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ターニング  作者: かすがいななみ
「それから」の私
3/4

「それから」の私

 

 季節は幾度となく廻り、また新しい春がやってきた。  

 真っ白なワイシャツに、青いリボン。

 淡い茶色のブレザーに、黒いプリーツのスカート。

 高校生になって、初めての春。

 真新しい制服に身を包み、校門をくぐる新入生たち。 

 その中で、一人。

 私は、相変わらず目立っていた。

 日本人離れしたスタイルと、長く伸ばしたサラサラの黒髪。

 そして、西洋人形のような青い瞳。

 その容姿に、誰もが振り返る。

 毎度のことだけど、入学式なんてろくなものじゃない。 

 その感覚に、ふと小学校の入学式を思い出す。

 あの頃も、毎日こんな風に見られていたっけ。

 中学校の入学式は、そんなに気にならなかったんだけど。

 中学校は小学校から近かったこともあって、知っている人ばかりだった。

 だから、私を見て珍しがる人もそんなに多くはなかった。

 でも、高校ともなると違ってくる。

 市内、市外、県外と様々な地域から生徒が集まってくる。

 私のことを知っている生徒なんて、ごく僅か。

 決まって、私を物珍しげな目で見てくる。

 興味本位で声を掛けてくる生徒は後を絶たなかった。

 積極的に(好意的か否かを問わず)接触してくる者。

 関わらないよう距離を置く者。

 さも目障りだと言いたげな視線を送ってくる者。

 反応は様々と言えたけど、いずれの生徒にも私は見られていた。

 いつ、どこにいても常に感じる視線。

 小学校、中学校と九年間同じ環境の中に身を置いてきたけど、決して慣れるものじゃない。


 それが、ようやく落ち着いてきた頃。

 部活動の勧誘があちこちで始まっていた。

 興味本位や客引き目的で私を誘う部は多かったな。

 でも、私が言語障害者だと分かると、みんな一様に白々しく離れていったっけ。

(……はあ)

 そんな反応をされる度に、私は心の中で大きなため息を吐く。

 容姿だけは完璧なんだけどなあ。

 顔も、スタイルも、サラサラの髪も……胸だって。

 他の生徒に負ける気はしないんだけどなあ。

 やっぱり、障害のことも含めて私を受け入れてくれる人なんて、いないのかなあ……。

 そんな憂鬱な気分のまま、私は一人、目的の場所へと向かう。

 合唱部の見学会は、講堂で行われることになっていた。

 合唱が始まると、私はさっきまでの憂鬱を忘れてしまうほどの衝撃を受ける。

 中学生の合唱とは、全然レベルが違っていたから。

 大勢で歌っているとは思えない、透き通った歌声。

 一人ひとりの声が、まるで完成されたオーケストラのように見事に重なり、聞いているだけで背筋がゾクゾクするような感覚を受ける。

 私も、あの中に入りたい。

 私も、あの中で歌いたい。

 私の頭の中はもう合唱のことでいっぱいで、その日のうちに顧問の先生に相談をしていた。

 うまく歌うことはできないけど、合唱部に入りたい。

 形だけでもいいから、みんなと一緒に歌いたい。

 そんな私の申し出に、先生はとても困った顔をしてしまう。

 まあ、無理もない。

 言語障害者が合唱部へ入部なんて、聞いたことがない。

 障害のある生徒を入部させて、部員たちが困惑しないだろうか。

 うまく発音することができないのに、みんなとうまくやっていけるだろうか。

 顔には出さなかったけど、内心そんな風に考えていたんだと思う。

 結局、私の申し出はあっさり断られた。

 生徒一人ひとりの個性は尊重するけど、個人の自己満足のために入部を許可するわけにはいかない、と。

 高校は、小学校や中学校とは違う。

 大きなコンクールも控えているし、何よりも部員たちのモチベーションが重要。

 私だけ、という特別扱いは許されない。

 特別扱いが許されるのは、それに見合った実力がある者だけ。

 それは、ある意味では平等と言えるのかもしれない。

 でも、私は自分の「それまで」さえも全て否定された気がして、どうしても我慢ができなかった。

 悲しかった。

 泣いて、駄々をこねて、無理にでも入部したかった。

 でも、歌うことを否定されたというのに、ショックのあまり涙も出ない。

 返された入部届けに視線を落としたまま、私は動けなかった。

 先生の言ったことは、極めて正論だったから。

 正論だと思ってしまったから、反論できなかった。

 私には、分からなくなってしまった。

 今までが特別だったんだろうか、と。

 特別扱いされなければならないほど、私は他人と違っているんだろうか、と。

 みんなと一緒に小学校を卒業して、中学校の合唱コンクールで一緒に歌って、高校に入学して……。

 みんなと一緒に過ごしてきたから、ずっと勘違いしていたけど。

 私は、他人とは決定的に「違う」。

 結局、私の居場所は特別扱いによって与えられてきたもの。 

 私の人生は特別扱いによって支えられてきたもの。

 それなのに私はまだ、みんなと一緒に歌いたいなんて、特別扱いされることを望んでいる。

 これが、自分の我侭だっていうのは分かっている。

 でも、今の私には合唱以外に何もなかったから。

 そこで道が閉ざされたような気がして、心に大きな穴が開いたような気がして、途方に暮れてしまったんだ。


 合唱部への入部を断られた私は、毎日を悶々と過ごしていた。

 伴奏者としてなら考えてもいい、と先生は提案してくれたけど、私は合唱以外での参加はできないと答えた。

 私はピアノを弾けないし、やっぱりみんなの中で歌いたかったから。

 結局、私は六月が過ぎても他の入部先を決められずにいた。

 放課後。

 とくにやることのない私は、合唱部の練習を毎日、こっそり聞いていた。

 講堂から漏れてくるのは歌声だけじゃなく、楽しそうな笑い声。

 あの輪の中に、私はいない。

 私のことを知る生徒さえ、いない。

 合唱への憧れと同時に湧いてくるのは、羨ましさと悔しさ。

 感動よりも先に、自分自身に対する惨めさが心を満たしてしまう。

 結局、私は今日も最後まで練習を聞かずに、その場をそっと後にした。


 新しい生活には慣れてきたものの、私はクラスの中で一人、浮いていた。

 楽しいはずの高校生活は、偏見という視線を浴びる毎日。

 当然、仲のいい友達ができるわけもなく。

 休み時間も昼食も、放課後も私は一人きり。

 クラスメイトという括りには入っているけど、友達という括りには入っていない、という感じだろうか。

 あの頃と、同じ。

 小学校の入学直後を思い出す。

 当時の私は、クラスのみんなから避けられていた。

 誰からも話し掛けられず、距離を置かれ、孤独な毎日を過ごしていた。

 それがやっと変わり始め、友達と呼べるようなクラスメイトができるまで、一年半……。

(……はあ)

 私は心の中で、大きなため息を吐く。

 また一から始めなきゃいけない。

 私のことを理解して、受け入れてくれる友達を作らなきゃいけない。

 でも、せっかく仲のいい友達ができても、どうせすぐに別れはやってくる。

 三年間は、短い。

 卒業したら、新しい環境の中でまた一から始めなきゃいけない……。

 まだ高校生活も始まったばかりだというのに、私は自分の人生に対して、不安を覚えずにはいられなかった。

 この先も環境が変わる度に、こんな思いをしなきゃならないんだろうか、と。

 人と違う外見と、内面。

 生まれつきの、二重のコンプレックス。

 ハーフであり、言語障害者でもあること。

 もしも、このコンプレックスが外見の問題だけだったら。

 私はもう少し、周りに受け入れてもらえたかもしれない。

 実際、外見を気にせず話し掛けてくる人は多かったから。

 それが好意からなのか、単純な興味からなのかは分からないけど、少なくとも会話することはできただろう。

 私だって、もっと積極的にみんなの輪の中に入っていけたはずだ。

 完全な外国人じゃない私は、少なくとも半分は彼らと同じ日本人なんだから。

 でも、もし内面の問題だけだったら、みんなは受け入れてくれただろうか。 

 確かに、言葉を話せない私のことを気にしてくれる雰囲気は、多少なりともあった。

 でも、「話せない」というのは、他の誰も持っていない障害。

 外見の問題以上に取っ付きにくく、深く関わりたくないデリケートな問題だ。

 障害のことを知ると決まってみんな、私から離れていく……。

 私にとって、より決定的な他人との「違い」は外見じゃなく、内面の方なのかもしれない。

 どうして私は、他人と違うものを二つも持って生まれてきたんだろう……。

 生まれながらに、私には居場所がなかった。

 生まれながらに、どうしようもなく一人ぼっちだった。 

 人は、一人きりでいるから孤独なんじゃない。

 他人と違うから、孤独なんだと思う。

 だって、周りに人がいないという状況よりも、周りに人はいるけど、自分一人だけがみんなと違うという状況の方が、はるかに孤独感が強いから。

 私の周りには常に人がいるけど、私はみんなとは決定的に違っている。

 いつからだろう。

(寂しい……) 

