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◯
翌日、僕はイヴを誘って、国立劇場まで行った。まだ、日は高い。明るいところだと、劇場はなぜか大きく見えるような気がした。
「来たはいいけど、見学なんてできるのかな? こういうのって関係者以外入れないんじゃないの?」
「…………そうかも。ごめん、ここまで連れてきといて」
「そこまで気にしなくていいよ。ここに来るまで聞かなかったあたしも悪いし、それに入れなくても、君となら、いい思い出になるから」
イヴはそう言いながら、真っ白な頬を持ち上げる。急にこんな距離を歩かせてしまったせいだろうか。その顔色は明らかに悪かった。連れ立って歩いていたら、いつの間にか繋がれてそのままになっている手も、とても冷たい。
——......どこかで休まないと。
僕は劇場の入り口で、辺りを見回す。休めそうな場所は、すぐには見当たらない。
「——あれ、君、」
急に、後ろから聞き覚えのある声がして、僕は驚いて振り返った。
「やっぱり、兄さんのお客人じゃないか。どうしたんだい?」
そこには、マントを目深く被った「キナ」さんがいた。僕は、安心して胸を撫で下ろした。なんだ。彼、あるいは彼女だったのか。相変わらず、急に現れる人だ。
「あ、えっと、あたしたち、劇団を見学したくて来たんです」
「そうなんだね。いいよいいよ。兄さんのお客人とそのお連れさんなら、断る理由はないからね」
そう言いながら、キナさんは劇場の扉を開ける。マントのせいで、その表情はわからなかったけど、その声色は友好的だった。イヴと顔を見合わせて、ずいずい進んでいくその背を追った。
「あの、キナ、さん? お兄さんって……」
困惑しながら、僕はそう問いかける。あっという間に、舞台裏まで来てしまっていた。
「あれ、知らないのかい? ボクは……」
「弟君さま? どうされたのですか?」
長い髪を一括りにした女性が、僕らに近づいて来た。その顔には、どこか見覚えがある。じっと見つめながら考えていると、イヴが一足早く気づいて、僕に耳打ちした。
「彼女、昨日の夜の舞台で、主人公やってた人じゃない?」
気高い女性として、物語のなかを生きていた主人公に、目の前の女性が重なる。だけど、その表情はまったく異なっていて、まるで別人だった。顔がそっくりなだけの他人だと言われても納得してしまいそうだ。
「ああ、そうだった。ボクはもう行くから、お客人の案内をよろしく」
「え、は、はい!」
キナさんは素早くそう言うと、すぐどこかに行ってしまった。女性は、驚愕した様子でこちらを向く。だけど、すぐ明るい表情に変わった。
「君たち、昨日、関係者席にいた子だよね?」
僕は小さく頷いた。
「やっぱり! ねね、君たち、ちょっと噂になってたんだよ。あ、私たちの間でね」
そう言って、辺りを見回す。この劇団内で、という意味だろう。
「だって、あの右側の席に団長が人を通すなんて、初めてのことなんだよ! ね、君たちって何者? 団長の友達? 知り合い? どうやったら『神』とそんな関係になれるの? ね、教えて? 知りたい知りたい」
彼女は好奇心を隠そうともせず、言葉を重ねていく。その目は、純粋に爛々と輝いていた。
「……えっと、その」
イヴを庇いながら、僕は少し後退る。言葉に詰まって、何も言えなかった。イヴも、視線を彷徨わせながら、困った表情をしている。
「あ、待って待って、引かないで。ごめんごめん。私、強引だってよく言われるの。ほんとごめん」
頭を掻いて、その女性は咳払いをした。
「改めて! 私は、ラエティ。この劇団の主演女優の一人だよ。よろしく」
「……よろしく。僕は、イヴ」
「よろしくお願いします。あたし、イヴって言います」
僕はラエティと控えめに握手をして、イヴは軽く会釈をした。
「同じ名前なんだ! 素敵な偶然ね!」
彼女のその言葉に、僕らは揃って曖昧に微笑んだ。
「見学に来たのよね? じゃあ、なんでも教えてあげる。文字通り、舞台裏をね!」
そう言って彼女は、両手を広げた。イヴの目が急に爛々と輝き始める。公演に何度も通っていると言っていたから、その舞台裏には興味があるのだろう。彼女の白い頬に、心なしか赤みが差していた。
「この劇団の役者チームは、大体百人くらいで、全体だと、その倍くらいの人数だよ。昼と夜合わせて四公演、一ヶ月半は同じ話を繰り返すかな」
イヴが話を聞きながら、細かく頷いている。かなりわくわくしているようだった。
「『神』の語りが目当ての人ばかりだけど、私たちも楽しんでもらうために全力だよ。私は今回が初めての主役だから、特に気合いを入れてるんだ」
そう言って、彼女は拳を握る。
「いつか、憧れの『神』みたいな演技をすることが私の目標なの」
「……『神』ですか? でも、『神』は劇には出ないですよね?」
「今はね。でも、昔……、十年くらい前かな。舞台に立ってたの。主役の一人として」
——十年くらい前。
なんとなく、引っかかった。かなり前だ。子どもが大人になってしまう年月。そして、オルカさんが「例外」の話を聞いた頃、カインの言っていた贋物の「神」の話がまだ有名だった頃だ。
「団長は、国民のスターだったんだ。舞台に立つたび、まるで違う人みたいで、格好良かった。あの頃は、劇自体も、もっと注目されてたんだけどね」
彼女が、遠い目をする。舞台裏には、まばらにしか人がいない。数人が、夜公演で使うであろうセットを組み立てる音だけが、小さく響いていた。
「あの、あたし、劇を観てすごく感動しましたよ。目の前で大好きだった物語が再現されてて。この国での一番の思い出のひとつです」
イヴが真剣な顔でそう言うと、ラエティは心底嬉しそうな笑顔を見せた。
「そう? それなら、嬉しいな」
「それで、その、ずっと気になってたんですけど、夜公演の恋愛のほうのお話って、『花畑の女の子』ですか?」
「そう! よく知ってたね。確かに、その童話が元になってるよ」
「やっぱり! あたしの国の民話なんです」
「そうなの? 随分遠くから来たんだねぇ」
二人は楽しそうに言葉を交わしている。僕は、イヴが劇の内容について活き活きと質問するのをただ眺めていた。それだけで、今日来た甲斐があった気がする。そう思ったとき、僕は当初の目的をすっかり忘れてしまっていたことに気がついた。
そうだ。僕には聞きたいことがあったんだった。そのことでカインに勧められてここに来たのだ。
ふと、見つめていたイヴと目が合う。彼女ははっとすると、恥ずかしそうに口を開いた。
「……ごめん、あたしばっかり話しちゃってた」
「いいよ。楽しそうだったし」
「でも、君にも聞きたいことがあるんでしょ?」
「ん? なになに? なんでも答えるよ!」
首を傾げたラエティがこちらを見た。イヴは、余計な口を挟まないようにするためか、ぴったりと口を閉じている。
「……それじゃあ、その、贋物の『神』について、教えてもらうことはできますか?」
僕の言葉は、しん、とした空間に澱みなく響いた。




