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”狼人間”たちの数は、ここで目にした時の倍以上にまで増えていた。
ご丁寧に、仲間を連れてきたと見える。
ぼくはすっかり無感覚になって、ぼんやりと凶獣たちをながめる。
はじめはうろうろとぼくの周りを、用心深く探っていたが、次第に大胆に距離を詰めてくる。
やがて、安全を確信したのか、群れのうちから一頭が素早くぼくに近寄ってきた。
風がぼくの頬をなぶった。
突き飛ばされたように、ぼくは横倒しに吹き飛ばされた。
胸元から、アウナの首が転げ出した。
ぼくは激しく動揺し、アウナの首を抱えなおそうとする。
が、うまくいかない。
しっかりと持とうとしているのにもかかわらず、なぜかきちんと固定できず、転がり落ちそうだ。
片手で抱え込む。
もう片方の腕が、奇妙に頼りない感じがして、ぼくはそちらへと目を向けた。
肘から先が、消失していた。
どおりでおかしいと思った。片腕がなくなってるのに気が付かなかった。
中途半端に残った腕は、妙に軽い。断面から血があふれるように流れ出していた。
ぼくに攻撃してきた”狼人間”は、地面からちぎれた腕を拾い上げていた。
永く突き出した鼻先を近づけ、子細に嗅いでいる。
不意に大きな口が裂けるように開いた。
ひしめく鋭い歯がむき出しになり、ぼくの腕にかじりつく。
がりがりと骨をかみ砕く音と共に、”狼人間”は食いちぎった肉片をあわただしく飲み込んでいった。
間違いない、ぼくは食われる。
それに、この腕の傷では、もう命は助からない。
これまでなんだかいろいろ逃げてみたり、戦ってみたりしたけど、結局はここで終わりか。
それもまあ、構わない。
どうせ、生きてるうちに何をやっていようと、どういう人間であろうと、死ぬことだけは避けられないし、死んだらどこからも消えてしまうって言う結果だけは、誰だって一緒なんだ。
畢竟、遅いか早いかの違いだ。
いまさらなんの感慨もない。
ただ、待つだけ。……
様子見していた他の獣たちが、いまや遠慮をかなぐり捨てて迫ってきた。
来たか。
悪臭を放ち、くぐもったうなり声を漏らしながら、近づく獰猛な肉食獣たちを、ぼくは期待のまなざしで見上げた。
しかし、突如として獣たちの間に緊張が走った。こちらへの歩みを止める。
「軍団長! 加勢に来たっす!」
背後から勢いのある声が聞こえた。
のろのろと振り向くと、湾曲した長剣を振り上げたエンカラが立っている。
エンカラはぼくを見ると、力強くうなずいた。
「心配しなくても、大丈夫っす! 俺が来たからには、安心して見ててください!」
……こいつは、何を言ってるんだ?
あきれるぼくの前で、エンカラは猛然と獣たちに挑みかかる。
獰猛な獣の咆哮と、長剣が空を裂く音が入り乱れた。
踏み荒らされた地面から土くれが飛び、生温かい血しぶきがまき散らされる。
エンカラと獣たちが激しく行き交い、刃と爪が触れて火花が散った。
やがて、辺りは静まり返り、立っているのはエンカラ一人だった。
血にまみれたエンカラは、息を弾ませながらぼくのそばへ来た。
「こりゃ大変じゃないっすか。腕が取れてんじゃん!」
あわてたエンカラはぼくの引きちぎられた腕を手に取った。
すでに大量の血液が流れ出し、ぼくの意識はもうろうとしつつある。
背負ったリュックサックを下し、エンカラは荷物を次々と引っ張り出した。見覚えのある物がいくつかある。治療用の道具だ。縫合テープ、止血ジェルと防護クリーム……。
「よせよ。いいから、ほっといてくれ」
エンカラは首をかしげてぼくの顔を覗き込む。
「は? 何言ってんすか。ほっとくわけないでしょ。それか、自分でやるんすか?」
「だから、ほっといてくれって!」
ぼくは身をよじってエンカラから離れようとする。驚いたようにぼくを見ていたエンカラは、突然、怒ったような表情で、ぼくを乱暴に抑え込んだ。
地面に組み敷かれたぼくの腕から、アウナの首が転がり出た。
ぼくはパニックを起こし、アウナのほうへ手を伸ばす。
が、わずかに届かない。
アウナの顔が、ぼくのほうを向いていた。