 そんな風に思うようになったのは。

 私は、弱くなってしまったのかもしれない。

 幼い頃の私は、自分が他人とは違うということを理解していながらも、それを寂しいと感じることはなかったように思う。

 当時の私には親族も含めて、誰も関わろうとしなかった。

 最初から一人だったから、それが当然のことだと思っていた。

 でも、私は知ってしまった。

 笑顔や、涙をくれた愛犬のリンを。

 初めて私を受け入れてくれた、山咲優子という親友を。

 そして、合唱というみんなとのつながりを。

 そんな温もりを知ってしまったから、孤独に耐えられなくなった。

 だから、それらが失われたときにどうしようもなく、寂しいと感じてしまうんだろう。

 でも、知らなければよかったなんて思わない。

 彼らが教えてくれたことは、いつだって私を良い方向へと導いてきたから。

 今の私があるのは、「それまで」の私があったから。

 それだけは、間違っていない……。


 憂鬱な一学期が終わり、夏休みがやってきた。

 部活動に勤しむ者。

 アルバイトに明け暮れる者。

 旅行したり、海で遊んだりして過ごす者。

 開放感に溢れた、長い夏休み。

 過ごし方は違っていても、みんなそれぞれ楽しく過ごすんだろう。

 私は部活に入ってないし、アルバイトは障害のせいで断られるし、疎遠のため帰省する田舎もないし……。

 長い夏休みをどうやって過ごしたものか、考えていた。

 仲のいい友達もいないし、一緒に遊ぶ相手もいない。

 やりたいことも許されず、それに代わるものも見つけられず、退屈な日々は遅々と過ぎていく。

 私は、そんな一人きりの部屋にいたくなくて、ノートを持って家を出る。

 満たされない心を抱えて、何かを訴えたくて、気付けば筆談用であるはずのノートにペンを走らせていた。

 つらつらと、心に浮かんだ言葉を夢中で綴る。

 意味の繋がらない、心からの叫び。

 詩と言えるほど、上等なものじゃない。

 読み返せば、独り善がりで我侭な言葉の羅列。

(私、何やってるんだろう……)

