14
◯
次の日、僕は普段通りの一日を過ごした。あっという間に、夜が来た。
「ごめん、遅くなっちゃった」
そう言いながらイヴが駆けてきたのは、店を閉めてから十分くらい経った頃だった。
「いいよ。行こうか」
僕はそう返して、二人並んで、ゆっくり歩いた。
前回と同様に辺りは人で溢れていたけれど、イヴが抜け道を教えてくれたので、人混みには巻き込まれずに済んだ。街灯の少ない裏道で、空いている道だった。ちょうど昨日知った、と彼女が自慢げに話してくれた。
「その代わり、少し遠回りなんだけどね」
それでも、余裕は充分にあった。
歩きながら、僕は他愛もない話をした。天気の話とか、今日店に来たお客さんの話とか。彼女は、楽しそうに相槌を打ってくれた。
しかし、昨日の夜のことは、どうしても話題にできなかった。僕はその部分だけを避けるように、出来事をなぞりながら話した。何故か、「予言」を持ち込んではいけないような気がしたのだ。後ろめたいことを隠すように、僕はただ楽しい会話を続ける。続ける度、僕の中にある罪の意識がさらに薄くなっていった。
夜の空気は、まだ冷たい。それでも、頭を冷やしてくれるような気がして、嫌いではなかった。自分がいま浮かれている自覚があるから、余計にありがたい。
時間はあっという間に過ぎていった。時計を見るともう半刻も経っていた。一方的に話し過ぎたと反省し、僕は咳払いをする。
「イヴは? 今日、何してた? 僕に教えてよ」
そう聞くと、彼女は少し困ったように笑った。
「えっと、あたし、今日は特に何もしてないかな。えへへ」
——実は、この時間が楽しみすぎて、何も手につかなかったんだ。
そう言って、目を背けた彼女の頬は、染まっていた。長い髪が、首に巻きつくように風に靡く。
——その瞬間、僕は気づいた。イヴは、何だか違う。普通の女の子と、何かが。
珍しい髪色と服のせいか、彼女はこの国の風景に馴染んではいない。だけど、馴染んでいるすべてを塗り潰すほど、特別な存在のように思えた。
——ああ、そうだ。目を引くのだ。
すぐ納得した。そこにいるだけで、歩いているだけで、僕の目は彼女に惹きつけられる。
僕は思わず足を止めた。頭の中で、影が揺れている。この感情は、きっといつか僕の中で形を成す。そんな予感がした。大きくて脆いそれの土台が、今出来た。
そして、この一瞬だけ、その思いが僕の中で未来の形に膨らんだのだ。
——…………だから、僕は、こんなにも……。
彼女に見惚れている僕の顔を、イヴが覗き込む。
「あれ、君、顔赤くない? 大丈夫? 寒いならあたしの服着る?」
そう言いながら、彼女は季節に合わない薄っぺらい上着に手をかけた。僕は慌てて彼女の行為を止める。
「だ、大丈夫! 寒くないから!」
「そう?」
空色の髪が、僅かな街灯から漏れる光を反射して星のように輝いていた。思わず、綺麗だと言いそうになる。僕の感情とは関係なく、それはあまりに美しかったからだ。
「……無理しちゃダメだからね」
その一言で、僕らの止まった足は動き始めた。一瞬で沸騰した僕の感情は、急激に元に戻っていく。一際冷たい風が吹いて、ようやく冷静になれた。僕の吐いた息が、風にさらわれて遠く消えていった。
気まずさを誤魔化すように、僕は横を歩く彼女を見る。イヴはどこか遠い目で、ふらふらと進んでいた。さっきまでは普通だったのに、今は心なしか息が荒い。顔はあまりに白く、目は少し充血している。彼女のほうが、よほど体調が悪そうだった。
「……足、まだ痛いの?」
初めて会ったときに傷めていた足が、まだ完治していないのかもしれないと思い、僕はイヴにそう聞いた。
「——え? ……ああ、大丈夫、だよ……だから、気にしないで」
イヴは、そう言って笑った。その笑顔に、僕は何も言えなかった。昨日の昼間、「いつか」と互いに言い合ったときの顔にそっくりだったからだ。飲み込んだ言葉を、詮索する権利は今の僕には無いのだ。有無を言わせぬ、その笑顔に黙るしか無い。
「——あ、そうだ」
イヴが、話題を変えた。あまりにわざとらしい転換だった。
「今日ね。あたしが普段とってるチケット、座席付きのやつが用意できなくてさ。一緒に立ち見席でもいいかな? ごめんね」
「うん、僕は大丈夫、だけど……」
僕は前回も立ち見をしたから、今さら座れないことに文句なんて言わない。それに元々、彼女がチケットを用意することなんて当てにしていなかった。でも、イヴのことを思うと少し心配だった。
彼女は歩くのが遅い。僕はさっきから、度々立ち止まって、彼女を待っている。それに、イヴは時たま疲れたように息を吐いて、休むことを繰り返している。今日初めて気づいたけれど、彼女は体力があまりないのだと思う。
そんな彼女が、数時間も人波のなかで立ち続けるのは、無茶なのではないか。僕はそう思ったのだ。途中で体調でも崩したら大変だ。
——彼女だけでも、腰を下ろせたら……いや、二人で観ようって約束したし…………。
「……あ、」
急に、一つ思い出した。
「どうしたの?」
イヴの声を聞きながら、僕は、前回も着ていた上着のポケットを探る。直ぐに、くしゃくしゃになった紙が手に触れた。そう、チケットを入れっぱなしにしていたのだ。「神」からもらった。押しつけられたあのチケットを。
「イヴ、僕らの席、あるよ」
心の奥で、何かが揺れた。好奇心が疼いているのだ。僕のなかにある、知りたいという根源的な欲求だ。
「え? どういうこと? 君、チケット取ってたの?」
僕は、曖昧に微笑んで、目線の遠くにそびえ立つ、国立劇場をただ眺めた。
「……ううん。えっと……貰ったんだ」
チケットは、風に揺らされてはためいている。
——これを使ったら、どうなるんだろう。
あの「神」はどんな顔をするだろう。
避けようとしていた選択肢に勢いのまま飛び込むのは、無謀だろうか。だけど、友達のためだから、そう言い訳をすることにした。
——何より、イヴが驚く顔を見たいと思ってしまったから。初めての事に、一緒に驚きたいと、思うから。