エンカラはぼくを押さえつけたまま、状況を察したようだった。訳知り顔でうなずく。
「アウナ食われたんすか。でも、軍団長は助かってよかったっすね」
死に物狂いでぼくは暴れたつもりだった。だが、大量の出血のためだろう、驚くほどに腕力が弱っていた。
それでも、落ち着きなく身動きするぼくにエンカラは手を焼いているようだ。
「あんまり暴れないでくださいよ。死んでも知らないっすからね」
「離せ……」
短い呼吸が重なり、肺にのしかかるようだ。息がつまり、気が遠くなった。自分のものではないかのごとく、四肢は脱力し、だらりと地に伸びた。
「痛いかもしれないけど、我慢してください」
なすすべもなく、腕に応急処置が施されていくのを、ぼくは見ているしかなかった。
体力がなくなっているのを顧みず、無理に暴れた結果、息をしているのがやっとだった。
力なく横たわるぼくを、エンカラはまじまじと見つめている。困ったように頭をかいた。
「参ったな、軍団長。あんた、卑怯っすよ」
お前に言われなくてもわかってる。ぼくが卑劣だってことくらい……それでぼくは大事な人を死に追いやってしまったんだから。
本当だったら、怒りに駆られたかもしれない。
だが、今のぼくにはそんな気力もなかった。淡々とエンカラの言葉を聞き流すだけだ。
エンカラは、奇妙な具合に顔をひきつらせた。
これまでエンカラが見せたことのない顔つき、だがぼくはどこかで見たことのある醜悪なものだ。
思い当たった。
以前、アウナが……またアウナか。ぼくの頭はアウナのことばかりだ……アウナが、ぼくに倒された時だ。アウナの受容器は、しっぽだった。それをぼくが切断したために、アウナは魔力がほとんど使えなくなってしまった。
それは、魔力によって強大な力を支える”半神”にとって死刑宣告にも等しい。
力を失ったアウナは見かけにふさわしい脆弱な存在へと堕し、恨みを持つぼくの部下たちは、無力なアウナをなぶり殺しにしようとした。
その時、部下が浮かべていた表情に、エンカラが見せる今の相貌は酷似していた。
エンカラは困惑しつつも、切迫したようすだった。
「軍団長……あんた、俺がこーゆーの好きって知ってました?」
ひじから先がなくなったぼくの腕を、エンカラは気に入ったオモチャのように楽しげに揺すった。
わけがわからない。
だが……こいつは……どうかしてる。
不人気ゲーム”虹の門”に、今どき巣食っているような連中は、普通のゲームに飽きたマニア、変わりもの好きの天邪鬼、ぼくみたいなヒマ人……そして、変質者くらいのものだ。
ゲームで執拗に繰り返される、”モンスター”たちの、あるいはプレイヤーキャラクターのリアルすぎるケガや死の、そして腐敗の描写。それは一般的には忌み嫌われるもののはずだが、逆に魅せられる者たちもいる。
エンカラが、そうだったのか。
何をするつもりだ? ぼくを殺しでもするのか。それならさっさとするがいい。
まじまじとぼくを見つめていたエンカラは、感極まったように息を吐き出す。
「やっぱりおれは、あんたが好きだな。その真面目くさったカンジ、よわっちい性格、くよくよいじけてるのが……どうしようもなくクルんだわ」
やにわに、エンカラはぼくの衣服を脱がし始めた。
「なあ、あんたこんな改造知ってます? キャラ同士でセックスするっての。もちろんおれはできるけど、あんたはどうなんだ?」
バカらしくて答える気も起らない。
そんな改造、するわけがない。確かに高精度のVRデバイスを通してなら、現実と寸分たがわぬ、いや、それ以上のセックスができるってことは知ってる。でも、ゲームはあくまでゲームシステム内でどのようにサバイバルするかという醍醐味を追及するための場であって、たかがセックス如きを楽しむためにゲームをするなんて、邪道だ。愚かで恥ずかしい行為だ。
そんなぼくとセックスしようとするのか、こちらの都合なんてまるで頭にもなく。
こいつは、クソ野郎だ。
……と、断定する根拠がぼくにはもうない。ぼく以下の人間なんて、この世に存在しないのだから。
抵抗する気力もあらばこそ。