 空を見上げれば、どこまでも続く青色。

 私の瞳の色と同じはずのその青は、曇り空の私とは違い、どこまでも澄み渡っていた。 

 子供の頃よりも背は伸びているはずなのに、今は何故か空がとても遠くなったように感じる。

 きっと、あの頃のように自由じゃなくなったからだろう。

 あの頃は毎日が充実していて、どこまでも行けるような気がしていた。

 でも、成長するにつれて色々なことを知って、純粋ではなくなって……。

 自分の小ささを知ってしまった。

 自分の弱さを知ってしまった。

 一人ぼっちになってしまった。

 だから、こんなにも空を遠く感じてしまうのかもしれない。

 強い日差しに心だけがジリジリと焼かれ、理由のない焦燥感に駆られる。

 何かに急かされるように、私はまた歩き出す。

 流れる汗を拭いながら、目的地もないままに。

 セミたちの合唱を聞きながら公園を抜け、図書館で時間を潰し、行き先の知らないバスに乗り……。

 気付けば、夕暮れ。

 目的もないまま一日中歩き続けた私は、結局どこへも行くことができず、元の場所へと戻ってくる。

 私の居場所なんて、どこにもない……。

 自分の部屋に帰ってきた私は、今日一日書き綴った言葉を読み返す。

 ネガティブな言葉ばかりで、生産性のカケラもない。

 また、無駄な一日を過ごしてしまった。

 私はノートをくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に放り込み、そのままベッドに倒れ込む。

 一日中歩いて疲れているはずなのに、寝苦しい夏の夜のせいか、私はなかなか眠りに就くことができなかった。


 それからしばらくの間、私は用もないのに毎日学校へと足を運んでいた。

 一人で部屋の中にいても、憂鬱な気分になるだけだったから。

 最近、眠りが浅いせいか、よく昔の夢を見る。

 楽しかった小学生の頃の夢を。

 歌に夢中だった頃の夢を。

 連日のように昔の夢を見るのは、きっと現状に不満があるからなんだろう。

 今が幸せじゃないから。

 行き詰っているから。

 過去に戻りたいから。

 きっと、そんな渇望が憧れとなって昔の夢を見させるんだと思う。

 ある意味、それは心の危険信号なのかもしれない。

 学校に着くと、校庭を一周してみたり、各部室を見て回ったり、体育館を覗いてみたり……。

 部活動に勤しむ生徒の姿を見ては、ため息を吐く。

 私もあんな風に、みんなと一つのことに夢中になれたら……なんて。

 そうして、最後は決まって講堂へと向かう。

 とは言っても講堂には入らず、窓の外から覗いているだけ。

 私は相変わらず、合唱部の練習をこっそり聞いていた。

 やっぱり、まだ諦め切れなかったから。

 合唱に対する憧れを捨て切れなかったから。

 自分の惨めさを痛感しながら、それでも合唱を聞かずにはいられなかった。

 今の私はそうすることでしか、自身の心を保てなかったから。


 そんな、ある日。

 いつものように講堂から漏れてくる歌声に耳を傾けていた私は、突然後ろから肩を突つかれる。

 驚いて振り返ると、相手は見知った顔だった。

「こんなところで何してるの?」

 声を掛けてきたのは、中学二年生の時に同じクラスだった、川上さん。

 クラスが違うため、話す機会はほとんどないけど、この学校で私の事情を知る数少ない知人だ。

 私は何て答えたらいいか困ったけど、しばらく悩んだ末に打ち明けることにした。

 知っている相手だったし、何より誰かに聞いてもらいたいと、ずっと心の奥で思っていたから。

 合唱部に入れてもらえず、歌えないことで悩んでいると素直に打ち明けると、 

「じゃあ、私たちの音楽サークルに入らない?」

 と、彼女は誘ってくれた。

 もちろん、私は嬉しかった。

 でも、サークル活動は正式な部活動として認められていない。

 部室も、部費も、機材も何もない。

 ほとんど趣味の範囲での、個人的な活動だ。

 そんな環境で、一体何ができると言うんだろう。

 声を掛けてくれたことは素直に嬉しかったけど、きっと合唱以上のことはできないだろうと、私は興味半分に聞いていた。 

 でも、歌うことのできない私にも居場所があるなら、とも思った。

 変わりたかったんだ。

 悶々とした毎日を過ごし、合唱部の練習を盗み聞きするだけの生活は、もう嫌だったから。

 サークルのメンバーは私を含めて、たったの四人。

 私と川上さんと、その友達の白河さんと柳瀬さん。

 川上さんの呼び掛けで集まった、小さな音楽サークル。

 部室も、部費も、機材も何もない。

 辛うじて、柳瀬さんがピアノを習っていた経験があるだけで、歌も演奏もみんな初心者。 

 全て、ゼロからのスタート。

 なのに、どうしてだろう。

 私以外の三人は、とても楽しそうに見えた。

 心配や不安のカケラさえ見えない。

「自分たちの表現したいこと、伝えたいことを形にするんだ」って、まるで子供のように瞳を輝かせていた。

 歌も、演奏もうまくないのに、どうして彼女たちはこんなにもキラキラしているんだろう。

 私は、羨ましかった。

 何がしたいのか、何ができるのか。

 私には、まだ見えていなかったから。


 私たちは夏休みを利用して毎日、学校に集まった。

 使われていない部室に、キーボードを密かに持ち込んで。

 幸い、夏休みだったせいもあり、先生に見つかることはなかった。

 毎日、音楽について話し合ったり、表現したいことについて意見をまとめたり……。

 私はてっきり、既存曲を歌うのかと思っていたけど、どうやらそういうつもりはないらしい。

 自分たちの表現したいこと、伝えたいこと。

 それを誰かの歌の受け売りではなく、自分たちの言葉で伝えたい。

 他人の言葉の受け売りでは、本当に自分たちが伝えたいことは伝えられないから。

 想い入れがなければ、言葉は嘘になる。

 背景がなければ深みは出ないし、伝わらない。

 だから、自分たちで歌詞と曲を書いて、歌を作りたい。 

 自分たちの言葉で、自分たちの手作りで表現して、初めて伝える意味が生まれるんだという。

 それを聞いたとき、私は素直に感心してしまった。

 表現したい、伝えたい。

 今まで、みんなの輪の中で歌うことばかりを考えてきた私は、自分が何を表現したいのか、何を伝えたいのか、なんて考えたこともなかったから。

 だから、私には彼女たちがとても眩しく思えたんだ。

 みんな自分たちの歌に対して純粋で、輝いていた。 

 彼女たちに言わせれば、歌というのは「想いを音楽に乗せて伝えるコミュニケーションツール」なんだそうだ。

 じゃあ、私にとって「歌」って何なんだろう。

 私が表現したいこと、伝えたいことって何なんだろう。

 その答えを探すためにも。

 私は、詩と曲の作成に加わることにした。 

 とはいえ、いきなりオリジナル曲なんて、いくらなんでも無謀だろうと思った。

 歌も演奏も初心者なのに、加えて作詞・作曲もしようだなんて。

 でも、みんなの想いから生まれた一つ一つの単語を繋いで、やがて一節の詩ができて、

「こんな感じかな?」

 と言いながら、柳瀬さんがキーボードを奏でると……何故だろう。

 すごく、ドキドキした。

 まだまだ完成には程遠いけど、私たちの言葉と私たちの演奏で作った、初めての歌だからだろうか。

 思い入れも強いし、何物にも変えられない達成感があった。

 気付けば誰もが夢中で、毎日夜遅くまで作業していた。

 表現したいこと、伝えたいことをイメージしながら、みんなで言葉を紡いで、曲を付けて……。 

 毎日、それの繰り返し。

 でも、私たちはとても充実していた。

 夏休みが終わる頃には、歌も完成に近付いていた。

 ただ、一つ。

 私の心の中には、未だに答えの出ない疑問が残っていた。


 深夜。

 私はその日も眠れずにいた。 

 自分の心の中に生まれた疑問に対する答えを、まだ見つけられなかったから。

 疑問、不安、焦り、そして孤独……。

 彼女たちの姿を見ていると、どうしても私一人だけが異質に思えてしまう瞬間がある。

 一緒に活動していても、どうしても私一人だけが孤独に思えてしまう瞬間がある。

 それは、彼女たちのような強い情熱が、私にないからだろう。

 歌というのは、想いを音楽に乗せて伝えるコミュニケーションツール。

 彼女たちは、そう言っていた。

 じゃあ、私にとって「歌」って何なんだろう。

 私が表現したいこと、伝えたいことって何なんだろう。

 今まで夢中でやってきたから、考えたこともなかったけど。

 私は今まで歌を通して、何を思ってきたんだろう。

 何を得て、何を失ってきたんだろう。

 私は、歌うことが好きだ。

(どうして?)

 だって……。

 歌うことで、みんなが見てくれるから。

 歌うことで、みんなが認めてくれるから。

 歌を歌える場所。

 それが、自分の居場所だった。

 他人に受け入れてもらえる唯一の、私の居場所になった。

(私は合唱が好き)

 そう云って歌うふりをしていれば、みんなに見てもらえる。

 そう云って歌うふりをしていれば、みんなの輪の中にいられる。

 歌を通して「私」という存在を受け入れてもらえる。

 合唱という名の輪の中だけが、私の居場所。 

 だから、私の居場所を奪わないで。 

 みんなの輪の中で歌わせて。

 みんなの輪の中にいさせて。

 私を差別しないで。

 もう、一人ぼっちは……嫌。 

 浮かんでくる言葉は、どれも我侭なものばかり。

 結局、私は自分の居場所を守りたいだけなのかもしれない……。

 私には、分からなくなってしまった。

 本当に歌うことが好きなのか、ただみんなの輪の中にいたいだけなのか。

 何のために歌っているのか、どうして歌うことが好きになったのか。

 分からなくなってしまった。

 歌うことが好き。

 その想いは、偽りだったんだろうか。

 他人にも、自分にも嘘を吐いていたんだろうか。

(ただ、差別されたくなかったから?

 一人ぼっちになりたくなかったから?

 私が歌い始めた動機は、そんなに醜い感情だったの?)

 純粋に、好きという綺麗な気持ちで始めたんじゃない。

 だから……。

 私には、ない。

 彼女たちのように、キラキラした夢や憧れが。

 一番大事なものが、私には欠けている。

 そう考えると、とても虚しい気持ちになってくる。

 今まで心をいっぱいにしていたものなんて、幻だったのかもしれない。

 私は歌が好きなんじゃなくて、歌に依存していただけなのかもしれない。

 人は、何かに依存しなければ生きていけない。

 夢に依存する人もいれば、趣味に依存する人もいる。

 お酒に依存する人もいれば、お金に依存する人もいる。

 他人に依存することで、自分を保つ人だっているだろう。

 個人の心なんて脆弱で、何かに依存しなければ自己を保てない。

 私はただ、そんな孤独な心を埋められる拠り所を求めていただけなのかもしれない。 

 みんなの輪の中にいられるなら、歌じゃなくても、何でもよかったのかもしれない。

 そんな不純な動機で始めたのに、たまたま受け入れてもらえて、いい気になって、特別扱いされていることにも気付かなくて……。

 歌を歌える場所こそが自分の居場所だと、錯覚していた。

 歌うことでみんなの輪の中に入れていると、錯覚していた。

 自分の居場所がほしかった。

 みんなの輪の中に入りたかった。

 一人ぼっちになりたくなかった。

 ただ、それだけなのに……。

 どうして、私はみんなと一緒にいられないんだろう。

 どうして、私はいつも一人ぼっちなんだろう。 

 私は……怖い。

 一人ぼっちになるのが、怖い。

 私は今日ほど、自分の名前を嫌いになった日はない。

 アリアは、音楽用語で「独唱」を意味する言葉だから。

 生まれつき、外見も内面も他人とは違う私。

 みんなの輪の中には入れない、一人ぼっちのソリスト。

 私はいつから孤独で、いつまで孤独なんだろう。

 私はいつからアリアで、いつまでアリアなんだろう……。


 長かった夏休みが終わり、二学期が始まった。

 私は一学期よりも、少しだけ前向きな気持ちで校門をくぐる。

 相変わらず、私の周りには偏見という視線が集まっていたけど。

 結局。

 私は疑問に対する答えを保留にしたまま、サークル活動を続けていくしかなかった。

 とはいえ、答えが見つからなくても、周囲の状況は少しずつ変わっていく。

 完成に近付いているオリジナル曲。 

 答えが見つからず、変化のない私。

 遠くなっていくみんなの背中。 

 一人取り残される不安と焦り。

 そんな陰鬱な心境を押し隠したまま、今日も活動に参加する。

 放課後になって。

 顔を合わせた私たちは、ちょっと困っていた。 

 活動に使っていた部室が、使えなくなってしまったから。

 今までは空いている部室を勝手に使っていても、夏休みだったこともあって、先生に見つかることはなかった。

 でも、学校が始まるとそうもいかない。

 案の定、すぐに先生に見つかり、無断で部室を使用しないようにと注意されてしまった。 

 仕方なく、私たちは放課後の屋上や中庭で、こっそり活動することにした。

 キーボードも持ち込み禁止となり、録音テープでの伴奏になってしまったけど、幸い曲の方は完成間近で、あとは歌を合わせればいいだけだったから、作業はそれほど多くはない。 

 部室を閉め出されたというのに、完成目前ということもあって、私たちのテンションはむしろ高まっていたように思う。

 そうして、九月の半ば。

 ついに、私たちのオリジナル曲が完成した。

 私たちの表現したいこと、伝えたいことが詰まった歌。

 自分たちで作詞をして、作曲をして、想いをたくさん込めた歌。

 テーマは、未来。

 大人になりきれていない複雑な年頃の、不安や葛藤の中で描く未来。

 今の自分が想い描く幸せと、未来の自分が感じているだろう幸せ。

 大人になって忘れてしまった、少女時代の夢や憧れ……。

 私たちはみんな、今まで経験したことのない充実感と達成感を感じていた。

「せっかくだから、たくさんの人に聞いてもらいたいね」

 誰が言い出したのか、なんて忘れてしまった。

 それは、みんなの共通の意見だったから。

 ちょうど、秋には文化祭がある。

 そこで発表しよう、ということになった。

 正式な部活としての発表じゃなくても、実行委員会の承認が下りれば、会場を手配してもらえるらしい。

 私たちの他にも、すでにいくつかのサークルが申請しているとのことだった。

 昼休み。

 私たちはそろって実行委員会に赴いていた。

 もちろん、私たちの発表を承認してもらうために。

 ところで、申請するにあたってサークル名を決めていなかったことに、今さらながら気が付く。

 私たちはその場であれこれと相談したけど、結局、川上さんが不意に呟いた「Me,s」という名前に落ち着いた。

 どうも、前々から彼女の中で漠然と決めていたらしい。

 語源は「私を……」の複数形から、「私たちを知ってもらいたい」という想いで付けたとのこと。(ちなみに読み方はミーズ)

 オリジナル曲を歌う私たちにとって、ぴったりの名前かもしれない。

 申請を済ませてから、数日後。

 委員会から会場の手配と、発表時間の割り当てが済んだことを知らされた。

 会場は講堂。

 合唱部の発表の空き時間に、有志団体の発表として使わせてもらえることになった。

(よりにもよって、合唱部と同じ会場。

 それも、発表の順番は最後だなんて……)

