほほほほほ』
どうやらこの姉、美しい見た目とは裏腹に正確はドが三つ付く位のSのようだ。絶対敵には回したくないタイプである。
『まあ、いないものは仕様がありません。ですが、本当に妹さんを助けたいのなら、あの子の持つ力が必要不可欠なのです』
「え、でも、あいつは……」
『はい、確かにあの子は落ちこぼれです。死神学校の成績も下から二番目だし、にも関わらず態度だけは大きいし。まったく、どうして死神の名門クロニクル家にあんなできそこないが生まれてきたのか不思議で仕方ありませんわ』
実の姉のこの物言い。さすがに駈も、シャルに対して同情せずにはいられなかった。
「でもじゃあ、何であいつの力が必要なんですか?」
『先ほど申しましたでしょう? 死神には個別の固有能力があると。あの子の能力は他の死神の力を削り取ること。まあ、削った力を自分で使えないのはあの子の無能の致すところですが、こと今回に至っては……』
「じゃあ、あいつに頼めば……」
『いいえ、あの子には無理なんです。シャルから聞いていませんか? 死神は現世の人間に危害を加えてはいけないと』
「あっ!」
そう、確かに聞いたことがある。
「じゃ、じゃあどうすれば……」
『あの子と契約してください』
「えっ?」
『あの子と契約すれば、あなたもあの子の能力を使うことができます。あの子の能力はデスサイズを通して発現しますので、あの子のデスサイズを借りてください』
「分かりました」
そう言って、家を出ようとした駈が直前で足を止める。
「そういえば、何でこんなに親切にしてくれるんですか?」
駈の問いにクローディアは嬉しそうに笑った。
『そうですね。本来、私達死神は同属同士の干渉を極力避けます。無用なイザコザを避けるためです。にも関わらず、今回こうしてあなたの元を訪れたのは、シャルのお世話になっている方の貞操の危機だから、というのが半分。それともう半分は……』
「もう半分は?」
『あの子の笑顔を取り戻してくれたからでしょうね』
「えっ?」
『あの子は、ずっと落ちこぼれというレッテルを貼られてここまで生きてきました。それで最近はめっきり笑うことも少なくなって。そんなあの子があなたの元に行ってからはずいぶんと楽しそう。あの子があんなに一生懸命誰かのために何かをしているのを見たのは初めてですわ。これはそのお礼です』
そこでクローディアはウインクしながら駈に言った。
『こう見えても私、結構シスコンなんです』
「なるほど、僕と同じですね」
『やめてください。気持ち悪い』
良い雰囲気になりかけた場を、クローディアが一蹴する。
『私のは純粋な家族愛なんです。あなたのような妹に欲情する変態と一緒にされては吐き気がします。ぺっ!』
クローディアは紙越しに唾を吐き捨てた(真似)。駈はもはや何と言っていいのか分からず、硬直している。
『シャルは今、陸橋の下にいます。さっさと行ってください。このバイキン』
「バ、バイキンて」
これ以上この姉と話していると、小恋愛を助ける前に自分がKOされそうなので、駈は慌てて玄関の扉を開けた。
『ああ、そうそう、一つ言い忘れました』
家を出ようとした駈をクローディアが再度呼び止める。
「な、何でしょうか? お姉さま」
『その呼び方やめてください。吐き気を通り越して目眩がしますわ。私のことはクローディア様とお呼びなさい』
第一印象とはまるで違うSMの女王様のような態度に、駈はまたも言葉に詰まった。
「わ、分かりました。クローディア様。私めに何の御用でしょうか?」
そこでクローディアの声が少し暗くなる。
『駈さん、あなたがシャルのことをあまり快く思っていないのは分かっています。そして、何故さっさと自分のところを出て、他の生贄を探さないのか疑問に思っていることも。でも、これだけは知っておいてください。あの子は……』
「探したぜ」
陸橋の下、駈はシャルに声を掛けた。
「……何の用だ?」
「お前に話がある」
「私には無い」
「そう言うな。お前にとっても悪い話じゃないぜ」
シャルは警戒を強めた。自分のことをあれだけ突き放した人間がいきなり話とは。シャルが警戒を強めるのも無理はなかった。
「聞いたぜ。お前、俺以外に寿命が適合する人間が見つかってないんだってな」
シャルは何も答えない。
「お前らにとっての寿命ってのは、要は俺達にとっての血液と同じなんだろ? 適合しなければ受け付けない。つまり、お前は俺を生贄にする以外生き延びる道は無い訳だ」
「何が言いたい?」
「契約してやるよ。お前の生贄になってやる」
「何だと!」
シャルは耳を疑った。今までずっと拒絶していたはずなのに。
「何を考えている?」
「お前には関係のないことだ」
駈はきっぱりと言い切った。
「どうする。契約するか?」
「条件は何だ? 嫁か?」
「いいや、違う」
「では、何だ?」
「お前のデスサイズは死神の力も削り取れるらしいな。つまり、死神の力を持った人間からもその力を削り取ることができる訳だ」
「それがどうした?」
「お前の力が欲しい」
「馬鹿なことを。確かにお前の言っていることは可能だが、我ら死神は……」
「分かってるよ。死神法に触れるから人間には手を出せないんだろ? だから、俺がやる。お前は、俺にデスサイズを貸すだけでいい。自分の力を貸与している死神もいるんだ。正式な契約となればお前が罰せられることはない。そうだろ?」