いそいそとエンカラはぼくの肉体に自らの体を重ねる。小刻みに体をゆすり始めるや、だらしなく顔をゆるませた。
ぼくはこんな重傷を負っているのに、構わず自分の目的を追求することにだけに専念している。
惨めだ……。ぼくは、心だけでなく体でもアウナを裏切ってしまうのか。
せめて、こんなぼくを見ないでほしい、アウナ……。
願いもむなしく、アウナの首はわずかに手の届かない場所で、ぼくに静かにほほ笑みを向けていた。
もしかして、アウナの優美な唇の曲線は、ぼくに向けた嘲笑なのではないだろうか。
ぼくは結局、アウナには許されていないじゃないか。
視界が真っ暗になるような思いだった。
ぼくは一人だ。
ぼくはひとりぼっちだ。
肌を合わせながら、エンカラはぼくの気持ちなど考えてもいない。
そして、アウナまで、ぼくをさげすんでいる。
光ひとつない闇の底で、矮小なぼくはたった一人でうずくまっている……。
地獄だ……”虹の門”は、ぼくのためだけの、地獄なんだ……。
苦悩だけで死ねるなら、どんなによかったろう。ぼくは今すぐにでも消えてしまいたかった。
が、エンカラは甘ったるい声音を出して、ぼくにささやいた。
「おれだけ気分だしてもつまんねーからさ、あんたにも分けてやるよ。マグロは嫌いだしな」
巨大な重力で押しつぶされ、平板になってしまったような気持ちのぼくには、肉体の感覚なんかとっくに消えていた。
それなのに、体の奥底から、熱せられた水の中に泡が生じてくるかのように、奇妙な疼きが生まれつつあった。
プチプチとはじけながら、小さな泡は徐々にその数を増し、ぼくを構成する細胞のひとつひとつを熱し、甘いクリームのようにとろけさせてゆく。
……あれっ?
これは……ヤバいぞ……。
ぼくの体が……おかしい……!?
我知らず、ぼくは声を上げていた。
上気したエンカラが哄笑する。
「いいね! 嫌なんだろ? 本当は、声なんか出したくないんだろ? でも、あんたが体を持っている以上、感覚にはゼッテー逆らえねーんだぜ! どうだよ、感想はどうだってんだ!」
全身から、つきあげてくる反応を押しつぶし、耐え忍びながら、ぼくは恐怖していた。
「なにをした……?」
「あんたの体はゲーム向けに調整されてる。本来備わっているいくつかの感覚がブロックされてんだな。そのブロックを外してやったわけ」
こともなげにエンカラは答えた。
しかし、その答えすらぼくにはほとんど聞こえなかった。
すでに巨大な波に翻弄されるかの如く、ぼくは生まれて初めて知った快楽にもみくちゃにされていたからだ。
「こんなことはおれたちには簡単なことさ。もともとこのインターフェースを作ったのはおれたちなんだから。しょせん借り物に乗り込んでるだけのあんたらには、見当もつかないだろうがね」
エンカラがいったん身を離したときには、ぼくは全身を縦横に駆け巡った恍惚の余韻に酔っていた。
変態クソ野郎になぶられていた時だけは、アウナにまつわる懊悩は跡形もなく消えてしまうことを知ってしまった。
悠然と地面に胡坐をかき、ぼくを所有物のように無遠慮に観察するエンカラは、淫蕩な笑みを含んだ声を出した。
「さて、一回だけじゃ、全然足りねーだろ。こっちもまだ解析は済んでねーから、もうひと頑張りさせてもらうわ」
快楽におぼれ、ひと時でもアウナを忘れたぼくには、以前に倍する慚愧が襲い掛かってきた。
最後に残されたたった一つの苦痛すら、ぼくは容易に手放してしまえるのか。
ぼくは、どうしてこんなにくだらない安っぽい人間なんだろう!
そして、その苦しみからほんのひと時でも逸脱できる方法を覚えてしまった今、ぼくは羞恥にまみれようとも、それを繰り返さずにはいられない。
「どうする? あんたが協力してくれれば、もっといい感じになれるぜ」
ぼくを断罪する裁判官のように、エンカラの優しい声が耳に響いた。
さながら飢えた者が食べ物に飛びつくかのごとく、ぼくはエンカラの肉体を求めて手を伸ばした。
「よしよし、良い子だな」
満足げなエンカラの声が聞こえる。
ほんのわずかな時間で、ぼくは身も心もエンカラに頼り切っていた。
もうぼくはひとりじゃない。
ひとりですらなくなってしまった……。