 私は、少し複雑な気分だった。

 サークル活動を始めてから、講堂には行っていない。

 無意識に、合唱部を避けていた気もする。

 合唱部の発表に比べれば、私たちの活動なんて見劣りするものだったから。

 その日の放課後。

 止せばいいのに、私は用事があるからと言ってみんなと別れ、一人講堂へと向かっていた。

 今の活動を始めるまで、毎日のように通っていた講堂。

 響いてきたのは、一学期とは比べ物にならない素晴らしい歌声だった。

 聞けば、夏の終わりに合唱コンクールがあったらしい。

 コンクール出場で連帯感が強まったのか、より完成度の高い合唱になっていた。 

 私は、そこから一歩も動けなくなってしまう。

 思わず聞き入ってしまった、というのももちろんあるけど、同時に不安になってしまったから。

 だって合唱部の表現方法に比べたら、私たちの表現方法なんてあまりにも稚拙で、下手……。

 どう考えたって、かなうはずがない。

 そんな私たちの発表を聞いて、一体何を得られると言うんだろう。

 一体何の意味があると言うんだろう、って。


 眠れない日々が続いていた。

 私の心の中には、大きな不安があったから。

 文化祭が近付くにつれて、みんなのテンションは上がっていった。

 たくさんの人に聞きに来てもらえるように、チラシを作って配ったり、掲示板で告知したり……。

 歌の練習以外にも、やることはたくさんあった。

 もちろん、練習の方も疎かにはできない。

 当日は生演奏、生歌での発表なので、今からとても緊張する。

 でも、思うように練習に時間を取ることができなかった。

 クラスの出し物の方に時間を取られ、なかなか全員で集まれなかったから。

 私は正直、とても不安だった。

 練習不足のせい、というのもあるけど、私はうまく歌うことができないから。

 私と川上さんがメインのパート、白河さんがコーラスのパート。

 柳瀬さんのキーボード伴奏での、三人だけの合唱。

 その中で、吃音やろれつの回らない発音での私の歌唱は、どうしても目立ってしまう。

 川上さんや白河さんの綺麗なハーモニーを妨げてしまう。 

 みんな気にしない、って言ってくれるけど、やっぱり私一人だけ浮いている。

 せっかくみんなで作った歌なのに、私のせいで台無しにしてしまう。

 こうなることは分かっていた。

 今までのように大勢での合唱なら私の障害も目立たず、一緒に歌っても気にならなかっただろう。

 でも、たった三人の輪の中ではどうしても、私の歌声が目立ってしまう。

 だったら伴奏者になればいいのに、と思われるかもしれない。

 私だって、伴奏者が仲間外れだなんて、決して思わない。

 でも、私はみんなの輪の中にいたかった。

 大きな輪の中で歌いたかった。

 大勢で歌った合唱の温もりが、未だに忘れられない。

 我侭かもしれないけど、三人の輪ではやっぱり寂しい。

 文化祭が近付くにつれて、その不安はだんだんと大きくなっていく。

 このまま……。

 発表なんかしないで、ずっとこのまま楽しくいられたら……。

 なんて思ってしまうのは、私の我侭だろうか。

 せっかく取れた貴重な練習時間でも、私は歌に集中することができなかった。

 ずっと、心の奥で考えながら歌っていたから。

 私は歌わない方がいいんじゃないか、って。

 自分の発音の悪さが情けなくなる。

 自分の声が耳に入るのがとても苦痛で、嫌になる。

 そんな私の歌を聞いて、みんな何を感じているんだろう。

 伝える私自身が苦痛だと思っている歌を聞いて、何を思っているんだろう。

 そもそも、うまく歌うことのできない私を、どうして川上さんは誘ったんだろう。

 可哀想だったから?

 私は、お情けで特別に加えてもらっていたの?

 そんな風に考えてしまう自分自身にも、嫌悪感を抱き始め……。

 私は、さらに自信を失くしていった。


 それから数日後。

 私はみんなに打ち明けていた。

 私は発表には参加しない、と。

 当然、その理由をみんなに問い詰められるわけで……。

 私は、今の自分の気持ちを素直に打ち明けることにした。

 すると、

「みんなで作った歌なんだから、やっぱりみんなで歌いたいよ」

「アリアの言葉も入っているんだから、アリアが伝えなきゃ意味がないでしょう?」 

「合唱部とか、他のサークルとかと比べる必要はないんじゃない?

 私たちは私たちで好きにやれば」

 なんて、白河さんと柳瀬さんに詰め寄られてしまう。

「うまく歌えなくたっていいじゃない。

 私たちの歌は、私たちの想いを伝えるために作った歌なんだから」

 と、川上さんが続ける。

「アリアは、歌がうまくないと感動できない?」

 問われて、私は首を振る。

「確かに、合唱部の歌には力もあるし、魅力もある。

 でも感動する要素って、歌唱力だけじゃないと思う」

 大事なのは、何のために歌っているのか。

 何を表現したくて、何を伝えたくて歌っているのか。 

 私たちが表現したいものは歌唱力じゃないし、伝えたいものは言語じゃない。

 歌を通して伝えたいのは、その先にある自分の想い。

 だったら、何を迷う必要があるの?

 弱気になる必要なんかない。

 比較する必要なんかない。

「うまく歌えないと、表現できない?

 うまく話せないと、伝わらない?

 伝える側がそんなんじゃ、聞いてる人だって感動できないよ」

 ……私は馬鹿だ。

 私は何にも分かっていなかった。

 みんなは、とっくに自分の歌に対する想いを固めていたというのに。

 私は今まで、何て曖昧な気持ちで歌を歌っていたんだろう。

 歌がうまいとは言えない。

 ハーモニーだって綺麗じゃない。

 演奏も下手だし、歌詞も曲も稚拙。

 そんなことは、みんなとっくに分かっていた。

 それでも、私たちは私たちの作った歌で。

 私たちの想いが詰まった歌で、伝えたい。

 そんな気持ちで歌えばいいって、分かっていたんだ。

 それなのに、私は……。

「それに私、同情とかでアリアを誘ったんじゃないよ。 

 だから、講堂の前で打ち明けてくれた時の『歌いたい』っていう素直な気持ち、大事にしてほしいな」

 川上さんは、私の瞳をまっすぐに見つめて言った。

 それを聞いて。

(私は……)

 それでも。

 私は、それに応えることができなかった。


 その日、私はとても疲れていた。

 練習が終わり、みんなと一緒に帰る途中でのこと。

 連日の寝不足と考え事でボーっとしていた私は、三人の後を少し遅れて歩いていた。

 あの後。

 川上さんに言われた言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。

「……アリア」

 白河さんと柳瀬さんが教室を出て行くのを見届けてから、川上さんは静かに私を呼び止めた。 

「うまく歌えないからとか、ハーモニーが崩れるからとか……。

 今まで気にしてなかったのに、どうして急にそんなこと言い出すの?」

 その声は少し冷たく、怒っているようにも感じられた。

「文化祭で発表するって決まってからだよね。

 アリアが自分の歌声を気にするようになったの」

(そんなこと、ないよ)

 とは云えなかった。

 だって、確かに歌を作っている間は夢中だった。

 言葉を紡いで、音を奏でて、想いを形にすることは楽しかった。

 彼女の言うように、たくさんの人に聞かれることを意識するようになってからだ。

 合唱部や、他のサークルを気にするようになったのは。

 歌唱力や、表現方法を気にするようになったのは。

 自分の障害を気にするようになったのは……。

 だから、きっと。

 私は、歌うことが嫌なんじゃなくて……。

「自分の声、人に聞かれるの嫌? 

 障害のこと、人に知られるの嫌?

 だから合唱で歌いたいの?

 目立たないように大勢で歌いたいの?

 それって、逃げだと思う」

 知らず、唇を噛み締めていた。

 彼女の指摘は、自分でも気付かないふりをしていた部分を突いていたから。

 深層心理を見透かされたようで悔しくて、恥ずかしかった。

 歌うことが好きなのに、声を聞かれるのは嫌。

 歌うことが好きなのに、そう主張する場がない。

 でも、合唱の中でなら、障害を気にせずに自分の存在を主張できる。

 なら……。

 私にとって合唱って、何なのかな。

 自分の障害を目立たなくするための、隠れ蓑に過ぎないのかな。

(みんなの歌唱の妨げになるから、自分は身を引きます)

 そんなの、自分勝手な言い訳。

 自分の障害を知られたくないという心理からの、美化された言い訳。 

 私は、いつもそう。

 自分が「特別」だという理由から、自分のことしか考えてこなかった。 

 リンの世話だって、優子ちゃんとの別れの日だって、私は自分のことしか考えてなかった。

 そうして、今も言い訳をしている。

 自分を守るために、逃げ出そうとしている。

「それでいいの?

 アリアの伝えたい言葉、想い……。

 自分の声で伝えなくて、本当にいいの?」

 川上さんは最後にそう言ってくれたけど……。

 自分勝手な私に、みんなと一緒に歌う資格なんてあるんだろうか。

 純粋で、綺麗な気持ちで歌っているみんなと一緒に歌う資格なんて、あるんだろうか。

 みんなの背中が、遠い……。

 辺りはすっかり暗くなり、行き交う人の姿は疎ら。

 街灯の弱弱しい明かりだけが、歩道を淡く照らしている。

 車の往来の少ない、横断歩道もない長い直線道路。

 その横断歩道のない道路を、みんなが渡る。

 それに続いて、私は左右の確認をせずに道路を渡ろうとして……。

 パアアアアン!