そのとおりだった。しかし……
「何故だ? 何故そこまでして……」
「お前には関係ないといったはずだ。お前はただ契約するかどうかだけ答えればいい」
あまりの一方的な物言いに、さすがにシャルもカチンときた。
「分かった。契約してやってもいいぞ」
「そうか。ならさっさと……」
「ただし、お前の寿命を全てもらう」
「おいおい、条件はこちらが提示できるんじゃなかったのか?」
「時と場合によるのさ。どうやら、お前の方も大分切羽詰っているようだ。こちらだけ不利な条件は御免だからな」
「…………」
「それに万が一、デスサイズをお前に貸して返ってこなかったらどうする? 私は人間から寿命を切り取る術を失う。そうなったらお前以外の適合者が見つかった時、私はどうやって寿命をもらうんだ? だから、デスサイズが欲しいのならお前の寿命を全て寄こせ。安心しろ、一週間分は残しておいてやる。それだけあればお前の用事も終わるだろう。私には関係のない話だが」
シャルは嘘を吐いた。デスサイズは壊れても、失ってもまた作り出すことができる。何故なら、デスサイズは死神が自らの力を注ぎ込んで生み出したものだからだ。しかし、駈はそんなことまでは知らないはず。シャルはそう踏んだ。シャルは知りたかった。どんなに大事なものがあろうと、さすがに自分の命には変えられまい。駈という人間の底をシャルは知りたかった。
「いいだろう」
「えっ?」
シャルは一瞬駈が何と言ったのか分からなかった。まさか、こんな無茶な条件を呑むなんて。
「正気か? この条件で契約すれば、お前は一週間後に死ぬんだぞ」
「そんなことは分かってる」
「なら、何を馬鹿なことを……」
「うるさいぞ。お前の出した条件だろうが」
そう言われては、シャルは黙るしかなかった。
「契約の方法は?」
「……私にキスしろ。その前に……あ」
シャルが言い終えるより早く、駈はシャルの唇を奪っていた。キスなどとはとても呼べない、ただ唇と唇を重ねるだけの行為。
どれくらいそうしていただろうか。やがて、駈がゆっくりと唇を離す。
「寿命の譲渡は?」
シャルがゆっくりとした動作で、駈に向かってデスサイズを振り下ろす。
駈は黙ってそれを受け入れた。デスサイズが駈の体を通過する。見た目に変化はない。
「……小恋愛のためか?」
シャルは何かを堪えるように俯きながら、駈にデスサイズを差し出した。駈は何も答えなかった。シャルはその無言を肯定と受け取った。
「そんなに妹が大事か? 向こうはお前のことを嫌っているようだが」
「関係ない」
駈がデスサイズを受け取って答える。そして、シャルに背を向けた。
「小恋愛がどう思おうが関係ない。それでも俺はあいつを守る」
背を向けたまま駈は言った。シャルは、その言葉に圧倒されつつも言葉を返す。
「まさか、妹に惚れてるのか? だとしたら本当に救いようのない変態だな。貴様のような奴と相性がいいとは。まったく我ながら自分の不幸を呪いたくなる」
シャルが小馬鹿にしたように言った。駈は何も答えない。
「反論しないということは図星か。滑稽な男だな。貴様は」
「だったら笑えよ」
「え?」
駈の言葉にシャルはとまどった。こんな返事が返ってくるとは思わなかったから。
「笑えよ。シスコンの変態兄が、妹の恋愛話に首突っ込んで喧嘩売りにいくなんて確かに笑い話だ。ほら、さっさと笑えよ」
今度はシャルが何も言えなくなった。それほどまでに今の駈の言葉には静かな迫力があった。
「だが、俺は自分の生き方を後悔したことは一度も無い」
駈はシャルを静かに見つめたままそう言った。駈の深い瞳の色にシャルは一瞬引き込まれた。
「……なんで、そこまで?」
シャルは内心で泣きそうになりながら尋ねる。
「決まってる」
駈は少し間を置いてから、はっきりと答えた。
「約束を守るためだ」
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唇の感触がまだ残っている。シャルはいつの間にか自分の唇を指で撫でていた。
いきなり奪われた自分のファーストキス。心の準備も何の前置きもなしにいきなり奪われた。不覚にも何の抵抗もできなかった。
シャルはまた嘘を吐いた。実は駈と契約を結んではいない。契約の正式な手順は、死神の張った契約魔法陣の中で、お互いの体の一部を接触させること。つまりキスでなくても構わない。
キスが契約の方法だと言ったのは、嫌いな相手とのキスとなれば駈も少しは躊躇うかと思ったからだ。しかし、見事に失敗した。しかも、契約していないにも関わらず、自分はデスサイズを渡してしまった。
本当に自分はどうしたんだろう? あのまま契約していれば、ノーリスクで長い寿命が手に入ったのに。
きっと、駈の目を見てしまったからだ。キスの最中、駈は目を閉じなかった。引き込まれそうになるほど澄んだ瞳。そして、強い決意を湛えた瞳。その瞳を見た時、シャルは何の抵抗もすることができなくなってしまった。不覚にも少しかっこいいと思ってしまった。でも、駈の目には自分が映っていない。それが、少しくやしかった。
シャルは、いつの間にか自分が嫌っていた男に、キスだけでなく心まで奪われてしまっていることに気付いていなかった。
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