 鳴り響くクラクション。

 その音で、横からの強烈な光に気が付く。

 それは、すごいスピードで迫る車のヘッドライト。

 あっと気付いた瞬間には、私の身体は派手に吹っ飛ばされていた。

 視界がぐるぐると回り、スローモーションのように流れていく。

 でも、そんなめちゃくちゃな映像を冷静に整理できるわけもなく、一瞬のうちに脳内から掻き消えたかと思うと、私は道路に転がっていた。 

 とはいえ、急ブレーキでだいぶスピードが落ちていたようだから、思ったよりも衝撃は強くはなかった。

 それよりも混乱の方が大きくて、痛みなんてほとんど感じなかった。

 何が起きたのか分からないまま、私はヨロヨロと立ち上がり、鞄を拾う。

 とりあえず、自分で立つことができたくらいだから、大したことはなかったんだろう。 

 血相を変えて車から降りてきた若い男性は、動揺しながらも、すぐに救急車と警察を呼んでくれた。

 救急車が来るまでの間、彼は何度も謝り、ハンカチで傷口を拭ってくれた。

 みんなもすぐに駆け寄ってきて、心配そうに私を取り囲む。

 中でも川上さんの動揺はひどくて、私の名前を何度も呼びながら泣いていた。

 みんなが動揺している中、私は逆に、だんだんと冷静になってきていた。

 とりあえず噛んでいたガムは包んでおこう、だなんて。

 見れば、私を吹っ飛ばしたのは綺麗な赤いスポーツカー(高そう)。

 ドライバーの男性には、悪いことをしたかな。

 救急車と警察が到着すると、私は自分の足で救急車に乗り込む。

 みんな付き添ってくれて、私が言葉をうまく話せないことも含めて、事情を説明してくれた。

 病院に着くと、私は診察と軽い検査を受ける。

 派手に吹っ飛ばされたみたいだけど、それほど強い衝撃ではなかったようだ。

 急ブレーキでだいぶスピードが落ちていたようだし、パンパンに物を詰めていた鞄が衝撃を吸収してくれたことも幸いしたらしい。

 診察室から出てくると、両親が待っていた。

 二人とも真っ青な顔をして、見るからに動揺していた。

 とくに母の方はひどく取り乱していて、思わず笑ってしまう。

 でも、それと同時に少しだけ、嬉しかった。

 あんなに動揺するほどに、私のことを想ってくれていたんだ、って。 

 母は私を優しく、強く抱き締めてくれた。

 背中越しに見えた待合室では、夜も遅い時間だというのにみんなが待っている。

 三人とも始終動揺していたけど、一番冷静だった柳瀬さんが両親や先生に連絡をしてくれたらしい。

 みんな、こんな私を本当に心配してくれたんだ……。

 それが嬉しくて、少し照れくさかった。


 病院の先生に礼を言い、父の車に乗り込む。

 幸い、骨に異常もなく、左肩の軽い打撲だけで済んだから、その日のうちに帰ることができた。

 肩を吊る格好が、少しだけ痛々しかったけど……。

 後で聞いた話によると、あの赤い車。

 実はあの日に届いたばかりの新車だったらしい。

 私の怪我はたいしたことはなかったけど、男性の方は前方不注意として扱われ、免許はしばらく停止。

 にもかかわらず、何度も家まで謝りに来てくれたりして、とても誠実な対応だった。

 私の不注意で、あの男性にはとても申し訳ないことをしたと思う。

 家に着くとすでに明け方近くなっていて、心身共に疲れきっていた私は、久しぶりに深く眠ることができた。

 その中で、私は懐かしい夢を見ていた。


 それは、遠い日の夢。 

 小学生だった頃の思い出。

 私の隣にいるのは、一匹の小さな子犬。

 嬉しそうに尻尾を振って一緒に散歩をした、あのリンだった。

 たった一年という短い間だったけど、一緒の時間を共有したリン。

 大好きだったリン。

 ……ああ。

 どうして今まで思い出さなかったんだろう。

 リンのお陰で、今の私があるんじゃないか。

 学校に馴染めなかった私に、笑顔をくれたリン。

 差別の意味と、涙を教えてくれたリン。

 それなのに、私は思い出そうとしなかった。

 でも、忘れたかったわけじゃない。

 ただ、悲しい思い出も後悔もあったから、目を背けて逃げていたんだ。

 私は、臆病だったから。

 今でも同じ。

 自分の存在を他人に受け入れてもらえないのが、怖い。

 あの頃から、何も変わっていないじゃないか……。


 頬を伝う涙の熱さで、目が覚める。

 私は、泣いていた。

 起き上がってからも、枕に顔を埋めて泣いた。

 みっともなく、声にできない嗚咽を噛み殺しながら泣いた。

 夢を見て泣いたのは、これが初めてかもしれない。

 そもそも、こんな風に泣いたのは何年ぶりだろう。

 最近の私は、こんなに激しい感情を表に出すことがなかったから。

 でも、思い切り泣いて何だかすっきりした。

 涙は心を洗い流す。

 私の心の中のモヤモヤも、一気に拭い去られたような気がする。

 翌朝早く、私はアルバムを引っ張り出していた。

 もちろん、リンと私が写っている写真を見るために。

 一年にも満たない短い時間だったから、そんなに数は多くなかったけど、そこにいる私は常に笑顔だった。

(この頃の私って、いつもこんな顔してたんだ……)

 切なさと懐かしさで、また胸が熱くなる。

 涙が零れそうになる。

 リンに、会いたい。

 私はいてもたってもいられなくなって、父に尋ねていた。


 電車に揺られること、数時間。

 私は一人、物思いに耽っていた。

 今、私は長らく疎遠だった父の実家へと向かっている。

 リンのお墓は、祖父母の家の庭先にあるという話だった。

 私の家の狭い庭先にお墓を作るわけにもいかず、父が気を利かせて田舎にお墓を移してくれたらしい。

 あの頃の私はいつも泣いていて、そんなこと知りもしなかった。

 小学生の私には辛い現実だと思ったんだろう。

 父だって、なるべくその話題は避けているようだったし……。

 私は、嬉しかった。

 父がちゃんと、お墓を作ってくれていたことが。

 生きていたっていう履歴を残してくれていたことが、嬉しかった。 

 リンがこの世を去ってから、十年。

 時の流れは優しくて、残酷だ。

 死別には、別れが二度もあるから。

 会えなくなってしまう別れと、忘れてしまう別れ。

 死別は確かに悲しいことだけど、忘れてしまうことは、もっと悲しいこと。 

 だから遺された人のためにも、履歴が必要なんじゃないかな。

 なんて、最近は思う。


 駅に着くと、祖父が待っていた。

 長らく疎遠だったはずなのに、私のことを一目見て孫娘だと分かったようだった。

 きっと、父が写真入りの年賀状を毎年送っていたからだろう。

 祖父は、肩を吊った痛々しい姿の私を見て、辛そうに表情を歪める。

 十数年ぶりの再会。

 私は祖父の顔も祖母の顔も覚えてないから、いまいち実感が湧かないけど。

 祖父の方は、私に対する憐みや後悔といった、様々な感情の入り混じった複雑な表情をしていた。

 私が生まれてから、十六年。

 国際結婚、ハーフの孫娘、言語障害……。

 きっと、様々な葛藤があったんだと思う。

 十六年という歳月は、とても長い時間だけど。

 それでも、心の整理をするには必要な時間だったんだと思う。

 祖父は目を細めながら、私の頭を優しく撫でてくれた。

 もしかしたら、私の頭を撫でるのも、これが初めてだったのかもしれない。

 祖父の車に乗り、父が生まれ育った実家へと向かう。

 家に着くと、祖母が温かく迎え入れてくれた。

 祖母は色々な話をしてくれたけど、私はただ頷いて応えることしかできなかった。

 でも、二人ともそんな私の反応を気にせず、旅の疲れや怪我のことを気遣ってくれて、熱いお茶と柿を出してくれた。

 一休みしたところで、私は一人、家の裏手に出る。

 私の家の庭に比べてかなり広い庭の片隅に、それはあった。

「リンのお墓」と、父が書いたと思われる古ぼけた字。

 その小さな墓石の前に私は座り、手を合わせた。

 そうして、語り掛けるように言葉を紡ぐ。

 脳裏に、彼の姿を想い浮かべながら。

(……ごめんね)

 まず初めに出てきたのは、謝罪の言葉だった。

(ずっと、来てあげられなくて)

 寂しかったよね、と。

 思えば、リンには寂しい思いばかりさせていたような気がする。

 私は途中で世話を投げ出してしまったから、その頃のリンは寂しさでいっぱいだったに違いない。

(でも、私……)

 忘れたかったわけじゃない。

 ただ、目を背けていただけなんだ。

 私は、臆病だったから。

 リンと同じように差別される立場が、とても怖かった。

 だから……。

 いや、それでも。

 そんなこと、気にしなければ良かったと。

 後悔している、今でも。

 結局、リンを差別しようとしていた人たちと同じように、私はリンを見るようになってしまっていたんだ。

 差別は、悲しいこと。

 父は、それを教えたくて、リンを飼うことを許してくれたのに……。

 私は、約束を守れなかった。

 それなのに、誰も私を責めなかった。

 だからあの時、私は自分で自分を責めた。

 たくさん泣いて、後悔した。

 泣いても許されないことだけど、泣いた。

 そうして、今も。

(……っ)

 私の両目から、大粒の涙が零れ落ちる。

 今まで忘れていたのに、今になって涙を流している私は、何て薄情な人間なんだろう。

(……ごめんね。

 私、本当に酷いよね)

 いつか、リンは泣いている私の頬を舐めて慰めてくれた。

 でも、そのリンはもういない。

 今は、私一人。

 誰かに甘えることなんてできない。

 誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていても、何も変わらない。

 自分の居場所は、自分で見つけるもの。

 いつだったか、いつも自分にそう言い聞かせていたんじゃなかったっけ……。

(……は)

 大きく息を吸って、私は立ち上がる。

 涙がこれ以上零れ落ちないようにと見上げた空は、紅く眩しかった。

 夕焼けが、私の心を優しい色に染めていく。

 うろこ雲が夕陽で黄金色に照らされ、まるで天使の翼のように見えた。

(私……歌いたい)

 知らず、そう口にしていた。

 無意識だったから、それはきっと本心だったんだろう。

 口に出してみたら、何だかすっきりした気がする。

 何のために歌うのか。

 何を想って歌うのか。

 その答えはまだ、見つからないけど。

 もう、逃げない。

 だから、見ていてね。

 私はもう一度手を合わせて、そう約束したのだった。


 文化祭が間近に迫った、ある日のこと。

 私は、ふと思い出していた。 

 あの日、川上さんに言われたことを。

「うまく歌えなくたっていいじゃない。

 私たちの歌は、私たちの想いを伝えるために作った歌なんだから……。

 講堂の前で打ち明けてくれた時の『歌いたい』っていう素直な気持ち、大事にしてほしいな」

 素直な、気持ち……。 

 そもそも、どうして歌うことが好きになったのか。

 歌うことが好きになった「きっかけ」は何だったのか。

 それすらも思い出せないのに、不純な動機から歌を始めた、なんて決め付けてしまうのは、少し早すぎるのかもしれない。

 今になって思う。

(みんなの輪の中にいられるなら、歌じゃなくても、何でもよかった……)

 だったら、どうして私は歌を選んだんだろう。

 みんなの輪の中に入りたいだけなら、スポーツでもよかったはずだ。

 それなのに、私は歌を選んだ。

(きっと、たまたま歌だっただけ)

 いや、違う。

 たまたま選んだものだったなら、あんなに夢中になったりしない。

 あんなに悩んだりしない。

 だから、きっとあるんだろう。

 歌でなければならなかった理由が。

 歌うことが好きになったきっかけが。

 それが思い出せない限り、答えられない限り、私は前に進めない。

 みんなと一緒に歌うことはできない……。

 幼い頃。

 私は、母の歌う歌が好きだった。

 自分ではうまく歌えないから、母の歌を聞くのが大好きだった。

 そんな私が、いつしか聞くことよりも、歌うことを好きになっていた。

 母に対する罪悪感から、ってわけじゃない。

 自分の意志で、歌いたいって思うようになった。

 そのきっかけは一体、何だったんだろう。

 私が歌に興味を持ち始めたのは、確か小学生の頃から。

 きっかけは、ただ一つの歌だったような気がする。

 でも、それがどんな歌だったのか、思い出せない。

 初めて聞いた歌だった。

 名前も知らない歌だった。

 思わず泣いてしまうような歌だった。

 でも、そこまで。 

 記憶の片隅には残っていても、はっきりと思い出せない……。 


 家に帰ると、私は小学校の頃のアルバムを探す。

 そこに何か手掛かりがあるんじゃないかと思ったから。

 でも、なかなか期待通りに事は進まない。

 遠足や運動会の写真ばかりで、手掛かりになるようなものは何もなかった。

 次に、作文を引っ張り出してくる。

 小学生らしい、平仮名ばかりで書かれた脈絡のない文章。

 これも修学旅行の思い出や、いろんな行事の感想文ばかり。

 その他、絵日記や図画の時間に書いた絵も引っ張り出してみたけど、どれも手掛かりにはならなかった。

 やっぱり、歌を好きになり始めた頃のものが見当たらない。

 もっとも、その正確な時期さえもよく覚えてないんだけど。

(……はあ)

 私は大きなため息を吐き、ベッドに横になりながら作文を読んでいた。

 そのうち瞼が重くなってきて、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 ベッドの上に、たくさんの思い出を広げたまま……。


 耳をすませば、どこか遠くで誰かが歌っている。 

 目を開ければ、見覚えのある景色の中で誰かが歌っている。

 たくさんの生徒がいる体育館の舞台の上で、自分より少しだけ大人びた生徒たちが、身振り手振りを交えながら歌っている。

 懐かしいピアノの音。

 優しいメロディ。

 温かい歌詞。

 ……そう。

 それは、かつて私が心を奪われた歌。

 遠い記憶の中の私は、その歌を聞いて泣いていた。

 知らず、胸が熱くなっていた。 

 頬を伝う涙の熱さで気が付く。

 自分でも理由は分からないけど、私は泣いていた。

 声も上げず、ただじっと、舞台の上で合唱する生徒を見つめながら……。

 どうしてだろう。

 決して、歌がうまかったわけじゃない。

 ハーモニーが綺麗だったわけじゃない。

 身振り手振りを交えて合唱していたから、特別に感じたわけでもない。

 なのに……。

 どうして私は、泣いているんだろう。

 一人、泣いているんだろう。


 長いこと。

 必死に答えを探していたからだろうか。

 ようやく、「きっかけ」を思い出すことはできた。

 記憶の混同がなければ、あの歌に間違いはない。

 でも、未だ惹かれた理由が分からない。

 歌詞が良かったのか、メロディが良かったのか、身振り手振りを交えて合唱していたのが良かったのか……。

 夢の中、見覚えのある景色の中で歌われていた歌は、メロディこそ頭に残っているとはいえ、歌詞の方はおぼろげにしか覚えていない。

 後にも先にも、あの歌を聞いたのは一度だけ。

 だから、覚えてないのも当然なのかもしれない。

 何年も前にたった一度だけ聞いた歌を覚えている方が、奇跡なんだから。

 それでも、何となく覚えているということは、強烈な想い入れがあったからなんだと思う。

 それだけで、十分な手掛かりと言えた。

 だけど、あの歌にたどり着くのは思った以上に困難だった。

 まず、曲名が分からない。 

 歌詞の方も、おぼろげに覚えているのは歌い出しと終わりくらい。

 それも本当に正しい歌詞なのか、かなり怪しい。

 みんなの前で鼻歌を歌って聞かせても、口を揃えて分からないと答えるし……。

 私の鼻歌が下手なだけなのか、本当に知らない歌なのか、それすらも分からない。

 もちろん、インターネットも使って調べてみた。

 カラオケの歌詞を検索するサイトで、うろ覚えな歌い出しを入力。

 出てきた十数曲の歌を全て調べてみたけど、どれもあの歌のメロディとは違っていた。

 私は、がっくりと項垂れてしまう。

(歌い出しが間違ってるのかな……)

 そもそも、小学校で歌うような歌だ。

 童謡の類かもしれないし、外国の歌を日本語訳にしたものかもしれない。

 だとしたら、カラオケに入っているかどうか疑問だ。

 私は次に、小学校の音楽の教科書を引っ張り出してくる。

 小学校で歌うような歌なら、教科書に載っているかもしれないと思ったから。

 幸いなことに、音楽の教科書だけは六年分全て大事に保管してあり、歌集も残っていた。

 授業で習った歌、知らない歌、外国の歌……。

 その一つひとつを、丁寧に調べていく。

 でも、そのどれもがあの歌に当てはまらない。

 様々な手段で探してみたけど、結局深夜になっても見つからず。

 次の日も、その次の日も私は探し続けた。 

 思い出すことができたんだから、見つからないはずがない。

 記憶の混同で、勝手に創られてしまった歌じゃない限り。

 でも、時間が経てば経つほど手掛かりは遠退いていく。

 せっかく思い出せた「きっかけ」も、だんだんと曖昧になっていく。

 人の記憶は色褪せやすく、ましてや夢で見たことなんて、長期間覚えていられるはずもない。

 強い焦燥感に駆られながらも、私は半ば諦め始めていた。


 覚えているのは、おぼろげな歌い出し。

 そして、断片的な歌詞とメロディ。

 手元にあるのは、僅かなキーワードだけ。

 そのどれもが曖昧で、はっきりしたものは何一つない。 

 当時の同級生や先生に聞こうにも、どう説明したものか。

 歌を聞いた時期さえ覚えてない。

 突拍子もない話だし、情報も曖昧すぎる。

 聞かれた側だって、きっと困惑してしまうだろう。

 頼りになるのは、自分の中にある記憶だけ。

 ずいぶんと色褪せてしまった、遠い日の記憶だけ。

(私は、歌うことが好き)

 ……だったら。

 どうして、忘れてしまったんだろう。

 私にとって、その「きっかけ」は何より大切なものじゃなかったんだろうか。

 私にとって「歌」って何なんだろう。

 私が表現したいこと、伝えたいことって何なんだろう。

 その疑問を、ずっと蔑ろにしてきたから忘れてしまったのかもしれない。 

 その日も。

 私は深夜まで、インターネットを使って調べていた。

 歌い出しで検索してみたり、小学校や合唱という言葉を含めて検索してみたり……。

 結局。

 思い付く限りの言葉を含めて検索してみたけど、あの歌は見つからなかった。

(……はあ)

 ノートに纏めた断片的な歌詞やキーワードを眺めながら、私は大きなため息を吐く。

 窓を開けると風はすっかり冷たくなっていて、白い息が夜の空気に溶けていった。

 見上げれば、空にはオリオン座。 

 星の瞬きは、もう冬に近い。

 文化祭まで、あと僅かしかない……。 

 私は無意識に、もう一度大きなため息を吐いていた。


 そんなある日のこと。 

 学校から帰ってきた私は、珍しく新聞を読んでいた。

 新聞、といっても定期的に配られる「地域だより」で、それほど分厚いものじゃない。

 近隣の学校で行われた地域活動や、地域限定のイベント、ボランティア活動などを取り上げたローカルな新聞だから、普段ならめったに見ることはないんだけど……。

 その日だけは興味を引かれ、思わず手に取っていた。 

 何故なら、 

「障害について考え、みんなで歌を歌いました」

 なんて言葉が、見出しに書かれていたから。

 障害はもちろん、合唱も私にとっては無視できない言葉。

 自身のコンプレックスでもある、障害の記事にネガティブなイメージを抱きつつも、歌という言葉が気になり、私はページをめくる。

 記事を読むと、ある小学校で体験学習の一環として障害者を招き、生徒に障害について考えてもらった、という内容だった。

 最近になって、障害について理解を深める運動も、だんだんと広まってきた気がする。

 私が小学生だった頃よりも、少しずつ障害が認知されてきた証拠だろう。

 記事の最後には、全校生徒で歌を歌ったとあり……。

 直後、ドクン、と心臓が高鳴った。

(……え?)

 何となく記事を読んでいた私は、ある言葉から目が離せなくなる。 

 それが、見覚えのある言葉だったから。

 ノートに纏めたキーワードの中に、同じ言葉があったから。

 断片的に綴った歌詞の、最後の一節。

 全校生徒に歌われたのは、それと全く同じ言葉が曲名の、歌……。 

 間違いない、と確信する。

 私は急いでパソコンを起動させると、その曲名を入力して検索する。

 歌い出しに拘って検索していたけど、歌い終わりこそが曲名だったらしい。

 とあるサイトで流れてきたのは間違いなく、あのメロディだった。

 遠い思い出の中にある、あの歌に間違いなかった。

 まさか、こんなに身近なところで歌われていたなんて……。 

 懐かしい旋律に、胸が熱くなる。

 温かい歌詞に、リンや優子ちゃんと過ごした日々が重なる。

 私は、泣いていた。

 あの時と同じ。

 心に空いた穴を埋めていくように、熱いものがじんわりと広がっていく……。

「ひとりひとりの……」という歌い出しで始まる、その歌は。

 もともとは、お年寄りや障害を持つ人にも住みよい町づくりを、という想いから作られたらしい。 

 もちろん、当時の私はそんな「背景」なんて知りもしなかったけど。

 それでも強烈に惹かれたのは、その歌に込められたメッセージを何となく感じ取ったからかもしれない。

 一年生を迎える会で、その歌を初めて聞いたとき。

 私の心の中には、一つの疑問が浮かんでいた。

 舞台の上にはたくさんの生徒がいる。

 男の子、女の子、小さい子、大きい子……。

 人はみんな、他人とは違う。

 体格も、性格も、考え方も、それぞれ違う。

 それなのに……。

 どうしてあんなにも心を一つにできるんだろう、って。

 でも、その歌を聞いているうちに気が付いたんだ。

 他人と違っていても決して「一人じゃない」んだ、って。

 他人と違っていても人と人は分かり合えるんだ、って。

 心が繋がっていれば、力を寄せ合うことができる。

 みんなで一つのことができる。 

 一人じゃないって、何て心強いんだろう。

 一人じゃないって、何て安心できるんだろう。

 舞台の上から歌を通して伝えられた想い。

 満たされていく心。

『私たちは、一人ひとり誰でも平等に、みなさんを受け入れます』

 新一年生に向けられたのは、きっとそんなメッセージだったんだろう。

 でも、私にはそれが他人事とは決して思えなかったんだ。

 何故なら私はハーフで、障害者で、一人ぼっちだったから。

(……私も、一人じゃないの?

 一人ぼっちの人なんて、本当はいないの?)

 幼い頃から自分は「他人とは違う」と、頑なに言い聞かせてきたから、そう思えたのかもしれない。

 だから、その歌に込められたメッセージがとても優しくて、温かくて……嬉しかった。

 私はきっと、その歌の「想い」に惹かれたんだと思う。

 それから、じゃないかな。

 私が歌に夢中になっていったのは。

 一人ぼっちの人を作らないために。

 一人ぼっちだと思っている人に、そうじゃないんだって気付いてもらうために。

「私もそんな歌を歌いたい」って、思い始めたのは……。


 待ちに待った文化祭。

 私は今日という日を、特別な気持ちで迎えていた。

 早起きをして、制服の青いリボンも普段とは違う特別なものに代えて……。

 派手に飾り付けられた校内は、たくさんの人で賑わっていた。

 演劇、展示、食べ物、仮装……。

 それぞれのクラスや団体が、力を合わせて作り上げたもので溢れている。

 私たちも、この日のために少ない時間の中で練習してきた。

 たくさんの人に聞きに来てもらえるように、チラシも作った。

 自信喪失、自己嫌悪、独り善がり……。

 たくさん悩んで答えを出した。

 私にとって「歌」って何なんだろう。

 私が表現したいこと、伝えたいことって何なんだろう。

 時間は掛かったけど。

 その答えを、私なりに出したつもりだ。

 クラスの出し物の方が一段落すると、私たちは講堂に集まった。

 たくさんの人でざわつく講堂に、夕陽が紅く差し込む。

 私たちの出番まで、あと僅か。

 初めての発表で、とても不安になる。

 緊張で、呼吸が乱れそうになる。

 今日は朝からこんな調子で落ち着かず、私はちょっとした合間に、講堂を何度も覗きに行っていた。 

 やっぱりというか、何というか。

 合唱部や他のサークルの発表は素晴らしかった。

 完成されたハーモニーや演奏は、私たちのものとは比べ物にならなかった。

 気にならない、と言えば嘘になる。

 けど、別にかまわない。

 大事なのは、想い。

 何のために歌っているのか。

 何を表現したくて、何を伝えたくて歌っているのか。 

 私たちが表現したいものは歌唱力じゃないし、伝えたいものは言語じゃない。

 歌を通して伝えたいのは、その先にある自分の想い。

 それが、聞いている人に少しでも届けば、充分……。

 私たちは互いに見つめ合い、呼吸を合わせる。

 そうして一つ大きく頷いた後、柳瀬さんが鍵盤に指を置いた。

(……大丈夫。

 人目なんて気にしない。

 偏見なんて気にしない。

 私は私。

 それに、私は一人じゃない。

 だから、思いっきり歌おう)

 柳瀬さんの伴奏が始まる。

 私は大きく息を吸って、歌い出す。

 思いきって声を出したから、練習通りに歌い始めることができた。

 でも、すぐに違和感に気付く。

 メインのパートは私と川上さんで歌うはずだけど、彼女は歌っていなかった。

 どうしたんだろう、と思って川上さんの方を横目で見ると、彼女は私を真剣な眼差しで見つめていた。

 固く、両手を胸に当てて、私の歌を見守るように。

 きっと、それは彼女なりの気遣いだったんだろう。

 あえて「私一人」に歌わせることで、自信を持たせたかったのかもしれない。

 思えば、私は自発的に口を開いたことなんて、今までほとんどなかった。

 もちろん、人前に出て一人で歌ったことなんて、今まで一度もなかった。

 そんな私が、今日。

 初めて一人で、人前で歌を歌えている。

 私は、変われたから。

 川上さんはその変化に気付いて、私に花を持たせてくれたのかもしれない。

 とはいえ、彼女の様子を見るに、一か八かの賭けだったんじゃないかと思う。

 私はそんな川上さんに応えるため力強く頷くと、そのまま歌い続けた。

 発音も下手だし、音程もうまくとれないし、人の顔を見ている余裕もないけど。

 歌を途切れさせちゃいけない、みんなの言葉を伝えなきゃいけない、と一つひとつの想いを丁寧にメロディに乗せていく。

 広い講堂の中、たくさんの人を前にして。

 たった一人で歌っているのに、心細くはなかった。

 だって、これは「独唱」なんかじゃないから。

 私は、決して一人じゃないから。

 サビの部分から、白河さんのコーラスが加わる。

 二番からは川上さんの歌も加わり、本来の「Me,s」の形となる。

 何度も歌った歌。

 私たちの想いの詰まった、初のオリジナル曲。

 決して歌がうまいとは言えないけど。

 歌詞も演奏も稚拙だけど。

 あの日、心に開いていた大きな穴。

 それを埋めてくれたもの。

 一人じゃないっていう心強さと、安心感。

 私がそうだったように、今度は私が歌を通してそれを伝えたくて。

 一人ぼっちの人なんていないんだって、伝えたくて。

 私は、歌う。 

 想いを込めて。


 ……ずっと昔。

 私は、歌うことが好きだった。

 でも、私の歌を聞くと誰もが笑った。

 哀れみ、蔑み、同情……。

 そんな感情でしか聞いてくれなかった。

 誰も、私の歌をちゃんと聞いてくれない。

 私を認めてくれない、受け入れてくれない……。

 私は、歌うことが純粋に好きだった。

 でも、そう主張できる場がどこにもなかった。

 だから私は、いつも自分の居場所を求めていた。

 やがて、そんな私がたどり着いたのが、合唱だった。

 今思えば、それはただの逃げだったのかもしれない。

 歌ってる気になれて、みんなの輪の中にいられて……。

 こんなに都合のいい空間は、他にはなかったから。

(私は合唱が好き)

 そう云って歌うふりをしていれば、みんなに見てもらえる。

 そう云って歌うふりをしていれば、みんなの輪の中にいられる。

 歌を通して「私」という存在を受け入れてもらえる。

 いつしか私は、合唱という隠れ蓑を心地好く感じるようになっていった。

 歌うことよりも、みんなの輪の中にいることに心地好さを感じるようになっていった。

 にもかかわらず、私は歌うことが好き、だなんて自分自身をずっと騙し続けていた。

 どうしても自信のない部分は小さい声で歌ったり、歌わなかったり……。

 それで歌うことが好きだなんて、どうして言えるんだろう。

 本当に歌が好きなら、人目なんて気にしなければいい。

 うまく発音できなくても、自信を持って歌えばいい。

 でも、私にはそれができなかった。

 怖かったから。

 また一人ぼっちになるのが嫌だったから。

 自分自身を押し殺して、歌うことに妥協して、合唱という隠れ蓑の中で震えていた。

 これが私の居場所なんだって、自分自身を騙して、安心させようとしていた。

「きっかけ」さえも忘れて、ただ必死にみんなの輪の中に留まることだけを考えていた。

 自分はみんなと同じなんだって、みんなの輪の中に入れている普通の子なんだって、必死にアピールしようとしていただけなのかも知れない。 

 その行為に矛盾しかなくても、私にはそうすることしかできなかった。

 本当は自分の居場所を守りたかっただけで、夢も憧れもなく、空っぽだった。

 だから、純粋に歌を好きで歌っている川上さんたちがとても眩しくて、羨ましかったんだ。

 外見だけの私。

 偏見から内面を守るための、臆病者の言い訳。

 私を一番差別していたのは、私自身だったように思う。

 自分は「他人とは違う」って。

 それを言い訳にして、いろいろなことから逃げてきたから……。

 臆病だった私。

 一人ぼっちだと思い込んでいた私。

 歌う意味が見出せなくて、悩んだ日々。

 歌うことから逃げようとして、眠れなかった夜。

 ずっと探していた答え。

 かつて抱いていた想い。

 それを気付かせてくれた、あの歌。

 私を二度も変えた、その大切なきっかけを。

 私はもう、忘れない。


 翌日。

 久しぶりの、清々しい朝。

 早くに目が覚めた私は、いつもより少しだけ早く家を出る。

 凍える町の中。

 白い息で両手を温めながら、いつもは通らない道を行く。

 小学生の頃に使っていた、懐かしい通学路。

 特別な意味なんてない。

 ただ、せっかくだから、たまには寄り道をしてみたくなったんだ。 

 ……文化祭での発表は、大成功だった。

 歌っている間、とても気持ちが良かった。

 きっと、自信を持って歌えたからだと思う。

 こんな経験、初めてだ。

 気付けば手に汗を握るほど、熱くなっていた心と身体。

 歌い終わった瞬間、「やりきった」という思いが同じだったのか、私たちは同時に顔を見合わせていた。

 直後。

 私たちの耳に聞こえてきたのは、講堂から溢れ出す程の拍手だった。

 たくさんの人が拍手や声援を送ってくれた。

 父も、母も喜んでくれた。

 特に母の方は、目に涙さえ浮かべて……。

 もっと早く気付けばよかった。

 母の、こんな姿が見られるなら。

 もっと早く思い出せばよかった。

 私の歌う意味を。

 私の伝えたかった想いを。

 何より大切にしていた、きっかけを。

 今さらながら、思う。

 私、歌うことが好きでよかった。

 歌うことから逃げ出さなくてよかった。

 これまでの私は、ずっと歌う意味を見出せないまま歌ってきたけど。

 これからは、想いを込めて歌おう。

「一人ぼっちの人なんて、いないんだ」って……。


 と、

「おはようございます」

 ふいに、声を掛けられる。

(……!)

 突然声を欠けられたことに驚いて、私は動揺しながらも会釈を返す。

 見れば、どこにでもいるような、普通のおじいさんだった。

 どこかで会ったこと、あったっけ?

「もう、高校生になったんだね」

(えっ?)

「おぼえていないかな?

 君が小学生のときも、ぼくは毎朝ここで君たちの行き帰りを見守っていたんだよ」

 そう言って、にこやかに笑う。

 よく見れば、おじいさんは他にもたくさんいて、みんな緑色のジャンパーを着ていた。

 背中には、「学校安全ボランティア」の文字……。

 そう言えば、この道路は車の往来が激しかったっけ。

 信号機もないし、小学生には少々危険な通学路だ。

 だから小学生の登校時間になると、ボランティアの人たちがあちこちに立って、通学を見守っている。

 覚えてないけど、私もお世話になっていたんだろう。 

 知らず、守られていたことに今になって気付く。

 それが少しだけ、恥ずかしかった。

 と、同時に私のことを覚えてくれていたことが、嬉しかった。

 私がハーフで、他の子とは違っていたから覚えていただけかもしれないけど。

 それでも、何だかすごく嬉しくて……。

 その日。

 私はあの頃返せなかった挨拶を、初めて自然に返せた気がする。

「行ってきます」、と。


 気持ちが変われば景色も変わる。

 町を歩けば、全てが新鮮な景色だった。

 それまで気付かなかったことにも気付けるようになった。

 朝、通学路で生徒の登校を見守る、学校安全ボランティアのおじいさん。

 子供たちが学校に行っている昼の間に、公園の掃除や花壇の手入れをしている、町内会のおばちゃん。

 夜になると町内を見回っている、PTAの父母さんや学校の先生。

 気付かないだけで、まだまだたくさんの人たちが、この町を守っている。

 雨の日も、風の日も、雪の日も。

 いつだって、誰かが私たちを守っている。

 差別も偏見もなく、誰もが誰をも守っている。

 この町は、何て温かいんだろう。

 だというのに、私は……。

「他人とは違う」という理由で、私自身が自分のことを差別していた。

 ずっと、一人ぼっちだと思い込んでいた。

 私は、何て薄情なんだろう。

 この町のために何をしてきたんだろう。

 この町の人のために何ができるんだろう……。

 そう考えたら、私はいてもたってもいられなくなっていた。

(私……変わりたい。

 ううん、変わらなきゃいけない) 

 自分自身のために変わらなきゃいけないんじゃなくて、誰かのために変わらなきゃいけない。

 これまでずっと、自分のために生きてきたんだから。

 私は自分を守ろうと、ずっと自分のことばかり考えて生きてきた。

 振り返ってみれば、私は誰かのために行動してきたことなんて、一度だってあっただろうか。

 リンの世話だって、優子ちゃんとの別れの日だってそう。

 結局、私は自分のことしか考えてこなかった。

 だから、今こそ私は変わらなきゃいけない。

 自分のことは、とりあえず後回し。

 これからは、誰かのために頑張ってみよう。

 誰かのために生きてみよう。

 それが私にできる、恩返し。

 私は、この町が好きだ。

 大切なことを教えてくれた、リン。 

 初めての親友、優子ちゃん。

 音楽サークルの仲間たち。

 学校の先生や、ボランティアのみなさん。 

 私たちを守ってくれている、たくさんの人たち……。

 大切なものなんて、当たり前のようにありすぎて、気付けないもの。

 私を守ってくれた、たくさんの人。

 私を支えてくれた、温かい思いやり。

 私を育ててくれた、夕陽のきれいな町。 

 一人ぼっちだった私を変えた歌……。

 あの「きっかけ」が、全てを教えてくれた。

 こんな温かい町が、ずっと変わらずにいてほしいと。

 私は、心から願う。


 そうして……。 

「それまで」の私は、少しずつ変わっていった。


ターニング 後編の終了です。

次のエピローグで完結です。

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